舊唐書卷一百 列傳第五十 李傑

河南の善政

  • 李傑、本名は務光、相州滏陽の人。後魏の并州刺史李寶の子孫で先祖は隴西から移り住んだ。傑は幼くして孝友をもって知られ明経に及第、天官員外郎に累進し明敏な吏才で当代の評判を得た。神龍初、衛尉少卿に累進し河東道巡察黜陟使となり、各使中で最高の評価を得た。開元初、河南尹となり、訴えがあれば道すがら食事中でも処断を欠かさず、そのため官に滞る事務がなく人々に愛された。以前、河・汴の間にあった梁公堰が長年破損し江淮の漕運が滞っていたのを、傑は汴・鄭の丁夫を動員して浚渫させ短期間で完成させ公私共に大いに利をもたらした、水辺に石を刻んでその功績を記した。
  • まもなく宋璟に代わり御史大夫となった。皇后の妹婿である尚衣奉御長孫昕とその妹婿楊仙玉が路地で傑に出会い殴りかかった事件が起き、玄宗は激怒し斬罪を命じた。散騎常侍馬懐素は陽和の月(春)に刑を行うべきでないとしてしばしば上表したが、玄宗は「令は身近な者から遠い者に及ぼし、刑罰は親しい者から先に及ぼすもの、長孫昕らは姻戚を頼み凶悪な振る舞いをし常憲を軽んじ大臣を侮辱した、これは容認できず斬決を命じた。群官の諫言は懇切であるが、決した以上、決処して百僚に示すべき」と述べこれを決行した。
  • 傑は翌年、橋陵の造営を護った功で武威子に封じられた。造営を護る際、侍御史王旭を判官に引き立てたが、旭が収賄を行い傑がこれを正そうとして事実を掴めず、逆に旭の讒言で衢州刺史に出された。まもなく揚州大都督府長史に転じたが、また御史に弾劾され免官となり自邸に帰った。まもなく卒去、戸部尚書を追贈された。