舊唐書卷一百 姚崇・宋璟
武后朝から玄宗朝にかけて相次いで宰相を務めた姚崇と宋璟の合伝。姚崇は武后への直言で信任を得たのち、玄宗のもとで蝗害への対処など実務手腕を発揮し「救時の相」と呼ばれた。宋璟は張易之兄弟の専横に屈しない剛直さで知られ、開元初年には吏部の弊を正し倹約と法の厳正な運用を説いた。両者とも武后・韋后期の乱政の余波の中で身を処し、開元の治世を支えた宰相として並び称される。
年表(20件)
- 聖暦初年(頃)698年則天への直言で酷吏による冤罪追及の実態を説く
- 長安四年704年母の老いを理由に辞職を願い出て相王府長史となる
- 神龍元年705年張易之兄弟誅殺の功により梁縣侯に封じられる
- 神龍元年705年則天への哀悼を咎められ亳州刺史、のち常州刺史に出される
- 先天二年713年兵部尚書・同中書門下三品に復帰し、開元改元にあわせ崇と改名する
- 開元四年716年山東の蝗害に対処し焼却埋葬の法を進言する
- 開元九年721年薨去。享年七十二、揚州大都督を追贈される
- 開元十七年729年太子太保を重ねて追贈される
- 天寶元年742年孫の閎が牛仙客の名を偽って表を作った事件で死罪となり、弈も左遷される
- 長安年間(~704年)701年張易之の誣告から魏元忠を守るよう張説を説く
- 神龍元年705年吏部侍郎に遷り諫議大夫・内供奉を兼ねる
- 開元四年716年吏部尚書に遷り黄門監を兼ねる
- 開元七年719年王皎の墳の高さを巡り厚葬を諫める
- 開元十二年724年玄宗の東巡で留守を務め得失を極言する
- 開元十七年729年尚書右丞相に遷り張説・源乾曜と同日に拝官する
- 開元二十年732年老いを理由に致仕を願い出て許される
- 開元二十二年734年東都行幸の玄宗に道端で出迎え、栄王の労いを受ける
- 開元二十五年737年薨去。享年七十五、太尉を追贈される
- 天寶九載750年子の渾・恕らが贓罪で嶺南・海康郡に流される
- 広徳以後763年渾が太子諭德に任じられるも世論に軽んじられる
姚崇――出自と武后朝での抜擢
- 姚崇、本名は元崇。陜州硤石の人。父の善意は貞觀年間(627年~649年)、巂州都督を務めた。元崇は孝敬皇帝(李弘)の挽郎となり、下筆成章挙に応じて濮州司倉に任じられ、五たび遷って夏官郎中となった。契丹が河北の数州を侵し軍務が輻輳した際、元崇は次々と的確に処理して条理立てて処断したため、則天はこれを大いに評価し、夏官侍郎へ抜擢、間もなく同鳳閣鸞臺平章事とした。
姚崇――則天への直言
- 聖暦初年(698年頃)、則天は側近に対し、周興・来俊臣らの詔獄推問で臣下が次々と反逆の自白に追い込まれた件について、冤罪ではなかったかと問うた。元崇は、垂拱以後に告発され身を滅ぼした者はみな酷吏の脅迫による虚偽の自白であり、告発を功とする風潮は漢の党錮の禍より酷いものだったと答えた。近臣を派して獄中で確かめさせても、近臣自身が保身のため動揺できなかった事情を説き、将軍張虔勗・李安靖らの例を挙げた。そのうえで、以後内外の官に反逆者はいないことを自らの一門百口をかけて保証し、以後は告発があっても取り調べず、後に反証があれば自分が知りながら告げなかった罪を受けると申し出た。則天は大いに喜び、これまでの宰相はみな事を成すに任せ自分を酷刑の君主に陥れていたが、卿の言葉は朕の心にかなうと述べ、その日のうちに銀千両を賜った。
姚崇――改名と中宗朝への移行
- 突厥の叱利元崇が謀反を起こした際、則天は元崇と同名であることを嫌い、元之と改名させた。まもなく鳳閣侍郎に遷り、引き続き政事に参与した。
- 長安四年(704年)、元之は母の老いを理由に侍養のため辞職を願い出て、その言葉は哀切であったため、則天はやむなくこれを許し相王府長史に任じ知政事を罷めさせた。同月、夏官尚書事を兼ね同鳳閣鸞臺三品とする命が下ったが、元之は相王に仕えて兵馬を知るのは相王のためにならないと固辞し、春官尚書に改められた。この頃、張易之が京城の大徳僧十人を定州の私寺に移そうとした際、元之は僧たちの訴えを容れてこれを止め、易之にたびたび迫られても応じなかった。このため易之に讒言され、司僕卿に改められたが知政事はそのままとし、霊武道大総管を兼ねさせられた。
- 神龍元年(705年)、張柬之・桓彦範らが張易之兄弟を誅する謀に、軍から都へ戻った元之がたまたま加わり、功により梁縣侯に封じられ実封二百戸を賜った。則天が上陽宮に移された際、百官が慶賀するなか元之ひとり嗚咽して涙を流した。桓彦範・張柬之に「泣くべき時ではない、禍が及ぶぞ」と諫められると、元之は、長年仕えた旧主との別れを悲しむのも臣子の道であり、それで罪を得るなら本望だと答えた。まもなく亳州刺史、次いで常州刺史に出された。
姚崇――睿宗朝と太平公主との対立
- 睿宗の即位後、兵部尚書・同中書門下三品に召され、まもなく中書令に遷った。当時玄宗は東宮にあり、太平公主が朝政に干渉し、宋王成器は閑厩使、岐王範・薛王業は禁兵を掌握しており、世論はこれを不安視した。元之は同僚の宋璟とともに、太平公主を東都へ移し、成器ら諸王を刺史として出すよう密奏し人心を安んじようとした。睿宗がこれを公主に告げると公主は激怒し、玄宗も元之・璟らが兄弟を離間させたとして罪を加えるよう上疏したため、元之は申州刺史に貶された。その後揚州長史・淮南按察使に転じ、簡素で厳正な政治を行い、人々は徳を頌える碑を立てた。まもなく同州刺史に転じた。先天二年(713年)、玄宗が新豊駅で講武を行った際、元之を召して郭元振に代え兵部尚書・同中書門下三品とし、再び紫微令に遷した。開元の尊号を避けて崇と改名し、梁国公に進封されたが、実封は固辞して停止させ、代わりに新たに百戸を賜った。
姚崇――度僧の停止
- 先には、中宗の頃に公主・外戚がこぞって僧尼への得度や私財による造寺を奏請し、富戸強丁が役を逃れるため僧籍に入り、僧尼が遠近に満ちていた。崇は、仏は心の中に求めるものであり、仏図澄の賢や羅什の才も国の滅亡を救えず、何充・苻融も梁武帝・北斉の襄も災いを免れなかったことを挙げ、慈悲の心をもって民を安んじることこそ仏の本質であって、みだりに奸人を得度させ正法を損なうべきでないと奏した。玄宗はこれを容れ、有司に僧徒を検査させ、偽って濫りに得度していた者一万二千余人を還俗させた。
姚崇――蝗害への対処
- 開元四年(716年)、山東で蝗害が大発生した。崇は『毛詩』や漢光武帝の詔を引き、蝗は人を恐れる性質があるため駆除しやすく、苗稼には地主がいて救護に労を惜しまないはずであり、夜に火を焚いて坑を掘り焼き埋めれば根絶できると奏した。しかし山東の百姓は香を焚いて祈るばかりで手を出さず、汴州刺史倪若水は、蝗は天災であり徳を修めるべきで、劉聰の時代の駆除は失敗し害を深めたと奏して御史の命に従わなかった。崇は激怒し、劉聰は偽主であったが今は聖朝であり、座視して食い荒らされるままにすれば飢饉を招くと牒を送って叱責した。若水はついに焼却埋葬の法を行い、蝗一十四万石を得て、汴渠に投じ流したものは数えきれなかった。朝廷では駆蝗を不可とする議論が喧しく、玄宗が改めて崇に問うと、崇は魏の時代に山東で蝗害を小さく見て除かず苗稼が尽き人が互いに食い合った例、後秦で禾稼・草木・牛馬の毛まで食い尽くされた例を挙げ、経に反しても道理にかなう対処があると説き、除ききれずとも養って災いにするよりましだとし、失敗すれば自らの官爵を全て返上すると申し出て許された。黄門監盧懐慎が、蝗は天災で人為に制すべきでなく殺生が多すぎると諫めると、崇は楚王が蛭を呑んで病が癒えた故事や孫叔敖が蛇を殺した故事、趙宣・孔子の故事を引き、人を安んずるための処置だと説き、責めは自分一人が負うと答えた。懐慎も遂に崇の意に逆らわず、蝗害は次第に収まった。
姚崇――宰相としての専断と晩年の躓き
- このころ玄宗は即位したばかりで徳政に努め、軍国の重要事はほとんど崇に諮問され、同時の宰相盧懐慎・源乾曜らはただ頷くのみであった。崇は重任を一人で担い吏務に明るく決断は滞らなかったが、子の光禄少卿彜・宗正少卿異が賓客と広く交わり贈答を受け取ることを許していたため世の批判を招いた。崇に信任されていた中書主書趙誨が蕃人から賄賂を受けた事件が発覚し下獄処死となったが、崇が自ら奏して助命を図ったため玄宗は不快に思った。その冬の大赦の際も勅文に趙誨の名を特に挙げ、杖一百のうえ嶺南へ配流させた。崇は以後憂懼し、しばしば直接宰相の座を退くことを願い出て宋璟を推挙し、洛水で自ら得た代わりの人材があるとして開府儀同三司を授かり知政事を罷めた。
姚崇――太廟の崩壊への対応
- しばらくして玄宗が東都行幸を控えたところ太廟の屋根が崩れ、玄宗は宋璟・蘇頲を召してその故を問うた。璟らは三年の喪に服す期間が終わっておらず行幸すべきでないと奏した。玄宗はさらに崇に問うと、崇は、太廟の建物はもと苻堅の時代の建築で、隋文帝が新都を興した際に宇文氏の旧殿を移して用い、唐もその隋の旧制を受け継いだため年月を経て朽ちたのであり、行幸の時期と偶然重なっただけで行幸のために崩れたのではないと答え、東都の百司も既に準備を整えており天下への信を失うわけにはいかないと述べた。そのうえで旧廟は修理できないほど朽ちているので神主を太極殿へ移し、新廟を改めて造営して敬意を示すべきであり、行幸はそのまま行ってよいと進言した。玄宗はこれに深く同意して絹二百匹を賜い、七廟の神主を太極殿に移させ新廟を造らせた上で東都へ行幸した。以後崇は五日に一度参内し閤中の供奉を許され、格別の厚遇を受けた。のちに太子少保に任じられたが病のため受けなかった。開元九年(721年)薨去、享年七十二。揚州大都督を追贈され、諡は文獻。
姚崇――遺令(薄葬の訓戒)
- 崇は生前すでに田園を子や甥に分け与え、各自にその分を守らせ、あわせて子孫を戒める遺令を残した。
- 遺令はまず、富貴は人の怨みを招くものであり、貴なれば神がその満ちるを忌み人がその上位を憎み、富めば鬼がその家を狙い盗賊がその財を狙うとし、徳が薄く任が重いのに寿命を全うできた者は史書にいないと説く。范蠡・疏広のように止足を知る先例に及ばぬ身でありながら久しく寵を得てきたことを憂い、中書令在任中に病んでも職務を怠らなかったこと、賢を推挙して自らに代えることを願い続けやっと許されたことを述べ、余生を園沼で気ままに過ごせたことに満足すると記す。田巴の「百年の期に至れる者はいない」、王羲之の「あっという間に過ぎ去るもの」との言葉を引き、まさにその通りだとする。
- 続けて、高官が没した後に子孫が庇護を失い貧窮に陥り、わずかな遺産を巡って争う例が多いことを憂い、莊田や水碾を共有のままにして荒廃させることのないよう、陸賈・石苞の故事にならい生前に分配を定めておく意義を説く。
- さらに、孔子の母の墓が壊れても修めなかった故事、梁鴻が父の葬に薄葬を用いた故事、楊震・趙咨・盧植・張奐ら当代の識者がみな薄葬を遺言とした先例を引き、真の魂は肉体を離れて速やかに朽ちることを尊ぶものであり、厚葬をもって忠孝とし薄葬を吝嗇とみなす俗説を厳しく戒める。死者に知覚がなければ厚葬は無用の浪費であり、もし知覚があるなら神は棺にとどまらないのだから、なおさら厚葬は無用だとする。自らの死後は常服のみで殮し、冠衣・紫衣玉帯の類は決して棺に入れぬよう子孫に命じ、冥途は質素を尊ぶものだと諭す。
姚崇――遺令(仏教批判)
- 遺令は続けて仏教への浪費を戒める。今の仏典は羅什の訳によるものだが、羅什を厚遇した後秦の姚興が府庫を傾けて浮屠を造営しながら天命を延ばせず国も滅んだこと、北斉が広く僧徒を置き仏力に頼りながら周に滅ぼされたことを挙げ、造福の報いのなさを説く。梁武帝が皇帝の身で仏に仕えて奴となり、北魏の胡太后が出家しながらいずれも身を滅ぼし国を破ったこと、近くは中宗・太平公主・武三思・韋后・張夫人らがこぞって得度・造寺に励みながらみな戮せられ家を破ったことを引き、経の説く「求めれば得られる」との利益が実際には見られないことを指摘する。五帝・三王の代にはまだ仏教はなかったが人々は長寿を得ていたとし、『宋書』西域伝所収の「白黒論」の理を薦める。
- さらに、仏とは覚りのことであり心の内にあるものであって、平等の慈悲を行い善をなせば足りるのに、俗説に惑わされ経像の造立に家産を傾けるのは大きな誤りであるとし、亡者のための造像・追福も、施す側の発心にこそ功徳があるのであって他者の代行が報いを得られるはずはないと説く。死は誰にも免れられぬ常であり、経像を造ってもどうにもならないと断じる。
- 最後に、子孫に対し正法を心に持ち俗説に惑わされぬよう戒め、自分の死後は決して厚葬の弊法を行わず、やむを得ず俗情に従う場合も初七日から七七日までの僧斎にとどめ、布施は自分の遺した衣類等を充て、他の財を無益に費やしたり私財を追福の名目で持ち出したりしないよう命じる。あわせて、道士が近年僧家の利に倣って斎を模すようになったことも本来の老子の教えにない邪道だとして子孫に近づかぬよう戒め、この遺令を子々孫々守るよう結んでいる。
姚崇――追贈と子孫
- 開元十七年(729年)、崇に太子太保を重ねて追贈した。
- 長子の彜は開元初年に光禄少卿となった。
- 次子の異は坊州刺史となった。異の子で崇の少子にあたる弈は幼くして謹厳で知られ、開元末に礼部侍郎・尚書右丞となった。天宝元年(742年)、右相牛仙客が薨じた際、彜の子で侍御史・仙客の判官であった閎が、仙客の病篤きに乗じてその名で表を作り、弈と兵部侍郎盧奐を自らに代えて宰相にするよう請わせた。この事が仙客の妻から中使を通じて奏上されると玄宗は怒り、閎は死罪、弈は永陽太守、盧奐は臨淄太守にそれぞれ左遷された。
- 崇の玄孫の合は進士に登第し、武功尉を授けられ監察御史に遷り、給事中を終官とした。
宋璟――出自と武后朝での剛直
- 宋璟、邢州南和の人。その先祖は広平より移り住み、後魏の吏部尚書弁の七代の孫にあたる。父の玄撫は璟の顕貴により邢州刺史を追贈された。璟は若くして耿介の節操があり博学で文才に優れ、弱冠で進士に及第し、たびたび遷って鳳閣舎人となった。職にあっては厳正で、則天も大いに重んじた。長安年間(701年~704年)、寵臣張易之が御史大夫魏元忠を不順の言があったと誣告し、鳳閣舎人張説にこれを証言させようとした。張説が対質に臨む前に恐懼していると、璟は名義は重く神明は欺けないとし、邪に党して正を陥れて免れを求めてはならない、もし直言して左遷されればそれこそ名誉であり、万一のことがあれば自分も共に閤門を叩き殉じると説いた。張説はこれに感じ入り、対質では元忠を弁護し元忠は死を免れた。
宋璟――張易之兄弟との対決
- 璟はまもなく左御史台中丞に遷った。張易之・昌宗兄弟がますます横暴になり朝廷の多くがこれに媚びていたが、昌宗が相人李弘泰に私かに吉凶を占わせ不順の言があったことが密告された。璟は法廷でこれを徹底追及するよう奏したが、則天は易之らが既に自首したので罪を加えないとした。璟は、易之らが露見して初めて自陳したのであり情において許しがたく、謀反大逆は自首では免れられないとして御史台での取り調べを求め、自分に禍が及ぶと承知のうえで死をも恐れないと述べた。則天は不快がり、内史楊再思は勅を偽って璟に退出を促したが、璟はそれを拒み、勅なら天子の面前で直接受けるべきで宰相が勝手に伝えるものではないとした。則天はやや態度を和らげ易之らを台に収めて取り調べさせたが、まもなく特赦が下り、易之らに璟へ謝罪させようとしたものの璟は拒んで会わず、公事は公の場で言うもので私に会えば法の公正が保てないと述べた。
宋璟――剛直の逸話
- 璟がかつて朝堂の宴に侍った際、易之兄弟はすでに三品の列卿であったが璟はなお六品で下座にあった。易之は璟を恐れその機嫌を取ろうとして上席を空け「公こそ第一人者、なぜ下座に」と誘ったが、璟は「才は劣り官品も低いのに張卿が第一人者と言うのはなぜか」と切り返した。当時の朝廷では二張への寵愛から官名を呼ばず易之を五郎、昌宗を六郎と呼ぶのが常であったが、天官侍郎鄭善果が璟に「なぜ五郎を卿と呼ぶのか」と問うと、璟は、官職で言えば正しく卿と呼ぶべきで、私的な間柄で言うなら張五と呼ぶまでで、貴殿は易之の家奴ではないのになぜ郎などと呼ぶのかと答え、鄭善果の卑屈さを嘆いた。剛正はみなこの類であり、易之らは常に璟を陥れようとしたが則天がその実情を察していたため難を免れた。
宋璟――中宗朝
- 神龍元年(705年)、吏部侍郎に遷った。中宗は璟の正直さを嘉し諫議大夫・内供奉を兼ねさせ、朝廷の得失を言上させた。まもなく黄門侍郎を拝した。武三思が寵を恃んで権を執り璟に取り入ろうとした際、璟は正色して、今上は既に政を子(中宗)に返しており王(三思)は侯として邸に留まるべきで朝政に関与すべきでない、呂産・呂禄の禍を見ないのかと戒めた。京兆の韋月将が三思の宮中との内通と将来の禍患を訴えたが、三思は有司に大逆不道と奏させ中宗は誅殺を命じた。璟はその罪状を明らかにするよう執奏し、月将は極刑を免れ嶺南に配流されて没した。
宋璟――地方官への左遷
- 中宗が西京へ幸した際、璟は并州長史権検校を命じられ、赴任前に貝州刺史検校も兼ねさせられた。当時河北は水害が相次ぎ百姓は飢えていたが、三思の封邑が貝州にあり専使を派して租賦を徴させようとしたのを璟は拒んで応じず、これにより三思に排斥された。その後杭州・相州の刺史を歴任し、政は清廉厳正で法を犯す者がなかった。
宋璟――睿宗朝の吏部改革
- 中宗の崩御後、洛州長史を拝した。睿宗の即位後、吏部尚書・同中書門下三品に遷り、玄宗が東宮にあった頃には右庶子を兼ね銀青光禄大夫を加えられた。以前は外戚・諸公主が朝政に干渉し請託が甚だしく、崔湜・鄭愔が相次いで選官を司った際には権門に制せられて選叙が乱れ、二年分の欠員を先食いしたうえなお足りず翌年分を繰り上げるほどで士庶の嘆きを招いていた。璟は侍郎の李乂・盧従願らとともにこの弊を大きく改め、公平な取捨と秩序ある選叙を実現した。
宋璟――太平公主事件と左遷
- 太平公主が玄宗に不利な謀を企て、光範門で輦に乗り執政の前に立ちはだかって威を示した際、居並ぶ者が皆色を失うなか、璟は東宮(玄宗)に天下への大功があり真に宗廟社稷の主であって異議の余地はないと公言した。璟は姚崇とともに公主を東都へ移すよう奏請したが、玄宗はこれを恐れて自ら璟らへの処罰を願い出る上表をし、璟は楚州刺史に貶された。その後魏・兗・冀の三州刺史、河北按察使、幽州都督兼御史大夫を歴任し、国子祭酒兼東都留守を拝し、一年余りで京兆尹に転じ、再び御史大夫となったが事に坐して睦州刺史に出され、広州都督兼五府経略使に転じた。広州は古来竹や茅葺の家屋が多く火災が頻発していたため、璟は瓦焼きを教え店舗を改築させ、以後延焼の害はなくなり、人々はその恩に感謝し徳を頌える碑を立てた。
宋璟――開元初年の宰相就任
- 開元初年、召されて刑部尚書を拝した。開元四年(716年)、吏部尚書に遷り黄門監を兼ね、翌年官名の改定により侍中となり、広平郡公に累封された。同年秋、玄宗の東都行幸で永寧の崤谷にさしかかった際、道が狭く車馬が停滞し、河南尹李朝隠・知頓使王怡が部署の不手際を咎められ官爵を削られようとした。璟は、聖上は治世の始めで巡狩を重んじる時期であり、道の狭隘だけで二臣に重い罪を科せば将来の官吏に苦しみを与えると奏し、玄宗はただちにこれを取り消させた。璟はさらに、責めを君主が加え臣下の言で許されたのでは恩讐の所在が逆になるとして、いったん朝で処分を待たせたうえで改めて詔で復職させるべきだと進言し、玄宗はこれを深く納得した。またあるとき璟は中書侍郎蘇頲とともに皇子らの名と封邑、公主らの邑号の選定を命じられ、周の麟趾・漢の犬牙の故事に倣い三十国の佳名を選び定めたが、自らに特に佳名を選ぶよう命じられた際には、七子均しく養うのが百王の仁であり、寵愛による別扱いは天地の公平を損なうとして辞退し、文帝が慎夫人を退けた漢の故事を引いて上を感嘆させた。
宋璟――厚葬への諫言
- 開元七年(719年)、開府儀同三司王皎が卒し、その子で駙馬都尉の守一が竇孝諶(昭成皇后の父)の故事に倣い墳の高さを五丈一尺にするよう願い出た。璟と蘇頲は礼式に依るべきと奏し玄宗は一度これに従ったが、翌日には竇孝諶の旧例に准ずるよう改めて命じた。璟らは上言し、倹は徳の慎み、侈は悪の大なるものであり高墳・厚葬は昔から賢者の戒めるところであると説き、竇太尉の墳が高かったのは一時の偶然で常式ではないこと、貞觀年間に文徳皇后が長楽公主の儀を長公主に加えようとした際、魏徴が「長」の字の意義を説いて諫め文徳皇后が納得し使いを遣って謝した故事を引き、韋庶人の父の墓を王陵並みに造って禍を招いた例とは違うとした。制度は情に流されず定めた法として守られるべきであり、俗が奢侈に傾く今こそ範を示すべきだとし、もし中宮の意向でどうしても従わねばならぬ場合は、一品の陪陵葬の例に準じ墳の高さを三丈以上四丈以下にとどめるべきだと具体案を示した。玄宗はこれに深く感じ入り、璟らに彩絹四百匹を賜った。
宋璟――晩年の諸事と宰相辞任
- 以前より朝集使は春に帰任する際たびたび官を改転させるのが慣例となっていたが、璟はこれを一切禁じ僥倖を求める道を絶った。また悪銭の流通を禁じ、使者を分道させて検束・鋳潰しを行わせたが、これは士庶の怨みを招いた。まもなく璟は開府儀同三司を授かり知政事を罷めた。翌年、京兆の権梁山が謀反し誅殺された事件で、河南尹王怡が長安へ派遣されその一党を追及したが、拘留者が多く久しく決着せず、璟が京兆留守を兼ねてその獄を按覆することとなった。璟は首謀者数名のみを罪とし、梁山の婚礼と偽って財を借りた者や脅されて従った者はみな赦した。開元十二年(724年)、玄宗が再び東巡した際も璟が留守となり、玄宗は出発に際し璟を国の元老・股肱耳目と称え意見を求め、璟は得失を極言し彩絹などを賜り、玄宗は自らその言葉を座右の銘とすると手詔した。まもなく吏部尚書を兼ね、開元十七年(729年)、尚書右丞相に遷り、張説・源乾曜と同日に拝官した。玄宗は太官に饌を設けさせ太常に音楽を奏させ尚書都省で百官を集めて宴を催し、自ら詩を作って賦し与えた。
宋璟――致仕と薨去
- 開元二十年(732年)、年老いを理由に上表し、力の衰えと病による廃頽を述べ、身に才なく徳もないまま度重なる抜擢を受け宰相・冢司の任を再三務め開府の階を進め本郡の封を加えられたが、地位は盛んになる一方で人は衰えてゆき、耳目も衰え手足も不自由になったとし、大名を貪って重禄にとどまるのは礼法に背くとして、致仕して私第に帰り養生させてほしいと切々と願い出た。玄宗は手勅でこれを許し、なお全ての禄俸を給し続けさせた。璟は東都の私第に退いて人事を絶ち医薬に専念した。開元二十二年(734年)、玄宗の東都行幸の際、璟は道端で出迎え、玄宗は栄王を遣わして労い、以後たびたび薬を送らせた。開元二十五年(737年)薨去、享年七十五。太尉を追贈され、諡は文貞。
宋璟――子孫
- 子の昇は天宝初年に太僕少卿となった。次子の尚は漢東太守。次子の渾は右相李林甫と親しく、諫議大夫・平原太守・御史中丞・東京采訪使に引き立てられた。次子の恕は都官郎中・剣南采訪判官となったが権勢に依り貪暴と評された。渾は平原太守の頃、一年分の庸調を重ねて徴収し、東畿采訪使であった折には河南尉楊朝宗を使って薛稷の外孫で寡居の美女鄭氏(すでに渾に妻があった)を朝宗の名で娶らせ実は自らこれを納め、朝宗を赤尉に取り立てた。恕は剣南で、表兄にあたる雒県令崔珪の美しい妻を誘って私通し、珪を左遷させ、さらに刺客李晏を養っていた。天宝九載(750年)、いずれも露見して贓私は各数万貫に上り、李林甫の上奏で渾は東京台の推問により嶺南高要郡に、恕は剣南本使の推問により海康郡にそれぞれ流された。尚もその年、贓を訴えられ臨海長史に貶され、その子の華・衡もともに贓に坐して相次いで流貶された。のちに渾は恩赦に遭い東陽郡へ移されたが、なお請託を求め人吏を使役して資課を貪り民の恨みを買い訴えられて潯江郡に配流された。兄弟はみな飲酒や俳優雑戯を好み、なかでも衡は最も粗暴で、広平(宋璟)の家風は既に失われていた。広徳(763年)以後、渾は太子諭德に任じられたが世論に軽んじられ、江嶺の地に寓居して没した。
史論
- 史臣は評していう。艱難の世には良臣が見出されやすいが、治世が定まった時代には賢相の功が現れにくい。房玄齢・杜如晦の創業の功は並ぶ者がないが、姚崇・宋璟は武后・韋后の乱政の余波が及ぶ中で身を処し、声望を全うしたことにおいて彼らに劣らないというべきである。
- 贊にいう。姚崇・宋璟が登用され、刑政のあり方は多岐にわたった。政を為すのは容易でなく、刑を慎むことはさらに難しい。諫諍には厳しさをもって臨み、施政には寛容をもってあたった。道を得ていなければ、どうして天下を安んじられただろうか。