宗楚客(附伝)
- 蒲州河東の人、則天の従父姉の子。兄秦客は垂拱中則天に革命称帝を勧め内史に至ったが、楚客・弟晉卿とともに贓罪で嶺外に配流され、秦客の死後、楚客らは召還された。夏官侍郎・同鳳閣鸞台平章事、神龍初太僕卿。武三思に引き立てられ兵部尚書・同中書門下三品、晉卿は将作大匠に累進。節愍太子が三思を殺し鄠県に逃れた際、楚客は追手を差し向けて斬らせその首を三思・崇訓の柩に供えさせた。韋皇后・安楽公主に信任され中書令に進んだ。表向き韋氏に付きながら別の野心を抱き、侍中紀処訥と朋党を組み「宗紀」と呼ばれた。
- 景龍中、西突厥の娑葛と阿史那忠節の不和に際し、安西都護郭元振が忠節の内地移動を奏したのに対し、楚客・晉卿・処訥は忠節から賄賂を受けて出兵討伐を奏し元振の案を退けた。娑葛はこれに怒って侵寇し辺患となった。監察御史崔琬は楚客らを弾劾し、専横で朋党を組み外夷と通じ賄賂を貪った罪を糾弾し三司での取り調べを求めた。旧制では大臣は弾劾を受ければ朝堂で待罪すべきところ、楚客はかえって怒りをあらわにして反論し、中宗は事実を究明できず崔琬と楚客らを義兄弟として和解させた。韋氏の変で楚客・晉卿らは誅殺された。