舊唐書卷九十二 列傳第四十二 韋安石

正論を貫いた清厳な宰相

  • 京兆万年の人、周の大司空鄖国公孝寛の曾孫。祖の津は大業末民部侍郎、洛陽留守を検校し、李密の攻撃を防いだが敗れて捕らえられ、王世充が段達らを殺した際に一人難を免れた。洛陽平定後、高祖に旧誼で諫議大夫・検校黄門侍郎に召され陵州刺史で卒した。父琬は成州刺史、叔琨は戸部侍郎。
  • 安石は明経に及第、乾封尉から蘇良嗣に重んじられ雍州司兵。良嗣が則天に推挙し膳部員外郎・永昌令・并州司馬。則天は手勅で善政を称え、まもなく并州刺史、德・鄭二州刺史を歴任。重厚寡黙な性格で政は清厳、人吏に畏憚された。久視年、文昌右丞から鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事・太子左庶子。長安三年、神都留守・天官秋官両尚書事判、まもなく知納言事、検校中台左丞・鳳閣鸞台三品。
  • 張易之兄弟・武三思の専横をたびたび挫き忌まれた。内殿の宴で易之が招いた蜀商らの博戯を「賤類がこの席に列するのは不適」と退けさせ、鳳閣侍郎陸元方に「これぞ真の宰相、我らの及ぶところではない」と評された。則天の興泰宮行幸で近道を通ろうとしたのを「千金の子でも軒先には近づかぬ戒めがある、この道は築かれたばかりで堅固でない」と諫めて回輦させた。易之らの罪を挙げて夏官尚書唐休璟とともに推問する勅が下ったが事が変転し未完に終わった。長安四年、揚州大都督府長史に出た。
  • 神龍初、刑部尚書、まもなく吏部尚書・知政事。張柬之に代わり中書令・鄖国公・実封三百戸・相王府長史。戸部尚書、侍中・監修国史。中宗が安楽公主の池館行幸で楼船に乗ろうとしたのを「不測の危険を冒すのは帝王の事にあらず」と諫めて止めさせた。
  • 睿宗即位後、太子少保・郇国公、侍中・中書令、開府儀同三司。太平公主が竇懐貞らと異図を企て、安石を引き入れようとしたが拒んで応じなかった。睿宗が密かに「朝廷が東宮(太子李隆基)に傾いていると聞く」と問うたのに対し、安石は「太子には社稷への大功があり仁明孝友、讒言を信じてはならない」と答え、太平公主が簾中でこれを聞いて讒言を仕掛けたが郭元振の擁護で免れた。まもなく尚書左僕射・太子賓客・同中書門下三品を得るも実質は権力を奪われる形となり、冬に知政事を罷免され東都留守に出た。子婿の李元澄の妻の死をめぐる疑獄で妻薛氏が連座し蒲州刺史、のち青州刺史に出た。
  • 太常卿薑晈の請託を拒み恨まれた。開元二年、晈の弟晈(御史中丞)が、安石らが中宗の遺詔改竄(相王輔政の削除)を正せなかったことを弾劾させ、詔で韋安石・韋嗣立・趙彦昭が沔州・岳州・袁州の別駕に貶された。安石はさらに定陵造営時の官物横領を誣告され、「これは私に死ねということだ」と憤激して卒した、年六十四。開元十七年、蒲州刺史を追贈、天宝初、子の栄達により開府儀同三司・尚書左僕射・郇国公を追贈され諡は文貞。二子は陟・斌。

韋陟(安石子、附伝)――文才と吏事に優れた台輔の器

  • 字は殷卿。安石が晩年に得た子で幼くして聡明。神龍二年、父安石が中書令の頃、十歳で温王府東閣祭酒。文才に優れ隷書を能くし文人が門に集まった。開元初、父の喪に服し八年間杜門し弟斌と学問に励んだ。王維・崔顥・盧象ら才名の士と唱和した。洛陽令・吏部郎中を経て張九齡に中書舎人に引き立てられ孫逖・梁渉と文誥を掌り美談とされた。
  • 礼部侍郎として後進の登用に人材眼を発揮し、詩文の試験方法を改良して選抜の公正を高めた。吏部侍郎として選人の冒名(他人になりすまし)を厳しく糾し、毎年数百の欠員を洗い出したと自負した。門地は豪華で従者・侍女が多く王侯に劣らぬ勢威を持ちながら、道義の士には身分によらず礼を尽くし重んじられた。
  • 李林甫に忌まれ襄陽太守・陳留采訪使、天宝中郇国公を襲封したが親族の連座で鍾離太守、義陽太守に貶され、のち河東太守・本道采訪使。天宝十二載、右相楊国忠が陟の台輔就任を恐れ、河東の呉象之を使って御史中丞吉温との謀反を誣告させ、陟の甥韋元志にも証言させたため、陟は桂州桂嶺尉、さらに昭州平楽尉に左遷された。
  • 安禄山の乱で洛陽が陥り弟斌が賊に捕らわれた。楊国忠は陟を賊への内通で陥れようと画策したが、陟は「私は代々国に信を尽くしてきた、天命なら刑を逃げない」と拒んで動かなかった。潼関失陥後、粛宗が霊武で即位すると呉郡太守・江南東道采訪使に起用され、永王李璘の反乱に際しては御史大夫・江東節度使として招諭にあたり、季広琛を丹陽太守に推挙して安撫した。淮南節度使高適・淮西節度使来瑱と安州で会盟し、三帥協力を誓う血涙の誓文を交わし、後に江表に忠烈を記す碑が建てられた。
  • 広琛の帰順を見届けてから粛宗のもとに参じ御史大夫を拝命。杜甫が房琯を弁護した上表について陟が「杜甫の言は諫臣の大体を失っていない」と奏したため粛宗に疎まれ、御史大夫を罷免され吏部尚書に転じた。以後は寵臣に妨げられ志を得ず、絳州刺史に左遷。乾元二年、太常卿を経て呂諲の推挙で礼部尚書・東京留守。史思明の河洛侵攻に際し李光弼の指示で永楽に留まり河洛回復を待った。晩年は志を得ない鬱屈のうちに病を得て上元元年八月、虢州で卒した、年六十五。荊州大都督を追贈、永泰元年の詔で尚書左僕射を追贈された。諡号は「忠孝」を巡り太常博士程晧と刑部尚書顔真卿らの間で議論が分かれ決着しなかった。子は允。

韋斌(安石子、附伝)

  • 景雲初、父安石が宰相であった頃、太子通事舎人。文才に優れ容儀厳正で大臣の風格があり兄陟と並び称された。開元十七年、司徒薛王業の娘平恩県主に配され秘書丞。天宝初、国子司業となり徐安貞・王維・崔顥に推挙された。天宝中、中書舎人・集賢院学士。兄陟が中書舎人から礼部侍郎に移った後を継いで文誥を掌り、太常少卿に転じた。天宝五載、李林甫が刑部尚書韋堅を陥れた際、親族の連座で巴陵太守、臨安太守に貶され銀青光禄大夫を加えられた。五品を授かった当時、兄陟が河東太守、堂兄由が右金吾将軍、縚が太子少師と、四人同時に列戟する栄えは比類なかった。
  • 天宝十四載、安禄山の乱で洛陽が陥り斌は賊に捕らわれ偽の黄門侍郎を授けられ、憂憤のうちに卒した。両京回復後、乾元元年、秘書監を追贈された。

韋抗(安石從父兄子、附伝)

  • 若くして明経に及第、吏部郎中に累進し清謹で知られた。景雲初、永昌令として威刑によらず政令を粛一にし、繁劇な都で寛猛を得た政をしたと評された。まもなく右台御史中丞に遷ると人吏が留任を請願し、通衢に恩恵を記す碑が建てられた。開元三年、左庶子から益州長史、四年、黄門侍郎。
  • 開元八年、河曲の反乱胡康待賓の慰撫を命じられたが武略に乏しく道中で落馬を称して引き返した。検校鴻臚卿、王晙に代わり御史大夫・按察京畿。弟の拯が万年令として同じ地域を担当したことも栄誉とされた。推挙した御史の人選が不適当だったことで安州都督、蒲州刺史に出た。開元十一年、大理卿、陸象先に代わり刑部尚書、吏部選事も分掌。開元十四年卒。清廉倹約を守り財産を築かなかったため喪の費用にも事欠き、玄宗は貧しさを聞いて霊輿を給し郷里へ送らせた。太子少傅を贈られ諡は貞。京畿按察使時代に梁升卿・王倕・王冰・王燾を判官・度支使に推挙し、後に皆顕職に至ったことで人を知る眼力を称えられた。

韋巨源(安石從祖兄子、附伝)

  • 周の京兆尹総の曾孫。祖の匡伯は鄖国公を襲爵し隋に入り舒国公・尚衣奉御。則天時、司賓少卿から司府卿・文昌右丞・同鳳閣鸞台平章事に累進。三年、夏官侍郎。省内の文案を厳しく取り締まり利益を収めた反面、下の恨みを買った。証聖初、鄜州刺史、まもなく地官尚書・神都留守。長安二年、刑部尚書、太子賓客、再び神都留守。
  • 神龍初、工部尚書・同安県子、吏部尚書・同中書門下三品・郇県伯。中書令であった安石の近属であったため知政事を罷免されたが、まもなく侍中・中書令・舒国公に進み、韋皇后の三等親に組み入れられ兄弟の礼で属籍された。唐休璟・李懐遠・祝欽明・蘇環らと『垂拱格』及び『格後勅』二十巻を編纂した。武三思の貝州の食封で水害の際、刺史宋璟が租庸の免除を主張したのに対し、巨源は蚕桑の収入があるとして庸調の徴収を主張し、河朔の民の流散を招いた。
  • 景龍二年、韋皇后の衣箱に五色雲が起こる瑞祥を巨源が奏し天下に布告させ大赦・加封が行われた。星が雷のように墜ち野雉が鳴くなど凶兆が続いても巨源は口を噤み、迦葉志忠・鄭愔・宗楚客・趙延禧らと共に符瑞を偽って韋后への阿諛に努め、識者に嘆かれた。
  • 景龍三年、尚書左僕射、まもなく尚書令・同中書門下三品・監修国史。南郊の祭祀で祝欽明とともに皇后の亜献を主張し実現させ自らは終献を務めた。韋氏の乱では家人が逃亡を勧めたが「国の大臣として難を避けられるか」と自ら街に出て乱兵に殺された、年八十。
  • 睿宗即位後、特進・荊州大都督を追贈。太常博士李処直は諡を「昭」としたが、戸部員外郎李邕は、巨源が武三思に引き立てられ韋皇后に阿り無功で封を得たことを理由に反対した。李処直はなお前議を主張し、李邕はさらに巨源の罪を四点にわたって糾弾する駁文を著した。要旨は、韋皇后と兄弟の縁を結び武氏に通じて国家の基を乱したこと、皇后の亜献を推し祭祀の礼を破ったこと、韋温・宗楚客と結んで唐の中興を妨げたこと、貝州の庸調徴収で民を苦しめたことであった。当時李邕の議は採用されなかったが識者はこれを是とした。巨源・安石は文昌右相待価とともに則天の五服の親であり、他にも近属で大官に至った者が数十人いた。

趙彦昭(附伝)

  • 甘州張掖の人。父武孟は初め狩猟に耽っていたが、母に「読書もせず狩猟に耽るならば私に望みはない」と諭され、以後勤学して経史に通じ進士に及第、右台侍御史・『河西人物志』十巻の著者となった。
  • 彦昭は若くして文才で知られた。中宗時、中書侍郎・同中書門下三品・修国史・修文館学士。景龍四年、金城公主の吐蕃降嫁の使者に任じられたが外使就任を不本意とし、司農卿趙履温を通じ安楽公主に働きかけて留任を図り、代わりに楊矩が遣わされた。
  • 睿宗時、涼州都督として清厳な政を行い将士を震え上がらせた。宋州刺史、吏部侍郎、刑部尚書・関内道持節巡辺使・検校左御史台大夫を歴任。郭元振・張説と親しく、蕭至忠らの誅殺の際に事前に謀を察知していたとされ功により刑部尚書・耿国公・実封百戸。殿中侍御史郭震は彦昭が巫女趙五娘と縁を結び左道で栄達を図ったことを弾劾したが、姚崇が入相すると彦昭の人物を嫌い、たびたび貶められ江州別駕で卒した。