清廉と誅殺の功、非業の死
- 滄州東光の人。長安中、司刑少卿・相王府司馬事を兼ねた。敬暉らの易之兄弟誅殺の謀に参画し、相王(睿宗)の南衙兵を統率して非常に備えた。事成後、銀青光禄大夫・中書侍郎・同中書門下三品・南陽郡公・実封五百戸。将作少匠楊務廉の造営の奢侈を戒め左遷させるなど正論を述べた。まもなく中書令・特進・南陽郡王に進み知政事を罷免された。則天崩御の遺詔で実封は満七百戸に。その後敬暉らとともに貶黜を重ね環州に流された。周利貞に迫られ野葛の毒汁を数升飲まされたが、日頃服用していた黄金のため毒が発しても死なず、憤悶して自ら地を掘り土を食べ爪が擦り切れるほどであったが、それでも死なず、ついに撃殺された。建中初、太子太傅を追贈。曾孫徳文は進士に及第し開成三年、秘書省校書郎を授けられた。
史論
- 史臣は評す。かつて呉王夫差が越を攻めた際、勾践は会稽で命を保ち、伍子胥の言を聞かなかった呉が甬東での嘆きを招いた故事がある。この五王が凶を除き政を正したのは成功であった。当時、彥範・敬暉は兵権を掌握し武三思・武攸暨の党は半ば殲滅されており、もし薛季昶の言に従っていれば周利貞の禍はなかったであろう。心に忍びず後図を欠いたため、蔓を刈っても根を絶てず、謀を建てても防微を欠いた結果、無実の罪で禍を招いたのは道理である。決断を欠いたことが乱を招いたのも当然といえよう。
賛
- 賛して曰く。ああ五王よ、唐に忠であった。火が木の中にあるのを知りながら害はないと思っていた。禍が発してこれに勝てず、勢いは崩れ止められなかった。何事も敏でなければ、身を守る備えとはならない。