舊唐書卷九十 列傳第四十 楊再思

処世に長けた宰相

  • 鄭州原武の人。若くして明経に及第し玄武尉。使命で京師に上った際、宿泊先で荷物を盗まれ、犯人と遭遇すると「貧困で仕方なかったのだろう、早く立ち去れ、公文書だけ残せば残りの財は与える」と述べ、これを他言せず借金をして帰った。天官員外郎から左右粛政台御史大夫を歴任。延載初、鸞台侍郎・同鳳閣鸞台平章事。証聖初、鳳閣侍郎に転じ同平章事を続け太子右庶子を兼ね、まもなく内史。弘農県男から鄭国公に至るまで累封された。
  • 三代の主に仕え十余年政事を執ったが、人材を推挙したことは一度もなかった。巧言令色で君主の意向を機敏に察し、意に沿わぬものは貶し、意に沿うものは讃えたが、常に恭順で人と衝突しなかった。「名声も地位も高いのになぜそこまで屈従するのか」と問われ「世は険しく、剛直な者は禍を受ける、こうでなければ身を全うできない」と答えたという。
  • 長安末、張昌宗が司刑少卿桓彦範に職を解かれた際、昌宗が冤罪を訴えると則天が宰臣に「昌宗に国への功があるか」と問い、再思は「昌宗はかつて神丹の合成に功があり、聖躬が服用して効があった、これに勝る功はない」と答え、則天は喜んで昌宗を復職させた。時人は彦範を貴び再思を賤しんだ。左補闕戴令言が再思を『両脚野狐賦』で風刺すると、再思は怒って長社令に左遷し、朝士に嗤笑された。御史大夫であった時、張易之の兄同休の宴で「楊内史は顔が高麗人に似ている」と戯れられると、再思は喜んで紙を切って冠に貼り紫袍を裏返して高麗の舞を踊り、満座に嗤笑された。また昌宗の容貌が蓮花に似ると人が言うと「六郎(昌宗)が蓮花に似るのではなく、蓮花が六郎に似るのだ」と諂ったという。
  • 長安四年、検校京兆府長史、検校揚州大都督府長史。中宗即位後、戸部尚書・中書令・侍中を歴任し宮僚の旧縁で鄭国公・実封三百戸を賜った。順天皇后(韋后)冊立使も務めた。武三思が王同皎を誣殺しようとした際、再思は李嶠・韋巨源とともに勅命でその獄を審理したが冤罪を明らかにできず同皎を死に至らしめ、人々に恨まれた。まもなく中書令・吏部尚書、景龍三年、尚書右僕射・光禄大夫。同年薨去、特進・并州大都督を贈られ乾陵に陪葬、諡は恭。子の植、その子の献はともに司勲員外郎。弟の季昭は考功郎中、温玉は戸部侍郎。