舊唐書卷九十 列傳第四十 杜景儉

酷吏の獄中で「必ず生きる」と称された官

  • 冀州武邑の人。若くして明経に及第し殿中侍御史。益州録事参軍として、着任前の益州司馬房嗣業が制書到着前に事務を執ろうとし僚吏を鞭打って威を示そうとしたのを、「州司はまだ任命を受けていない、真偽も知れぬ短い制書一つで一州の権を握るのは急ぎすぎだ、揚州の乱もこの類ではないか」と叱って制止した。嗣業は結局荊州司馬に転任させられ、時人は「録事の意は天に通じ、益州司馬の威風を折った」と語り景儉は名を知られた。司賓主簿から司刑丞に転じた。
  • 天授中、徐有功・来俊臣・侯思止とともに制獄を扱い、「徐・杜に遇えば生き、来・侯に遇えば死ぬ」と評された。洛州司馬を経て鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事。則天が秋に梨の花が咲いたことを瑞祥として宰臣に問うた際、他の宰臣は則天の徳が及んだ吉兆と称えたが、景儉だけは『洪範五行伝』『春秋』を引き、陰陽の秩序が乱れた凶兆であり、政令に礼典を欠く点がなかったか、宰臣として陰陽の調和を果たせていないことを恥じると答えて謝罪し、則天は「卿こそ真の宰相だ」と称えた。
  • 延載初、鳳閣侍郎周允元に李昭德との朋党を奏され溱州刺史に左遷。のち司刑卿を経て、聖暦二年、鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事に復帰。契丹の侵入で河北諸州が賊に降った件で、河内王武懿宗が全員を罪に問おうとしたのを、景儉は「皆脅迫によるもので本意ではない」と赦免を求め、則天はこれに従った。秋官尚書に転じたが、禁中の言を漏らした罪で司刑少卿に左授、并州長史に出て道中で病没、相州刺史を追贈された。

杜澄(景儉子、附伝)

  • 子の澄は文才で知られ、鞏県尉に至った。