舊唐書卷八十九 唐臨・張文瓘・徐有功
唐臨・張文瓘・徐有功の三名の合伝。いずれも刑獄を司り、寛恕と公正を貫いた能吏として描かれる。唐臨は大理卿として冤罪のない裁きで高宗に信任され、張文瓘は諫言で無謀な出兵を止めるなど高宗の厚い信任を得た。徐有功は則天期の酷吏専横の中で独り公平な裁きを貫き、幾度も死罪の危機に晒されながらも節を曲げなかった。
年表(19件)
- 武徳初隠太子の東征に際し王世充平定策を献じた
- 万泉丞時代軽罪の囚人を一時帰宅させ全員が期限内に戻り名声を得た
- 侍御史時代嶺外で交州刺史李道彦らの冤罪3000余人を糾した
- 大理卿時代高宗の親録で判決に誰も冤罪を訴えず「唐卿の裁きは冤罪でない」と評された
- 翌年蕭齢之の贓罪議で「罪疑わしきは軽きに従う」と説き流罪にとどめさせた
- 永徽元年650年御史大夫となる
- 顕慶4年659年事件に連座し潮州刺史に左遷され任地で60歳で没した
- 貞観初明経挙で并州参軍となり長史李勣に厚遇された
- 造宮諫言時秦皇・漢武の故事を引き宮殿造営の抑制を諫めた
- 咸亨3年672年大理卿となり着任10日で疑事400余条を裁決した
- 上元2年675年侍中に転じ囚人たちが慟哭した
- 新羅出兵計画時病床から輿で参内し出兵を諫め中止させた
- 儀鳳2年677年73歳で没し幽州都督・諡懿を贈られた
- 司法参軍時代杖刑を用いない寛政を行い任期中一人も処刑しなかった
- 載初元年690年司刑丞となる
- 酷吏専横期大理で覆審を重ね数十百家を救った
- 任知古ら7人の獄来俊臣の再審要求に反駁し裴行本を死から救った
- 龐氏事件独り無罪を主張し棄市判決を受けるが「失出は小過」と答え則天を沈黙させた
- 長安2年702年62歳で没し司刑卿を贈られた
唐臨――出自と寛恕の政
- 唐臨は京兆長安の人、周の内史唐瑾の孫。先祖は北海より関中に移った。伯父の令則は開皇末、左庶子として太子勇に諂い誅殺された。臨は兄の皎とともに若くして名声があった。
- 武徳初、隠太子の東征に際し王世充平定策を献じ、直典書坊、右衛率府鎧曹参軍を経て、東宮廃止後は万泉丞に出た。県の軽罪の囚人十数人を春の農繁期に一時帰宅させ、期限に必ず戻るよう約束したところ、全員が感恩して期限内に戻り、臨の名声が高まった。
唐臨――刑獄における公正
- 侍御史として嶺外に赴き、交州刺史李道彦らの冤罪3000余人を糾した。黄門侍郎・銀青光禄大夫に至るも倹約を旨とし邸宅を造らず、寛容な人柄で知られた。喪服を届けさせる際も家童の些細な過失を咎めず、薬の調合ミスにも「陰暗の日には服用すべきでない、捨てよ」とだけ告げ過失を公にしなかった。
- 高宗即位後、検校吏部侍郎、その年大理卿。獄囚数を問われ的確に答え、高宗から「刑は寛厳の中道を得よ」と信任された。高宗が自ら死囚を録する際、他の卿の判決には冤罪を訴える声が上がったが、臨の判決には何も言わなかった。囚人は「唐卿の裁きは冤罪でないため訴える気になれない」と答え、高宗は「獄を治める者はこうあるべきだ」と嘆じた。
唐臨――蕭齢之贓罪の議
- 永徽元年(650年)御史大夫。翌年、華州刺史蕭齢之の広州都督時代の贓罪が発覚し朝堂で処罰を議した際、高宗が重罰を望むと、臨は「罪疑わしきは軽きに従う」との『虞書』『周礼』の義を引き、議刑の本旨が身分に応じた慎重な量刑にあると説き、既定の議事に基づき流罪とすべきと主張、高宗はこれに従い蕭齢之は嶺外に流された。
- のち刑部尚書、金紫光禄大夫、兵部・度支・吏部の三尚書を歴任。顕慶4年(659年)事件に連座し潮州刺史に左遷され、任地で60歳で没した。『冥報記』2巻を著し世に広く行われた。
唐臨――兄皎とその子孫
- 兄の皎は武徳初、秦府記室として太宗の征討に従い書檄を掌り重用された。貞観中、吏部侍郎として、当時無制限だった選集の集合期日を冬から春末までに区切る制度を初めて設け、以後定着した。益州長史で没し太常卿を追贈された。
- 皎の子の之奇は調露中給事中となるが、章懐太子の旧僚として辺地に流され、文明元年(684年)括蒼令に起用されるも徐敬業の乱に加担し誅殺された。
唐臨――孫紹の諫言と刑死
- 臨の孫の紹は『三礼』に精通し、神龍中太常博士となる。景龍2年(708年)韋庶人が妃・主・命婦の葬儀に鼓吹を給するよう上言し中宗が許可すると、紹は「鼓吹は本来軍容の楽であり、公主以下の葬礼には前例がない」と諫めたが聞き入れられなかった。
- 左台侍御史・太常博士を兼ね、中宗の南郊親祭に際し皇后を亜献とする祝欽明らの提案に、蒋欽緒とともに反対した。則天の父母の陵の守戸500人、武三思・武崇訓墓の守戸60人が親王の制を超えていることも上疏で切諫したが容れられなかった。睿宗即位後も時政の得失を度々陳べ、給事中兼知礼儀事に至った。
- 先天2年(713年)冬、驪山での講武の儀注が不備であったことに玄宗が激怒し、右金吾将軍李邈が敕を得て紹を纛下で斬った。当時の人々は紹を惜しみ李邈を咎め、のち李邈は罷免され生涯不遇であった。
張文瓘――出自と刑獄の才
- 張文瓘は貝州武城の人。大業末、魏州昌楽に家を移す。幼くして父を失い母兄に孝友をもって仕えた。貞観初、明経挙で并州参軍。長史李勣に厚遇された。水部員外郎を経て、兄文琮が戸部侍郎であったため兄弟同時に台閣に居る制を避け雲陽令に出た。竜朔年間、東西台舎人・参知政事、東台侍郎・同東西台三品を歴任し知左史事を兼ねた。
張文瓘――造宮諫言と大理卿の治績
- 蓬萊・上陽・合璧などの宮殿造営と四夷征討で倉庫が空になりつつあった時、文瓘は「秦皇・漢武の広事四夷が民力を疲弊させ天下を崩壊させた」と諫め、未然の危機を防ぐべきと説き、高宗は納れて廐馬数千匹を減らし文瓘に繒錦100段を賜った。
- 咸亨3年(672年)黄門侍郎兼太子左庶子、大理卿。着任10日で疑事400余条を裁決しいずれも妥当で、以後刑を受けた者にも怨言がなかった。病の際は囚人たちが快癒を祈るほど信望を集め、戴冑に比された。上元2年(675年)侍中に転じると囚人たちが慟哭したという。
張文瓘――高宗の信任と新羅出兵の諫止
- 性格は厳正で諸司の奏議を糾すことが多く、高宗は「文瓘とは相談したか」を常に宰臣に問うほど信頼した。新羅への出兵を高宗が計画した際、病床にあった文瓘は輿で参内し「吐蕃対応中に東西で同時征討すれば民が耐えられない」と諫め、出兵は中止された。儀鳳2年(677年)73歳で没し、幽州都督・諡懿を贈られ、太子の陪葬地恭陵に葬られた。
- 4人の子、潜・沛・洽・渉は中宗時にいずれも三品官(魏州刺史・同州刺史・衛尉卿・殿中監)に至り「万石張家」と称された。渉は韋温らが誅された際に乱兵に殺された。
張文瓘――兄文琮とその子孫
- 兄の文琮は貞観中、持書侍御史から毫州刺史となり清簡な政治で百姓に慕われた。永徽初『太宗文皇帝頌』を献じ戸部侍郎。従母弟房遺愛の房州刺史左遷に際し詩を贈って餞別したことが咎められ房遺愛誅殺後に建州刺史に左遷。建州で廃れていた春秋の社祭を復興させ農作を勧めた。
- 子の戩は江州刺史、『喪儀纂要』7巻を著した。戩の弟の錫は則天時、鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事。姉の子李嶠と甥舅で相前後して宰相となり栄誉とされたが、贓罪に連座し斬刑寸前で特赦された。中宗時工部尚書兼修国史、韋庶人臨朝時に同中書門下三品となるが旬日で絳州刺史に左遷、致仕して没した。
張文瓘――従父弟文収の楽律
- 文琮の従父弟文収は隋の内史舎人虔威の子。音律に精通し蕭吉の『楽譜』を補って古代からの沿革を博採し、竹を裁って十二律を吹奏させるまでに至った。太宗の礼楽制定に際し祖孝孫とともに雅楽を参定し、久しく調律できなかった古鐘(俗称「啞鐘」)を鳴らして人々を驚かせ、協律郎を授けられた。
- 貞観11年(637年)太楽の整理を上表するが、太宗は「楽は人に縁るもの、天下太平なれば自然に音律も調和する」と述べ許可しなかった。貞観14年、景雲が現れ黄河が澄んだ際、『景雲河清』楽(「燕楽」)を製し、以後元会第一奏として今に伝わる。咸亨元年(670年)太子率更令で没し、『新楽書』12巻を撰した。
徐有功――寛仁の治
- 徐有功は国子博士徐文遠の孫。明経挙で蒲州司法参軍となり東莞男を襲爵。杖刑を用いない寛政を行い、吏民は「徐司法の杖を犯す者は皆で咎めよう」と誓い合い、任期を通して一人も処刑しなかった。載初元年(690年)司刑丞。
徐有功――酷吏との対決
- 周興・来俊臣・丘神勣・王弘義らが無辜を陥れ酷刑を行う中、有功は独り公平な判断を貫き、大理に下された案件を議して覆し前後数十百家を救った。朝廷で理非を論じる際、則天が厳しく詰問しても屈しなかった。
- 鳳閣侍郎任知古ら7人が陥れられ死罪となりかけた際、則天が「殺を殺で止めず恩で止める」と赦免の意を示したが、来俊臣は裴行本の罪を再審して斬罪を求めた。有功は「俊臣は陛下の再生の恩に背き、聖人の恩信を損なう。臣は君の美を助けるべき」と駁し、行本は死を免れた。
- 道州刺史李仁褒兄弟が誣告された際にも争ったが救えなかった。周興は有功を「反逆の囚を故意に釈放した罪」と弾劾したが、則天は取調べを許さなかったものの結局免官となった。のち左台侍御史に復帰し、人々に喜ばれた。
徐有功――上疏による司法改革要求
- 有功は天官・秋官及び朝堂三司理匭使の失態を上疏した。選挙の不公平・請託の横行、唐末以来の厳刑の弊風がなお残り酷法が行われている実情を指摘し、これを摘発し処罰すべきこと、理匭使の遅滞も同様に処罰すべきことを求め、寛刑を旨とする自らの信念を述べた。
徐有功――龐氏事件と辞さぬ諫言
- 潤州刺史竇孝諶の妻龐氏が奴に誣告された際、給事中薛季昶が冤罪を捏造し龐氏を死罪としたが、有功は独りその無罪を主張した。季昶らは逆に有功を反逆党与として弾劾し棄市の判決が下った。有功は「私一人死んだとて他の者が死なずに済むわけでもない」と落ち着いて出頭したが、則天は「なぜそれほど失出(無罪放免)が多いのか」と詰問し、有功は「失出は小過、好生は聖人の大徳」と答え、則天は沈黙した。結局龐氏は死罪を減じられ流罪となり、有功は除名処分となった。
- 後に左司郎中、司刑少卿に累進。「今後も理を曲げて助命を求めるつもりはない」と語り、前後3度死罪の判決を受けながらも志を曲げず、酷吏の勢いを減じさせた。時人は前漢の于定国・張釈之に比した。長安2年(702年)62歳で没し、司刑卿を贈られた。
徐有功――追贈と子孫
- 中宗即位後の制で「忠正の臣は昔から尊ばれる。徐有功は節操貞勁で、司刑にあたり深く敬慎した。周興・来俊臣の残酷な誣告にも屈せず正義を貫いた。定国・釈之にも劣らない」と称え、越州刺史を贈り家を弔い1子に官を授けた。
- 玄宗即位後、竇孝諶の子希瑊らは自らの官爵を有功の子惀に譲り恩に報いようとした。惀は太子司議郎・恭陵令から申王府司馬に至り没した。
史論
- 史臣は評す。刑法は理具の大なるもので、舜が皋陶を士に命じたのもこの重さゆえである。人命に関わり一度公平を失えば冤罪は取り返しがつかない。唐臨の守法、張文瓘の議刑は治世の哲王のもとで理を尽くしたが、武后の革命前後、酷吏の専横する時代に徐有功一人が群邪に抗し公平を貫いたことこそ真に困難であった。于定国・張釈之にも勝る。希瑊が爵を譲り恩に報いたことにも、遺された仁愛の徳がしのばれる。
讚曰:訴訟を聴くには明を、法を持するには平を要する。この二者を欠けば人はどうして生きられよう。ああ徐公は、獬豸(法の神獣)の精のようであった。世は皆濁っても、その清廉さは変わらなかった。