舊唐書卷八十八 列傳第三十八 蘇瓌

清廉と法律の吏

  • 字は昌容、京兆武功の人。隋の尚書右僕射蘇威の曾孫。祖父夔は隋の鴻臚卿、父亶は貞観中台州刺史。若くして本州で進士に及第し、豫王府録事参軍。長史王徳真・司馬劉禕之に重んじられた。長安中、揚州大都督府長史。揚州は要衝で富商が多く珍宝が集まったが、前任者張潜・於辯機は数万を蓄えたのに対し、瓌は身一つで去った。神龍初、尚書右丞となり、法律に明るく台閣の故事に詳しいため律・令・格・式の刪定を特命された。銀青光禄大夫を加えられ、戸部尚書に進み計帳を奏上した。管轄戸数は六百十五万六千百四十一戸であった。
  • 侍中を加えられ淮陽県子に封ぜられ西京留守。秘書員外監鄭普思が妖逆を謀った事件で雍・岐二州の妖党が大挙した際、瓌は普思を獄に繋いで取り調べた。普思の妻第五氏が鬼道で韋皇后に寵愛され宮中にいたため中宗が瓌に釈放を命じたが、瓌は普思の幻惑は赦されるべきでないと上言した。中宗の帰京後にも直言し、尚書左僕射魏元忠も瓌の忠誠を弁護、帝は普思を儋州に配流しその一党を誅した。瓌は吏部尚書に進み淮陽県侯に進封した。
  • 景龍三年、尚書右僕射・同中書門下三品、許国公に進封。南郊の祭祀で国子祭酒祝欽明が韋皇后に阿り皇后を亜献・安楽公主を終献にする議を建てたのに対し、瓌は御前で強く反対したが帝は結局欽明の奏を採った。新任の公卿が食を献ずる「焼尾」の慣例を瓌は行わず、宗晉卿に問われて「宿衛の兵に三日食のない者もいる中、恥じて献じない」と答えた。同年六月、唐休璟とともに監修国史を加えられた。
  • 景龍四年、中宗崩御し韋皇后は喪を秘して宰相韋安石・韋巨源・蕭至忠・宗楚客・紀処訥・韋温・李嶠・韋嗣立・唐休璟・趙彦昭・瓌ら十九人を集め会議を開いた。遺詔は韋皇后が少主を輔け相王李旦が太尉として参謀輔政するとしていたが、中書令宗楚客は皇太后臨朝を主張し相王輔政の停止を提案した。瓌は独り正色して「遺詔は先帝の意、改めるべきでない」と拒んだ。楚客・韋温は激怒し、結局相王輔政を削って宣行した。同月、韋氏が敗れ相王が即位、詔を下して瓌の功を称え尚書左僕射に進めた。
  • 景雲元年、老病により太子少傅に転じ、同年十一月薨去。司空・荊州大都督を贈られ諡は文貞。臨終に薄葬を遺命し、葬送の日は官給の儀仗のほか布車一台のみで、これが称賛された。開元二年、詔で瓌の功績を称え実封百戸を追加。開元四年、劉幽求とともに睿宗廟庭に配享。開元十七年、司徒を追贈された。

蘇頲(瓌子、附伝)――父を超えた文才の宰相

  • 瓌の子頲は若くして俊才があり、一目で多くを記憶する才があった。若くして進士に及第、烏程尉から左台監察御史。長安中、来俊臣らの旧獄を再審する命を受け、多くの冤罪を晴らした。
  • 神龍中、給事中・修文館学士から中書舎人に累進。父瓌が同中書門下三品となり父子で機密を掌ったことが時の栄えとされた。文誥は皆頲の手による。中書令李嶠は「舎人の文才は湧泉のようで自分は及ばない」と称えた。太常少卿を経て、景雲中、父の喪により工部侍郎に起復、銀青光禄大夫を加えられ、喪明けに許国公の爵を襲封した。玄宗は中書侍郎の人選を宰臣に問い、頲を中書侍郎に任じ、政事食を供させた(政事食の始まりとなった)。玄宗は頲を高く評価し、陸象先没後の中書侍郎として頲以上の者はいないと述べた。李乂とともに文誥を掌り、玄宗から李嶠・蘇味道の「蘇李」になぞらえられ、自作の文誥を「臣某撰」と題して献上するよう命じられるなど厚遇された。玄宗が靖陵に碑を建てようとした際、「帝王及び后には神道碑がない、先例に反しては陛下祖宗の陵にも造碑を波及させる」と諫めて止めさせた。
  • 開元四年、紫微侍郎・同紫微黄門平章事、侍中宋璟と共に政事を執った。璟は剛正で決断力があり、頲はよくこれを補佐した。璟は「蘇氏父子と共に宰相となったが、僕射(瓌)は国器、頲は父を超える」と評した。開元八年、礼部尚書に転じ政事を罷免され、益州大都督府長史事を知った。前司馬皇甫恂が官庫の物で新様の錦を織って献じたのを頲は一切禁じた。「遠方にいるからといって忠節を曲げない」と述べた。巂州蛮酋苴院が吐蕃と通謀していた際、頲は間諜を捕らえたが将士の出兵要求に従わず、書状と間諜を苴院に送り返して恭順させた。
  • 開元十三年、東封に従駕し朝覲碑文を撰し、吏部選事を知った。清廉で俸禄を諸弟や親族に分け与え家に余財がなかった。開元十五年卒、年五十八。優贈の制がまだ出ない中、起居舎人韋述が上疏し、貞観・永徽の故事に倣い重臣の死に輟朝挙哀の礼を行うべきと進言した。これにより洛城南門で挙哀、輟朝二日、尚書右丞相を贈られ諡は文憲。葬儀の日、玄宗は狩りに出ようとしていたが訃報を聞き、「蘇頲が今日葬られるのに、どうして遊興を楽しめようか」と述べ途中で宮に戻った。弟は詵・冰・乂。

蘇詵(瓌子、附伝)

  • 右司郎中・給事中・徐州刺史を歴任した。給事中拝命の際、兄頲が中書侍郎であったため頲は詵の任命を辞退させようとしたが、玄宗は「昔から親族を推挙する内挙の例がある、お前たち父子は同じ中書省にいたのに兄弟がなぜいけないのか」と述べた。

蘇冰(瓌子、附伝)

  • 虞部郎中となった。

蘇乂(瓌子、附伝)

  • 職方郎中となった。

蘇幹(瓌の従父兄、附伝)

  • 瓌の従父兄。父勗は武徳中秦王府文学館学士、貞観中南康公主に尚し駙馬都尉、魏王李泰府司馬となった。泰に重んじられ『括地志』撰修のため文学館開設を勧めた。のち吏部郎・太子左庶子で卒した。幹は明経により徐王府記室参軍となり、狩猟を好む徐王をたびたび諫めた。垂拱中、魏州刺史。河北の飢饉の際、姦吏を取り締まり農桑を勧めて逃散民を復帰させ良牧と称された。右羽林将軍から冬官尚書に進んだが、酷吏来俊臣に憎まれ、琅邪王李冲との私信往復を誣告され獄に繋がれ、発憤して卒した。

蘇翔(瓌の四代孫、附伝)

  • 瓌の四代孫翔は文宗太和四年、釈褐文学参軍を授けられた。

史論

  • 史臣は評す。韋思謙は州県の官から立身し綱紀を守って権豪を憚らず、国に報いて妻子を顧みなかった、自強不息・剛毅は仁に近いといえる。高季輔・皇甫公義は人を知る者であった。承慶・嗣立の兄弟はともに宰相に列し、文才と政治能力に優れ、父の風を辱めなかった。諡がそれぞれ温・孝であることは恥じるところがない。
  • 陸元方は博学大度で二度宰相となり、則天朝で忠貞を貫かずとも咎められなかったのは幸いであり、綏州への左遷も恥ではない。渡海に際し私心なく風浪が自ら止んだ逸話や、臨終に草稿を焼いた逸話に見える誠と徳を持てば神明を動かし、子孫にも及ぶことを示している。象先は人品高く宰相の才があり、無事に生涯を全うした。景倩・景融・景献・景裔ら子弟も清官に列したことは、陸氏の余慶といえよう。
  • 蘇瓌については、孔子の「室に居りその言善なれば千里の外もこれに応ず、言行は君子の枢機であり、枢機の発するところは栄辱の主である」との言葉を引き、中宗崩御・韋氏専権の際、参議した十九人のうち瓌だけが大節を守り正論を唱え、その後の善悪の顕彰・黜陟が明らかになったことがこの言葉の証であるとする。頲は公正のみを旨とし倹約で家を保ち、李嶠に湧泉の才を称えられ、宋璟に父を超えると評された。艱難の中でも節操を曲げず、終始一貫して恥じるところがなかった。
  • 賛して曰く。善人君子は忠を懐き正を秉る。文章に富み、皆諫諍を推す。朝廷に恥じることなく、重い権柄にも慙じない。子々孫々、余慶を演じ承ける。