舊唐書卷八十六 許敬宗・李義府
許敬宗――文才と国史編纂
- 杭州新城の人、隋の礼部侍郎許善心の子。先祖は高陽より南渡し代々江左に仕えた。敬宗は幼くして文に長け秀才に挙げられ、淮陽郡司法書佐を授かり、まもなく謁者台に直し通事舎人の事を奏した。
- 江都の変で父善心は宇文化及に殺害された。敬宗は流転して李密に投じ、李密は元帥府記室とし魏徴と共に管記を務めさせた。武徳初年、赤牒により漣州別駕に擬せられた。太宗はその名を聞き秦府学士に召補した。
- 貞観八年、著作郎に累進し国史を兼修、中書舎人に遷った。貞観十年、文徳皇后崩御の際、百官が喪服を着た中、率更令欧陽詢の容貌の醜さを人々が指さすのを見て敬宗が大笑いし、御史に弾劾され洪州都督府司馬に左遷された。給事中に累進し国史を兼修。貞観十七年、《武徳実録》《貞観実録》編纂の功で高陽県男に封じられ物八百段を賜り検校黄門侍郎を権知した。
- 高宗の東宮時代、太子右庶子に遷った。貞観十九年、太宗自ら高麗親征の際、皇太子が定州で監国し、敬宗は高士廉らと機要を共知した。中書令岑文本が行在で没すると、敬宗は本官のまま検校中書侍郎となった。太宗が駐蹕山で高麗軍を大破した際、敬宗は馬前で詔書を起草し、その文才は深く賞賛された。
- 廃太子李承乾の一件以来、宮僚の多くが除名され久しく赦されずにいたことに対し、敬宗は上表した(要旨)。廃官のうち五品以上の除名棄斥は年月を経ている。承乾は宗戚と結び陰謀を企てたが宮内の僚属には関与のない者も多い、罪を過度に連座させるべきではない、呉の爰盎が劉濞に連座しなかった故事、昌邑中尉王吉が海昏侯の罪から免れた故事などを引き、隋の楊勇廃立の際も佞人のみが罰されたことなどを挙げ、張玄素・令狐徳棻・趙弘智・裴宣機・蕭鈞らの赦免を求めた。これにより張玄素らは徐々に用いられるようになった。貞観二十一年、銀青光禄大夫を加えられた。
許敬宗――高宗朝の宰相と栄達
- 高宗即位後、於志寧に代わり礼部尚書。娘を蛮酋馮盎の子に嫁がせ多くの金宝を得たことが有司に弾劾され鄭州刺史に左遷。永徽三年、衛尉卿に入り弘文館学士を加え国史を兼修。六年、礼部尚書に復し、高宗が王皇后を廃し武昭儀を立てようとした際、敬宗は特にこれに賛成した。長孫無忌・褚遂良・韓瑗らが直言して旨に逆らうと、敬宗は李義府と共にこれを構陥し、いずれも嶺外に流し死に至らしめた。
- 顕慶元年、太子賓客を加えられ、まもなく侍中に冊拝され国史を監修。三年、郡公に進み、父善心に冀州刺史を追贈された。高宗が古の長安城を遊覧した際、秦漢以来何代がここに都したかを問うと、敬宗は秦の咸陽、漢の恵帝の築城、その後苻堅・姚萇・北周の都となった経緯を答えた。昆明池の開鑿時期を問われると、漢武帝が西南夷討伐のため水戦訓練用に穿った元狩三年の事業であると答えた。高宗は敬宗に弘文館学士とともに秦漢以来の宮室所在を検討させ奏上させた。
- その年、李義府に代わり中書令となり任遇は当朝並ぶ者がなかった。龍朔二年、新令により右相と改称、光禄大夫を加えられた。三年、太子少師・同東西台三品に冊拝され国史監修も続けた。乾封初年、老齢で歩行が困難となったため、司空李勣とともに小馬で禁門から内省に入ることを特に許された。
許敬宗――国史の偏頗と晩年
- 敬宗は国史編纂を掌りながら記述を曲げることが多かった。かつて虞世基が宇文化及に殺された際、内史舎人だった封徳彜がその場を目撃しており「世基が誅されると虞世南は身を投げ出し代わろうとしたが、善心の死に際し敬宗は舞い踊って命乞いをした」と人に語った。人々はこれを話の種にし、敬宗はこれを深く恨み、封徳彜の伝を書く際にことさら罪悪を誇張して記した。
- 敬宗は娘を左監門大将軍銭九隴(もと皇室の隷人)に嫁がせ財を得るため、九隴のために門閥を曲げて記し功績を誇張し劉文静・長孫順徳と同列に立伝した。子のために尉遅敬徳の孫娘を娶らせ多くの賄賂を得たため、敬徳伝ではその過失をすべて隠した。白州の蛮族出身の龐孝泰が高麗遠征に従軍し敵に敗れた際も、敬宗はその財貨を受け取り「孝泰はしばしば敵を破り数万を斬獲した」と虚偽の記述をした。実際には蘇定方・龐孝泰こそ勇将で曹継叔・劉伯英はその下と記すなど、虚偽と隠蔽がこの通りであった。高祖・太宗両朝の実録は敬播が修めた部分は詳細で公正だったが、敬宗は自らの愛憎により削除・改変を加え、論者はこれを非難した。
- とはいえ貞観以来、朝廷が編纂した《五代史》《晋書》《東殿新書》《西域図志》《文思博要》《文館詞林》《累璧》《瑶山玉彩》《姓氏録》《新礼》は皆敬宗が総知しており、前後の褒賞は数えきれない。
- 敬宗は好色で節度がなかった。長子の許昂は才藻に恵まれ太子舎人に至ったが、母裴氏の没後、裴氏の侍婢で敬宗が寵愛し継室とした虞氏(仮姓)と密通を続け、敬宗はこれに怒り虞氏を追放し許昂を不孝として嶺外への流罪を奏請した。顕慶中、敬宗の願いで虔化令に還任されたがまもなく没した。
- 咸亨元年、致仕を願い許され特進を加えられ俸禄はそのままとされた。三年薨去、享年八十一。高宗は挙哀し三日間朝を廃し文武百官に弔問させ、開府儀同三司・揚州大都督を追贈し昭陵に陪葬した。文集八十巻。
- 太常が諡を定める際、博士袁思古は「敬宗は才により昇進し清要の職を歴任したが、長子を辺境に捨て置き、末娘を夷狄に嫁がせた。学問礼儀の家風は失われ婚姻は賄賂によるものだった。謚法の『名与実爽』により『繆』と諡すべき」と議した。敬宗の孫で太子舎人の許彦伯はこれを恥辱として袁思古と激しく争い、思古が許氏と旧怨があると訴え謚官の変更を求めた。太常博士王福畤は「謚は終わりを飾る称号で得失は一朝、栄辱は千載に及ぶ、嫌隙が事実なら法に照らして判断すべきだが、そうでなければ直道は曲げられない」と述べ思古の議を支持した。戸部尚書戴至徳が「高陽公(敬宗)ほどの任遇でなぜ『繆』とするのか」と問うと、王福畤は「昔晋の何曾は忠孝の人であったが一日一万銭を食したことから繆丑公と諡された、敬宗の忠孝は何曾に及ばず、飲食男女の過失は何曾以上であるから『繆』の諡は許氏に対しても不足がない」と答えた。詔により尚書省五品以上が重議し、礼部尚書袁思敬が「謚法『既過能改』により『恭』とすべき」と議し、詔はこれに従った。
- 許彦伯は許昂の子で著作郎として起家、敬宗の晩年の文筆は多くが彦伯の代作であった。また婢妾の讒言により嶺表に流されたが赦免され太子舎人に復した。早世し文集十巻を残した。
李義府――寵幸への道
- 瀛州饒陽の人。祖は梓州射洪県丞であったため永泰に居を構えた。貞観八年、剣南道巡察大使李大亮が文才を認め推薦、対策に及第し門下省典儀を授かった。黄門侍郎劉洎・侍書御史馬周にも推薦され監察御史となった。詔により本官のまま晋王(後の高宗)に侍し、東宮に上ると太子舎人・崇賢館直学士を加えられ、太子司議郎来済とともに文才を知られ「来・李」と並称された。
- 義府は《承華箴》を献じた。原初の混沌から陰陽が分かれ、聖王が国を治め徳を継承する道を説き、太子が学業に励み小善を軽んじず、佞諛や邪巧を退けて徳を積むべきことを戒めた内容であった。
- 太子はこの文を上奏し帛四十匹を賜り、《晋書》の編纂にも参与させた。高宗即位後、中書舎人に遷った。永徽二年、国史を兼修し弘文館学士を加えられた。高宗が武昭儀を皇后に立てようとした際、義府は密かにこれを助け、中書侍郎・同中書門下三品・監修国史に抜擢され広平県男に封じられた。
- 義府は容貌温恭で人と話す際は常に笑みを浮かべたが、実は褊狭で陰険であった。権要の地位につくと人が己に付くことを求め、少しでも意に逆らう者は陥れた。当時人々は「義府の笑いの中に刀がある」と評し、その柔和さで人を害する様から「李猫」とも呼んだ。
- 顕慶元年、太子右庶子を兼ね侯に進んだ。洛州の婦人淳于氏が姦通の罪で大理に繋がれた際、義府はその容姿を聞き大理丞畢正義に働きかけて自らの妾とし、罪を雪がせた。卿段宝玄がこれを疑い上奏、詔により調査させたところ畢正義は恐れて自縊した。侍御史王義方が朝廷で義府の罪状を弾劾し、義府がかつて劉洎・馬周に取り入って進出した経緯を猥雑な言葉で述べた。高宗は怒り王義方を萊州司戸に左遷し義府の罪は問わなかった。義府が「王御史の妄りな弾劾は恥ずかしくないのか」と言うと、王義方は「孔子は魯の司寇として七日で少正卯を誅した、私は御史として十六日経っても奸邪を除けなかった、それこそ恥である」と応じた。
- まもなく太子左庶子を兼ね、顕慶二年、崔敦礼に代わり中書令、検校御史大夫を兼ね学士職もそのまま。まもなく太子賓客を加え河間郡公に進んだ。三年、父李徳晟に魏州刺史を追贈、幼い子らも清官に列し邸宅を賜るなど栄寵並ぶ者なかった。しかし義府は貪欲極まりなく、母・妻・子・娘婿とともに官職や訴訟を売り、その門は市のごとく賑わった。腹心を多く引き入れ朋党を広げ朝野を動かした。
- 中書侍郎杜正倫が先任として義府に下ろうとせず、中書侍郎李友益と密かに義府への対策を図ったが、義府はこれを知り密かに人を遣り奏上、正倫と義府は御前で互いの非を訴え合い、高宗は両者を責め義府を普州刺史、正倫を横州刺史に貶し友益を峰州に配流した。顕慶四年、義府は召還され吏部尚書・同中書門下三品を兼ねた。龍朔元年、母の喪に服したが、二年、起復し司列太常伯・同東西台三品となった。
- 義府は祖父の改葬を図り永康陵の側に墓を営んだ。三原令李孝節は私に人夫や車牛を徴発し昼夜築造にあたらせ、高陵・櫟陽・富平・雲陽・華原・同官・涇陽の七県も孝節に強いられ夫役に出た。高陵令張敬業は勤勉だが体力に乏しく作業中に死去した。王公以下が競って贈り物をし、葬送の儀仗・器物は極めて奢侈を極め、灞橋から三原まで七十里にわたり葬列と供物が絶えなかった。武徳以来これほど盛大な葬儀はなかったという。義府は本来鑑識の才に乏しく武后の勢威を頼み専ら売官を事とし、銓序は乱れ怨嗟が多かった。殷王が初めて出閣した際には殷王府長史も兼ねた。三年、右相に遷り殷王府長史・知選事はそのまま。
- 義府は内では諂い外では奸悪を恣にし、百僚は畏れて誰も過ちを言えなかった。高宗はその罪を薄々知り「卿の子や婿が謹まず罪を犯していると聞くが朕も庇ってきた、公言はしていないが慎むように」と諭したところ、義府は顔色を変え「誰が陛下にそう告げたのか」と問い、高宗が「私自身がそう言っているだけだ、誰から聞いたか問う必要があるか」と答えると、義府は納得せず悠然と立ち去った。高宗はなお寛容に扱った。
- 五礼の儀注は前代を踏襲し吉礼・凶礼を併記していたが、太常博士蕭楚材・孔志約が皇室の凶礼を予め記すのは臣子として不敬とし、義府はこれに同意し悉く削除・焼却させた。
- 義府は栄達後、自らを趙郡の出と称し諸李氏と昭穆を通じ、無頼の徒も権勢にすがり兄叔と称する者が多かった。給事中李崇徳は当初これに同調していたが、義府が普州刺史に左遷された際に除籍し、義府は宰相に復した後これを恨み人を使って罪を構陥させ、崇徳は下獄し自殺した。
- 貞観中、吏部尚書高士廉・御史大夫韋挺・中書侍郎岑文本・礼部侍郎令狐徳棻らと四方の門閥に詳しい士大夫が《氏族志》百巻を撰し、当時公正と評され諸州に頒布されていたが、義府は自家に名が無いことを恥じ、礼部郎中孔志約・著作郎楊仁卿・太子洗馬史玄道・太常丞呂才に命じ改修させた。志約らは「皇朝で五品官を得た者は皆士流に昇格させる」との規則を立て、軍功で五品に至った兵卒までもが入書し《姓氏録》と改名された。これにより搢紳士大夫の多くが甄敘されることを恥とし、この書を「勲格」と呼んだ。義府はさらに天下の《氏族志》の底本を集め焼却させた。関東の魏斉の旧姓は勢力が衰えていたが誇りを保ち婚姻も内輪で行っていた。義府は子の婚姻を求めて拒まれたため、隴西李氏など七家に他家との通婚を禁じる奏を行った。
李義府――失脚と末路
- 陰陽占候の術者杜元紀は義府に望気を行い「邸宅に獄気があり銭二千万を積めば禳える」と告げ、義府はこれを信じ収奪をさらに強めた。母の喪に服す間、朔望に哭礼のための休暇が定められていたが、義府は微服で元紀とひそかに城東に出て古墳に登り望気を行い哀礼を廃した。これにより人々は義府が災異をうかがい異図を懐いていると噂した。
- 義府は子の右司議郎李津を遣り、長孫無忌の孫長孫延に「官職を得させよう、数日で詔書が出る」と告げ、五日後果たして司津監に任じられ、延から七百貫の銭を取った。これを右金吾倉曹参軍楊行穎が上表して弾劾、司刑太常伯劉祥道と侍御史が詳刑を担当し司空李勣が監督のうえ調査した結果、罪はすべて事実と判明し、制が下された。右相・行殷王府長史・河間郡公李義府は禁中の言を漏らし寵授を賣り、占候の人と交わり喪の哀礼を軽んじた、多年の任用ゆえ極刑は加えないが除名して巂州に長流する。子の太子右司議郎李津も権門を恃み姦淫収賄を働き、機密を漏らしたため除名して振州に長流する。次子の率府長史李洽・千牛備身李洋・娘婿の少府主簿柳元貞らも贓を受けたとして皆除名し延州に長流した。
- 朝野は皆慶び、当時「今日巨唐年、還誅四凶族」と語られた。四凶とは李洽・柳元貞ら四人を指す。また《河間道行軍元帥劉祥道破銅山大賊李義府露布》なる文が作られ大通りに掲げられた。義府は多くの奴婢を占有していたが、失脚するとたちまち各々の家に散り、「露布」に「奴婢を放ち各々が家に競い入った」と記されたのはこのことである。
- 乾封元年、大赦があったが長流の者は帰還を許されず、義府は憂憤のうちに病に倒れ没した。享年五十余。文集三十巻が世に伝わり、《宦遊記》二十巻も著したがまもなく散逸した。義府流罪の後、朝廷の官吏は常にその復帰を恐れていたが、死の報を聞いて初めて安堵した。
- 上元元年、大赦により義府の妻子は洛陽に帰ることを許された。如意元年、則天は義府と許敬宗・御史大夫崔義玄・中書舎人王徳倹・大理正侯善業・大理丞袁公瑜の六人が永徽年間に翊賛の功があったとして、義府に揚州大都督、崔義玄に益州大都督、王徳倹に魏州刺史、袁公瑜に江州刺史を追贈した。長安元年、義府の子で左千牛衛将軍の李湛と敬宗の諸子に実封各三百戸、崔義玄の子で司賓卿の崔基と王徳倹の子で殿中監の王璇に各二百五十戸、侯善業の子知一と袁公瑜の子忠臣に各二百戸を賜った。睿宗即位の景雲元年、義府ら六家の実封は停止された。
李義府――子・李湛の政変参加
- 義府の末子李湛は六歳の時、父の縁で周王文学を授かった。神龍初年、右散騎常侍に累進し河間郡公を襲封した。鳳閣侍郎張柬之が張易之兄弟の誅殺を図った際、李湛を左羽林将軍に引き入れ、敬暉らとともに皇太子に誅殺の意を伝えさせ、太子はこれを許した。挙兵の際、李湛は右羽林大将軍李多祚らと東宮に赴き皇太子を迎えたが太子は出るのを渋った。李湛は「逆賊が道を乱し不軌を図り宗社が危うい、諸将が南衙の官と協力し誅殺を期している、殿下には玄武門にお出ましいただき衆望に応えていただきたい」と進言、太子は「凶徒は誅すべきだが聖躬に驚動があってはならない、しばし待て」と述べたが、李湛が「諸将は家族を捨て宰相と共に社稷を輔けようとしているのに、殿下がその真心を憐れまず陥れようとするのか」と重ねて訴えると、太子は馬を馳せて向かった。
- 李湛は太子に従い玄武門に至り門を破って入り、則天の寝所である長生殿を包囲した。則天に「臣らは易之・昌宗の誅殺を奉じたが漏洩を恐れ事前に奏上できなかった、禁中に兵を陳したことは死罪に値する」と奏上すると、則天は李湛に「お前も易之誅殺の将軍か、お前の父子には恩が薄くないのに、なぜこのようなことをするのか」と述べた。則天は上陽宮に移り李湛が宿衛にあたった。中宗即位後、右羽林大将軍に拝され趙国公に進み実封は五百戸に達した。まもなく左散騎常侍に復し左領軍衛大将軍に累転、開元初年に没した。崔義玄は別に伝がある。
史論
史臣曰く、許敬宗(高陽)は武徳の頃すでに文皇(太宗)の秦府学士として入館の賓であり、三十年に及んだが官位は列曹の尹を超えなかった。一方、馬周・劉洎は寄る辺なき身から六七年で宰相の位に登った。その実力を考えれば、高陽の文学の該博さは馬周・劉洎に劣らないが、太宗の待遇が異なったのは高陽が才に優れながらも行いが薄かったためである。ところが暗愚な後継の君(高宗)と奸邪な寵妃(武氏)に至って、豺狼に阿附し権力の座を窺うようになり、人の凶険はここに極まった。孔子のいわゆる「周公ほどの才があっても、見るに足らない」とはこのことであろう。李義府の才思は精密だったが、いわゆる「猩猩よく言うも」という評のとおり、鄙しむべき人物であった。
贊にいう。貞観の文士に高陽(許敬宗)・河間(李義府)がいた。学館に肖像を描かれ、筆を染めて詩文の山を成した。文筆によって身を立てたが、その地位を得たのは奸計によるものであった。虎に翼を添えるようなもので、そのような姿にどうして恥じないでいられようか。