舊唐書卷八十五 列傳第三十一 盧承慶

算民の才と一族

  • 幽州范陽の人、隋の武陽太守盧思道の孫。父盧赤松は大業末に河東令であり、高祖と旧交があった。義軍が霍邑に至ると県を捨てて出迎え、行台兵部郎中を授かった。武徳中、率更令に累進し范陽郡公に封じられまもなく没した。
  • 承慶は容姿優れ博学で才幹があり、若くして父の爵を継いだ。貞観初年、秦州都督府戸曹参軍として河西の軍事を上奏、太宗はその明弁を奇として考功員外郎に抜擢、民部侍郎に累進した。太宗が歴代の戸口数を問うと、承慶は夏殷以来周隋に至るまで的確に述べ太宗は久しく感嘆した。
  • 検校兵部侍郎を兼ね五品選事を知ることとなったが、承慶は「選事は尚書の職掌であり越権になる」と辞退したが太宗は「朕が信じる卿がなぜ自らを信じないのか」と許さなかった。雍州別駕・尚書左丞を歴任。永徽初年、褚遂良に構陥され益州大都督府長史に出された。さらに雍州時代の旧事を持ち出され簡州司馬に左遷、翌年洪州長史に転じた。
  • 高宗が汝州温湯へ行幸するに際し汝州刺史に抜擢、のち光禄卿。顕慶四年、杜正倫に代わり度支尚書・同中書門下三品となったが度支の不手際で潤州刺史に出され、再び雍州長史に遷り銀青光禄大夫を加えられた。総章二年、李乾祐に代わり刑部尚書となり、老齢を理由に致仕を願い許され金紫光禄大夫を加えられた。
  • 総章三年、病没。享年七十六。臨終に子を戒めて「死生は自然の理、朝と暮のごとし。私が死んだら常服で殮すべし。晦朔の供物は牲牢を用いるな。墳は分かる程度に高くすればよく広大にする必要はない。事が調えばすぐに葬り占いを重ねる必要はない。墓の副葬品は瓷器と漆器のみでよく、棺のみで槨は不要、簡素を旨とせよ。碑志には官号・年代のみを記し文飾は不要」と告げた。幽州都督を追贈、諡を定とした。
  • 弟の盧承業も学識があった。貞観末、雍州長史・検校尚書左丞に至り、兄弟が相次いでこの職に就いたことは当時栄誉とされた。承慶の一件に連座し忠州刺史に左遷されたが、顕慶初年再び雍州長史に復し、いずれも能吏として知られた。左粛機・司列選事を兼ね魏県子の爵を賜った。総章中、揚州大都督府長史で没し洺州刺史を追贈、諡を簡とした。
  • 承業の弟承泰は斉州長史。承泰の子盧齊卿は長安初年雍州録事参軍。則天が雍州長史薛季旭に御史に足る官吏を選ばせた際、齊卿は長安尉盧懐慎・李休光・万年尉李乂・崔湜・咸陽丞倪若水・盩厔尉田崇辟・新豊尉崔日用を推薦し、いずれも後に大官となった。齊卿は開元初年豳州刺史となり、果毅張守珪を礼遇し「十年以内に節度使になるだろう」と評し、その言の通りになったため当時人倫の鑑があると評された。酒を好み一斗余り飲んでも乱れず寛厚で親しみやすく、士友に好かれた。太子詹事に累進、広陽県公に封じられまもなく没した。
  • 承慶の弟の孫、藏用は別に伝がある。