舊唐書卷八十五 列傳第三十一 崔敦禮

出自と直言

  • 雍州咸陽の人、隋の礼部尚書崔仲方の孫。先祖は博陵に居り山東の著姓であったが魏末に関中に移った。敦禮は本名を元礼といったが高祖が改名させた。文史に通じ節義を重んじ蘇武(子卿)の生き方を慕った。
  • 武徳中、通事舎人。武徳九年、太宗の命で幽州へ廬江王李瑗を召しに赴いた際、李瑗が挙兵し敦禮を捕らえ京師の情勢を尋ねたが、敦禮は決して異心を語らなかった。太宗はこれを壮とし左衛郎将に遷し良馬・黄金を賜った。
  • 貞観元年、中書舎人に抜擢、兵部侍郎に遷りしばしば突厥へ使いした。累進して霊州都督。貞観二十年、兵部尚書に。回紇・鉄勒の部落を安撫する詔を受けた。延陀の侵寇に際し、瀚海都督回紇の吐迷度が部下に殺された時、敦禮が部落を綏撫しその嗣子を立てて帰った。蕃情に通じ、奏請は多く事情に適った。
  • 永徽四年、高季輔に代わり侍中となり固安県公に累封、国史を修めた。六年、光禄大夫を加え柳奭に代わり中書令、検校太子詹事も兼ねた。老病により退官を願い出、顕慶元年太子少師・同中書門下三品となる。子の定襄都督府司馬崔餘慶を召し看病させた。まもなく没した。享年六十余。高宗は東雲龍門で挙哀し、東園秘器を賜り、開府儀同三司・并州大都督を追贈、昭陵に陪葬され絹布八百段・米粟八百碩を賜り、諡を昭とした。子の崔餘慶は兵部尚書に至った。孫の崔貞慎は神龍初年兵部侍郎となった。