舊唐書卷八十四 褚遂良・韓瑗・來濟・上官儀

褚遂良――出自と直言

  • 散騎常侍褚亮の子。大業末、父とともに隴右にあり、薛挙が僭号した際、通事舎人に任じられた。薛挙敗北後帰順し秦州都督府鎧曹参軍を授かった。貞観十年、秘書郎から起居郎に昇進。
  • 博く文史に通じ隷書に巧みで、父の友人欧陽詢に重んじられた。太宗は魏徴に「虞世南死後、書を論じられる者がいない」と言い、魏徴は「褚遂良の筆は力強く王羲之の書法をよく体現している」と答えた。太宗はその日のうちに侍書に任じた。
  • 太宗が御府の金帛で王羲之の書跡を求めた際、天下の者が真偽の定かでない古書を献じたが、褚遂良は出所を精しく論じ誤りがなかった。
  • 貞観十五年、泰山封禅に先立ち洛陽行幸の際、彗星が太微垣・郎位を犯した。褚遂良は「陛下の功業は前代を超えているが、洛陽行幸中に彗星が現れたのは何か不都合の兆しかもしれない。漢武帝も数年熟慮の末に封禅を行った」と諫め、太宗は封禅を中止した。その年、諫議大夫に遷り起居事を兼知した。
  • 太宗が起居記録を人主が見てよいか問うと、褚遂良は「古の左右史は言行・善悪を記し人主を戒める、帝王自ら史を見ることは聞かない」と答え、太宗の「朕の不善も必ず記すのか」との問いに「職を守るべきで、君の挙動は必ず記す」と答えた。黄門侍郎劉洎も「記さずとも天下が記録する」と賛同した。
  • 魏王泰が太宗に嫡子同様に寵愛されていた頃、太宗が「今国家の急務は何か」と問うと、中書侍郎岑文本は礼義と答えたが、褚遂良は「太子・諸王の名分を定め万代の法とすべき」と進言した。太宗はこれを是とし、「長子を東宮に立てたが弟や庶子は多く心配は尽きない、賢者を選び太子を輔けよ」と述べ、王府官僚の任期を四考までと制限した。
  • 貞観十七年、太宗が舜・禹の漆器・彫俎への諫言の故事を問うと、褚遂良は「奢侈は小事から始まり止まらなくなる、だから臣は兆しの段階で諫めるのだ」と答え、太宗はこれを是とした。
  • 皇子の若年で都督・刺史に任じられる者が多いことに対し上疏した(要旨)。両漢の郡国制と皇子分封の制度を引き、若い皇子は経学を学ばせ朝儀に慣れさせてから任地に出すべきと説き、後漢の明帝・章帝・和帝の兄弟教育の成功例を挙げた。太宗はこれを深く納れた。
  • その年、太子承乾が廃され魏王泰が入侍し太宗が太子に立てると許した際、太宗は侍臣に魏王の「自分の子を殺して晋王に位を伝える」との言葉に感涙したと語ったが、褚遂良は「魏王が天下の主となって自らの愛子を殺し晋王に位を伝えるなどありえない、嫡庶を混同したことがこの事態を招いた、晋王を安全な地位に置くべき」と諫めた。太宗は涙を流し「私にはできない」と述べ、長孫無忌・房玄齢・李勣・褚遂良らと諮り晋王を皇太子に立てた。
  • 宮殿に雉が飛来した際、群臣が秦の文公の故事(雄雉を得た者が王となる、後漢光武帝も雄雉を得て天下を得た)を引き、太宗の旧封地秦での吉兆と述べたのに対し、太宗は「学のない者は立身できない、褚遂良の博識は重んじるべき」と評し、太子賓客を授けた。

褚遂良――薛延陀婚姻拒絶をめぐる諫言

  • 薛延陀が求婚した際、太宗は娘を嫁がせると約束し聘礼を受けたが後に破談とした。褚遂良は上疏した(要旨)。信は国の根本であり、薛延陀は唐の恩により可汗に立てられ婚姻を約束されたことで諸国にまで信義が知れ渡っていた。今になって約束を翻すことは国家の信用を損ない、晋の文公が原を攻めた故事(信を重んじ撤退した)を引きつつ、西州・朔方の辺境が動揺し軍事にも悪影響が及ぶと諫めた。唐の威徳は堯舜禹湯を超えるとまで称えつつ、遠方への寛容な統治を求めた。

褚遂良――高麗遠征への諫言

  • 太宗が高麗の莫離支による国王弑逆を口実に親征を計画した際、褚遂良は「陛下の武略は比類ないが、遼東渡海後に万一躓けば威信を損ない、再び怒りに任せた出兵をすれば安危は測りがたい」と諫めた。兵部尚書李勣は延陀討伐を魏徴の諫言で見送ったことを悔やむ発言をし、太宗もこれに同調して渡遼の計画を進めた。褚遂良は改めて上疏した(要旨)。国家は身体に例えれば両京は心腹、四境は手足であり、遠征は身外の事にあたる。高麗討伐は数万の兵と有能な将軍を派遣すれば足り、皇帝自ら遠征する必要はない。漢魏以来、人臣が高麗を征した例はあっても人主自らが遠征した例はない。太子はまだ若く、遠征中の万一を考えれば都に留まり将を用いるべき、と説いた。太宗はこれを聞き入れなかった。
  • 貞観十八年、黄門侍郎となり朝政に参与。高麗莫離支が貢納した際、褚遂良は「弑逆の使者の貢物を受けるべきではない」と《春秋》の宋督・郜鼎の故事(臧哀伯の諫言)を引いて諫め、太宗はこれを納れ使者を獄吏に付した。

褚遂良――高昌経営への諫言

  • 太宗が高昌を滅ぼし毎年千余人を防備に送っていたことに対し、褚遂良は上疏した(要旨)。古の賢君は華夏を先にし夷狄を後にした。漢武帝の西域経営は国力を疲弊させ、後に輪台での屯田を悔い詔を下して撤退したことで天下が安んじた例を引き、高昌の地は手足に過ぎず、河西こそ心腹であるから、無用の遠地に国力を費やすべきでないと説いた。あわせて、高昌の元の王族から立てるべき者を選び本国へ帰し藩屏とすることで、中国を煩わせず永く安定を保てると進言した。

褚遂良――東宮教育への諫言

  • 太宗が皇太子を寝殿脇の院に住まわせ東宮に行かせなかったことに対し、褚遂良は上疏した(要旨)。周・漢の故事、《礼記》の男子十歳で外に出て学ぶという教えを引き、太子を宮中に留め置くことは教育上望ましくない、少しずつ東宮に戻し師傅に親しませ経籍を学ばせるべきと諫めた。太宗はこれに従った。

褚遂良――晩年と最期

  • 褚遂良は数十度にわたり諫奏を行い多く採用され、その年銀青光禄大夫を加えられた。貞観二十一年、検校大理卿を兼ね、父の喪により職を退いたが翌年復職し中書令となった。
  • 貞観二十三年、太宗は病床に褚遂良と長孫無忌を召し「昔漢武帝は霍光に、劉備は諸葛亮に後事を託した、朕の後事は卿らに委ねる」と述べ、太子に「無忌・遂良がいれば国事に憂いはない」と語り、褚遂良に詔を起草させた。
  • 高宗即位後、河南県公を賜り、永徽元年郡公に進んだ。事に坐して同州刺史に出されたが、永徽三年吏部尚書・同中書門下三品・監修国史に復し光禄大夫を加えられた。四年、尚書右僕射となる。
  • 永徽六年、高宗が王皇后を廃し昭儀武氏を皇后に立てようとした際、長孫無忌・李勣・於志寧・褚遂良を召してこの件を諮った。褚遂良は「皇后は名家の出で先帝が娶り婦徳に欠けるところがない、先帝が『我が良き子と良き嫁を汝に託す』と述べた言葉が今も耳にある、廃するべきでない」と諫め、笏を殿階に置き「これを陛下にお返しする」と述べ叩頭して血を流した。高宗は激怒し退出させたが、長孫無忌が「遂良は先朝の顧命の臣であるから罪を加えてはならない」ととりなした。李勣は「これは陛下の家事であり外臣が関与すべきでない」と述べ、高宗は昭儀を皇后に立て、褚遂良を潭州都督に左遷した。顕慶二年桂州都督、まもなく愛州刺史に貶され、翌年任地で没した。享年六十三。
  • 没後二年余、許敬宗・李義府が長孫無忌の謀反に褚遂良が加担したと奏上し、官爵を追削され子孫は愛州に配流された。弘道元年二月、高宗の遺詔により本郡に帰された。神龍元年、則天の遺制により褚遂良と韓瑗の爵位が回復された。

韓瑗――王皇后擁護の諫言

  • 雍州三原の人。祖父韓紹は隋の太僕少卿。父韓仲良は武徳初年大理少卿として律令の制定に携わり、周代の律の煩雑さに対し寛簡な律の制定を高祖に進言、《開皇律》を基に律令を整えた。貞観中、刑部尚書・秦州都督府長史・潁川県公に至った。
  • 韓瑗は若くして節操があり博学で吏才があった。貞観中、兵部侍郎に至り父の潁川公を襲った。永徽三年、黄門侍郎。四年、中書侍郎来済とともに同中書門下三品・監修国史。五年、銀青光禄大夫。六年、侍中に遷り太子賓客を兼ねた。
  • 高宗が王皇后廃立を図った際、韓瑗は涙ながらに「皇后は先帝が娶った方で過ちがないのに廃するのは誰もが動揺する、国家に度重なる廃立は長久の策ではない」と諫めたが聞き入れられず、翌日再び諫めて悲泣した。高宗は激怒し退出させた。
  • 尚書左僕射褚遂良が旨に逆らい潭州都督に左遷された際、韓瑗は上疏して弁護した(要旨)。褚遂良は太宗の顧命を受けた忠臣であり、罪状もないのに朝廷を追われたことは内外の人々を嘆かせている、晋の武帝が劉毅を誅さず漢の高祖が周昌の直言を咎めなかった故事を引き、褚遂良への処罰の撤回を願った。
  • 高宗が「遂良の悖戻は事実だ」と答えると、韓瑗は「遂良は社稷の忠臣であり、讒言により忠貞の臣が損なわれることを恐れる」とし、殷の微子去りて国が滅び、晋の張華が死なずして綱紀が乱れなかった例を引き、旧臣を退けることの是非を再考されたいと重ねて諫めたが、高宗は聞き入れなかった。韓瑗は言が用いられないことを憂い辞職を上表したが許されなかった。
  • 顕慶二年、許敬宗・李義府が皇后の意を受け、韓瑗が褚遂良と不軌を謀ったと誣告し、褚遂良は愛州刺史に、韓瑗は振州刺史に左遷された。顕慶四年、任地で没した。享年五十四。翌年、長孫無忌の死後、許敬宗らは韓瑗も無忌と通謀したと奏上し使者を遣り誅殺しようとしたが、使者到着時には既に死去しており、棺を暴いて検屍のうえ家財を没収、孫は嶺表に配流された。神龍元年、則天の遺制により官爵を回復された。

来済(兄・来亙)――諫言と戦死

  • 揚州江都の人。隋の左翊衛大将軍栄国公来護の子。宇文化及の乱で一族が殺害された際、幼くして難を逃れ流離したが学を好み、文才・弁舌に優れ時務に通じた。進士に挙げられ貞観中、通事舎人に累進。
  • 太子承乾が廃された際、太宗が処遇を問うと群臣は答えなかったが、来済は「陛下が上は慈父としての務めを失わず、下は太子が天寿を全うできるようにすることこそ善である」と進言し、太宗はこれを納れた。まもなく考功員外郎。
  • 貞観十八年、太子司議郎の新設に伴い選ばれ崇賢館直学士を兼ねた。まもなく中書舎人に遷り令狐徳棻らと《晋書》を撰した。永徽二年、中書侍郎・弘文館学士・監修国史。四年、同中書門下三品。五年、銀青光禄大夫、国史編纂の功で南陽県男に封じられ絹七百段を賜った。六年、中書令・検校吏部尚書に遷った。
  • 高宗が昭儀武氏を宸妃に立てようとした際、来済は密表して「宸妃は古にない称号であり不可」と諫めた。武后が立った後、来済らは不安に思ったが、武后は表向き来済の忠を称え慰労を求めつつ、内心では憎んでいた。
  • 顕慶元年、太子賓客を兼ね侯に進み中書令はそのまま。二年、太子詹事も兼ねたが、まもなく許敬宗らに褚遂良との朋党を構えたと奏され台州刺史に左遷。五年、庭州刺史に移された。
  • 龍朔二年、突厥の侵入に対し来済は兵を率いて防戦し「かつて刑網にかかったが命を赦された身、国恩に報いるべき」と述べ、甲冑を脱がずに敵に赴き戦没した。享年五十三。楚州刺史を追贈され霊柩は故郷に送られた。文集三十巻が伝わる。
  • 兄の来亙も学行があり来済と並び称された。上元年間、黄門侍郎・同中書門下三品に至った。

上官儀――文才と非業の死

  • 陝州陝の人。父上官弘は隋の江都宮副監で江都に居を構えたが、大業末に将軍陳稜に殺害された。上官儀は幼く難を逃れ、私度して沙門となり仏典に遊び《三論》に精しく、経史も学び文章に優れた。貞観初年、都督楊仁恭に厚遇され進士に挙げられた。太宗はその名を聞き弘文館直学士に任じ、秘書郎に累進。太宗の文事に常に侍り、《晋書》の編纂にも参与し起居郎に転じ加級された。
  • 高宗即位後、秘書少監に遷る。龍朔二年、銀青光禄大夫・西台侍郎・同東西台三品、弘文館学士を兼ねた。五言詩に優れ綺錯婉媚を旨とする詩風は「上官体」と呼ばれ当時模倣者が多かった。才を恃み権勢を振るったため当代から嫉まれた。
  • 麟徳元年、宦者王伏勝が梁王李忠と共に罪に問われた際、許敬宗が上官儀を李忠との通謀に構陥し、下獄の末に死去、家族も没籍された。子の上官庭芝も周王府属の職にあったが共に殺害された。庭芝の娘(上官婉児)が中宗の代に昭容となり詔誥の起草に侍ったため、上官儀は中書令・秦州都督・楚国公を、庭芝は黄門侍郎・岐州刺史・天水郡公を追贈され、礼をもって改葬された。

史論

史臣曰く、褚遂良(河南)の上書は経世の遠略に富んでいた。魏徴・王珪以後、骨鯁の風格を備え王佐の器と呼べる者は稀であり、名臣としての事業は褚遂良にこそあった。かつて斉人が魯に女楽を贈り孔子が去った故事、戎王が女妓に溺れ由余が出奔した故事のように、婦人の言葉は聖哲すら禍を恐れるものであるのに、まして二人の佞臣(許敬宗・李義府)が権力の要衝を占め正しき人々を害することの恐ろしさは言うまでもない。古の志士仁人は一言の約束に命を賭して悔いなかった、まして君臣の間、託孤の任を受けて利害禍福によりその言を忘れるようなことがあってよいものか。韓瑗・来済ら諸公は死をもって正道を守り、幸いを求めて節を曲げなかった人々と言えよう。

贊にいう。褚公の言葉は和やかで楽しく、鐘や石の楽器のように調和した雅音を奏でるようであった。二匹の狂犬(許敬宗・李義府)が並び吠える中、三賢(褚遂良・韓瑗・来済)は一心であった。人はみな去就をうかがう中、我らは浮沈しなかった。