舊唐書卷八十三 祖孝孫・傅仁均・傅奕・李淳風・呂才

祖孝孫――出自と業績

  • 幽州范陽の人。父崇儒は学業で知られ斉州長史となった。孝孫は博学で暦算に通じ、若くして高い見識で知られた。
  • 隋の開皇年間、鐘律の制度に欠落が多く、何妥・鄭譯・蘇夔・萬寶常らが検討したが定まらなかった。
  • 江南平定後、陳の楽官蔡子元・於普明らを得て清商署を置いた。太常卿牛弘の下で協律郎となり、子元・普明とともに雅楽を定めた。
  • 陳の陽山太守毛爽から京房律法を学び、一律から五音、十二律から六十音、さらに六倍して三百六十音を得るなど、精緻な音律体系を構築した。
  • 淮南の旧数と京房の術を用いて三百六十律を求め、月ごとの律にあて、母子の関係で一年に配当し、七音(宮・商・徴・羽・角・変宮・変徴)を冬至から起こす体系を作り、旋宮の法を確立した。
  • 隋の牛弘は雅楽を改められず、大業年間も晋・宋の旧楽を用い旋宮の法は行われなかった。
  • 唐の高祖受禅後、著作郎、吏部郎、太常少卿を歴任し、雅楽の制作を奏請した。武徳七年、秘書監竇璡とともに雅楽の改定を命じられた。
  • 陳・梁の旧楽が呉楚の音を、周・斉の旧楽が胡戎の伎を交えていたことから、南北を斟酌し古音を考証して《大唐雅樂》を作った。十二月それぞれの律に従い旋宮し、十二楽・三十二曲・八十四調を制定した(詳細は《楽志》に記す)。
  • 長らく絶えていた旋宮の法を一新したのは孝孫に始まる。まもなく死去。後に協律郎張文収が《三礼》を参照し楽章を増減したが、孝孫の音を基とした。

傅仁均――暦法の改定と論争

  • 滑州白馬の人。歴算・推歩の術に優れた。武徳初年、太史令庾儉・太史丞傅奕の推薦で高祖に召され、旧暦の改修を命じられた。
  • 上表して七事を陳べた(要旨)。①漢の洛下閎の太初暦に倣い、武徳元年戊寅を上元の首とすること。②冬至の観測精度が従来より高いこと。③《毛詩》「十月之交」の日食記録と自説が符合すること。④《春秋命暦序》の魯僖公五年の記録と符合すること。⑤朔・望の大小を精密に定めたこと。⑥子の半ばから度を起こす方式の合理性。⑦遅疾定朔により朔前後の誤差を無くしたこと。
  • 数ヶ月を経て暦が完成し《戊寅元暦》と名付けられ、高祖はこれを善しとした。武徳元年七月、詔してこの暦を頒布し、仁均は員外散騎常侍を授けられ、絹二百段を賜った。
  • のち中書令封徳彜が暦術の誤りを奏上し、吏部郎中祖孝孫に得失を考えさせた。太史丞王孝通は《甲辰暦法》によりこれを論駁した(要旨)。《堯典》の「日短星昴」は中星を挙げただけで昴を基準とする根拠にならない、仁均の定朔の解釈は文にとらわれ意を害している、東壁昏中の観測や井宿・斗宿の位置関係から四季の寒暑が逆転する矛盾が生じる、定朔・定望と平朔・平望の違いなどを論じ、《甲辰元暦》を正統とすべきと主張した。
  • 仁均はこれに反論した(要旨)。祖沖之・張冑玄以来の宿度の変化(歳差)を孝通は理解しておらず、南斗・東井を固定した恒星と誤認していると批判。《易》《礼》《尚書》《詩》《春秋》などの経典を引き、朔をもって暦を正すのが聖人の教えであると論じ、秦漢以来の日食記録の不整合や何承天の議論にも触れつつ、自説の上元・合朔冬至の理論を詳述した。
  • 祖孝孫は仁均の説を是とした。
  • 貞観初年、益州の陰弘道が改めて王孝通の旧説を主張したが屈服させられなかった。李淳風はさらに仁均の暦の十八箇条を論駁し、大理卿崔善為に両説の得失を考させた結果、七条は淳風の説に改められ、残り十一条は旧説のままとされた。仁均は後に太史令となり、在官のまま没した。

傅奕――排仏論と直言

  • 相州鄴の人。天文暦数に通じた。隋の開皇年間、儀曹として漢王楊諒に仕えた。楊諒挙兵の際、熒惑(火星)が井宿に入ったことの吉凶を問われ、天上の東井は黄道が通る熒惑の常道であり怪異でないと答えた。楊諒は不満だったが、乱の失敗後、傅奕はこの回答のおかげで誅殺を免れ、扶風に移された。
  • 高祖が扶風太守だった頃から厚遇され、即位後は太史丞に任じられた。太史令庾儉が父庾質の一件(隋の煬帝の意に逆らい獄死)を憚り、傅奕を自らの後任に推薦、傅奕は太史令となった。庾儉と並んで働くが傅奕はしばしば庾儉を排斥した。世人は庾儉の仁厚と傅奕の率直をそれぞれ評価した。
  • 天文の密奏はしばしば上意に叶い、参旗・井鉞など十二軍の号は傅奕が定めたもの。武徳三年、《漏刻新法》を進上し行われた。
  • 武徳七年、仏教廃止を求める上疏(要旨)。仏教は西域由来で妖しい教えが遠来し、漢訳の胡書は虚妄の託宣に満ち、不忠不孝の輩が剃髪して君親を欺き、遊民が僧衣で租税を逃れている。地獄・応報の教えで愚民を脅し欺き、罪を犯した者が獄中で念仏し罪を免れようとする例もある。生死寿夭・刑罰の権は人主にあるべきなのに、僧が功徳を口実に権を私している。羲農以来漢魏まで仏法なくして君臣は久しく栄えたが、漢の明帝が夢を口実に胡神を立てて以来、五胡の乱など禍の因となった。梁武帝・北斉の例も戒めとすべきである。天下の僧尼十万余を婚姻させ生業に就かせれば国は富み兵力も増す、と説いた。斉の章仇子他が同様の上表をして刑死した先例を挙げつつ、自らもその志を継ぐと述べた。
  • さらに十一篇の上疏を奉り、言葉は切実であった。高祖は群臣に諮ったが、太僕卿張道源のみ理に適うと認めた。中書令蕭瑀は「仏は聖人である、傅奕の議は聖人を誹謗するものだから厳罰に処すべき」と反論した。傅奕は「礼は事親に始まり事君に終わる、仏は城を捨て出家し父を捨てる者であり忠孝に反する」と応酬し、蕭瑀を「無父の教えに従う者」と論難した。蕭瑀は答えられず合掌して「地獄はこういう人間のためにある」と言うのみであった。高祖は傅奕の言に従おうとしたが、譲位により沙汰止みとなった。
  • 武徳九年五月、傅奕は密奏して太白(金星)が秦分に見えたことを秦王(太宗)の天下取りの兆しと報告、高祖はこれを太宗に伝えた。太宗即位後、傅奕を召して食を賜り「以前の上奏は私を危うくするところだったが、今後も遠慮なく言うように」と告げた。
  • 太宗が仏道の霊験を尋ねたところ、傅奕は「仏は西域の狡猾者で夷狄を欺き、中国に流布した邪僻の教えに過ぎず、百姓に益なく国家に害がある」と答え、太宗も一定これに同意した。
  • 貞観十三年、八十五歳で没した。臨終、子に「老荘の書と周孔の六経こそ学ぶべきものである。妖しい胡教が世を惑わす中、自分だけがこれを嘆いたが誰も従わなかった。汝らは仏教を学ぶな。古人の裸葬に倣え」と戒めた。生涯病を得ても医薬を求めず、陰陽術数の書を究めながらもこれを信じなかった。ある時酔いから覚めて「私は死ぬだろう」と述べ、自ら墓誌「傅奕、青山白雲の人なり。酒に酔いて死す、ああ哀しいかな」を作った。《老子》に注し、《音義》を撰し、魏晋以来の排仏論者を集めた《高識伝》十巻を著した。

李淳風――渾天儀の改良と予言

  • 岐州雍の人。先祖は太原より移住。父李播は隋の高唐尉であったが官位の低さに不満で辞して道士となり、黄冠子と号した。《老子》に注し、《方志図》を撰し、文集十巻を著した。
  • 淳風は幼くして俊爽、群書に博く、とりわけ天文・暦算・陰陽の学に明るかった。貞観初年、傅仁均の暦を論駁し多くの折衷案を示し、将仕郎・直太史局に任じられた。
  • 上言した(要旨)。現行の霊台候儀は魏代の遺制で疎漏が多い。《虞書》の舜が璇璣玉衡で七政を整えた故事や《周官》の土圭による地中測定は混天儀・黄道の存在を裏付ける。周末にこの器は失われ、漢の洛下閎が混天儀を再造したが不備が多く、賈逵・張衡・陸績・王蕃らが修補したがいずれも赤道基準で黄道を反映していない。冬至・夏至の観測が赤道基準では合致しないことから、黄道渾儀の必要性を説いた。
  • 太宗はこれを採り、貞観七年に完成させた。銅製で三重構造、下部に基台を置き十字状で四隅に鰲足を立てた。第一儀(六合儀)は天経双規・渾緯規・金常規を備え二十八宿・十干・十二辰・経緯三百六十五度を表す。第二儀(三辰儀)は径八尺、璇璣規道・月游天宿矩度・七曜の運行を示し六合儀内で回転する。第三儀(四游儀)は玄枢を軸に玉衡游筒を貫き、北辰・地軸を配し天の辰宿を観測、器の晷度を識別できる精巧な仕組みで、当時その妙を称された。
  • 前代渾儀の得失を論じた《法象志》七巻を著して奏上、太宗は称賛し凝暉閣に儀を置き、承務郎を加授した。
  • 貞観十五年、太常博士。まもなく太史丞に転じ、《晋書》《五代史》の編纂に参与し、《天文志》《律暦志》《五行志》はすべて淳風の作。《文思博要》の編纂にも参与。貞観二十二年、太史令に昇進。
  • 太宗の世、《秘記》に「唐三世の後、女主武王が天下に代わる」とあり、太宗は密かに淳風にこれを問うた。淳風は「兆しは既に成っており、その人物は既に生まれ宮中に居る。三十年を経ずして天下を得、唐の子孫を殲滅するだろう」と答えた。太宗が「疑わしい者を皆殺しにすればどうか」と問うと、淳風は「天命は避けられず、無辜を巻き込むだけである。今殺しても再び生まれ、若く激しい者が生まれ変わって復讐すれば唐の子孫は必ず絶える。三十年後にはその者も老いて仁慈になり、たとえ王朝が易姓しても陛下の子孫への害は少ないだろう」と諫め、太宗はこの言を善しとして中止した。
  • 淳風の占候はことごとく的中し、当時の術者は彼が別に神秘の力を借りているのではと疑ったが誰も真相を測れなかった。顕慶元年、国史編纂の功により楽昌県男に封じられた。太史監候王思辯の上奏を受け、淳風は国子監算学博士梁述・太学助教王真儒らと共に《五曹》《孫子》など十部算経に注を加える詔を受け、完成後高宗は国学にこれを行用させた。
  • 龍朔二年、秘閣郎中に改任。《戊寅暦法》の誤差が拡大したため、劉焯の《皇極暦》を増損して《麟徳暦》を撰し奏上、術者はその精密さを称えた。咸亨初年、旧官名に復し太史令に戻る。六十九歳で没した。著書《典章文物志》《乙巳占》《秘閣録》《演斉人要術》など十余部が伝わる。子の李諺、孫の李仙宗もともに太史令となった。

呂才――音律の才と迷信批判

  • 博州清平の人。若くして学を好み、陰陽方伎の書に通じた。貞観三年、太宗が祖孝孫に楽章を増損させたが、孝孫は楽人王長通・白明達と互いに長短を論じ合った。太宗が侍臣に人材を求めさせると、中書令温彦博が呂才の聡明多才を推薦、侍中王珪・魏徴も呂才の学術を盛んに称えた。魏徴は「呂才は十二本の尺(長短の異なる律管に応じるもの)を作らせても皆律に協う」と評した。太宗は呂才を召して直引文館とした。
  • 太宗が北周武帝撰《三局象経》を理解できず、若い頃この遊戯を経験した太子洗馬蔡允恭も廃れて理解できなかったため、呂才に問うたところ、呂才は一晩考え図解を作成し、蔡允恭が見て旧法と一致していると確認し、これにより呂才は名を知られるようになった。太常博士に累進。
  • 太宗は近代の陰陽書が偽りを増し拘忌も多いことを憂い、呂才と学者十余人に刊正を命じた。浅俗を削り有用な部分を残し、五十三巻(旧書四十七巻と合わせ)にまとめ、貞観十五年に完成、詔して頒行された。呂才は多く典故により理を質正したため術者から批判されたが経義に適うものが多く、以下その一部が採録される(要旨)。
  • 《宅経》の序。卜宅の起源は殷周の頃に遡り《詩》《書》にも記述があるが、近代の師巫が唱える「五姓(宮商角徴羽)を姓に配して吉凶を占う」説は経典に根拠なく、姓の音韻対応も一貫性を欠き、複姓や後世の分枝姓に至っては配当不能であることを、具体的な姓の実例(管・蔡・成・霍など姫姓、孔・殷・宋など子姓)を挙げて批判した。
  • 《禄命》の序。《史記》の司馬季主評や王充《論衡》を引きつつ、禄命の書は久しく行われ多少的中することもあるが実録ではないとし、善悪の応報は積善積悪によるのであって干支の吉凶によるのではないと論じた。魯の荘公、秦の始皇帝、漢の武帝、北魏の孝文帝、宋の高祖の生年月日と禄命書の予言を史実と照合し、五例すべてで禄命の予言が外れていることを実証した。
  • 《葬書》の序。古の葬礼は薄葬であったが後世棺槨や陰陽葬法が加わり、百二十家もの葬書が生まれ吉凶を説き拘忌を増やしたと指摘。《礼記》《春秋》などの記述と葬書の主張(葬期の吉凶、日の吉凶、時刻の吉凶、富貴と葬地の因果、五姓による墓地選定、官爵の因果など)を七つの論点で対比し、いずれも根拠がないことを論証した。
  • 太宗はまた呂才に《方域図》《教飛騎戦陣図》を作らせ、いずれも意に叶い太常丞に抜擢した。永徽初年、《文思博要》《姓氏録》の編纂に参与。顕慶年間、高宗が古の琴曲《白雪》の復興を命じた際、呂才は《礼記》《家語》や張華《博物志》、宋玉の故事を引いて考証し、御製の《雪詩》を歌詞とし、長孫無忌・於志寧・許敬宗らの和詩を送声として十六節にまとめ教習を完成させた。高宗は大いに喜び、新たに《白雪歌詞》十六首を作らせ太常に伝えた。
  • 右監門長史蘇敬の上言により、陶弘景撰《本草》の誤りを正すため、許敬宗・呂才・李淳風・孔志約らと諸名医が旧本を増損し、司空李勣の総監のもと図を合わせ五十四巻にまとめ、広く行われた。呂才は龍朔中に太子司更大夫となり、麟徳二年に没した。《隋記》二十巻を著し当時流布した。
  • 子の呂方毅は七歳で《周易》《毛詩》を暗誦し、太宗がその才を聞いて召見し縑帛を賜った。のち右衛鎧曹参軍となる。母の死に際し悲しみのあまり礼を過ぎて毀損し死去、布車に喪を載せ轜車に従って葬られた。友人郎余令が白粥・玄酒・生芻一束を路傍に供えて弔い、当時の人々に哀惜された。

史論

史臣曰く、祖孝孫は音律を定め、傅仁均は暦数を正し、李淳風は象緯を占い、呂才は陰陽を推し究めた。いずれも裨竈・梓慎・京房・郭璞の流に比すべき人物である。しかし旋宮の法は秦の焚書により歴代その正音を欠いていたのに、孝孫がこれを復興したとされるのは驚くべきことである。淳風は術数に精しく女主による革命を予知したが、その人物を特定できなかったのは至らぬ点であった。呂才が拘忌の俗説を経典の根拠に基づき批判したことは賢明であった。古人がこれらを排除せず存置した理由には一定の意図があったのだろう。

贊にいう。祖・傅・淳(李淳風)・才(呂才)は、過去を明らかにし未来を考える。筠嶰谷の竹管を裁ち、清台に文書を運ぶ。天象を推し量って運行を描き出す。重黎(古の天文官)の後裔として、諸子はみな賢者であった。