舊唐書卷八十二 於志寧・高季輔・張行成
舊唐書卷八十二は太宗・高宗二代に仕え、直言と輔導によって重んじられた於志寧・高季輔・張行成の合伝である。於志寧は皇太子承乾の乱行をたびたび諫めて刺客に狙われながらも節を貫き、高宗の代まで重用された。高季輔は五条の封事を上って太宗に称賛され中書令に至った。張行成は山東出身への偏見を諫め、晋州の地震を陰の禍として高宗に警告するなど、いずれも人の言いにくいことを直言した人物として並び称される。
於志寧――出自と唐初の出仕
- 於志寧、雍州高陵の人、北周太師燕文公於謹の曾孫。父の於宣道は隋の内史舍人。於志寧は大業末、冠氏縣長であったが山東の群盗蜂起に伴い官を棄て帰郷。高祖の入関に際し一族を率い長春宮で迎え、高祖はその名望を重んじ銀青光禄大夫を授けた。
- 太宗が渭北道行軍元帥であった頃、記室に召され殷開山らと軍謀に参与。太宗が秦王・天策上将となると天策府従事中郎を累授され、征伐に従いつつ文学館学士も兼ねた。貞觀三年(629年)、中書侍郎に累遷。太宗が貴臣を内殿に招いた宴で於志寧の不在を怪しみ問うと「三品以上を召したが志寧は三品でないため来ていない」との答えに、太宗は特に呼び宴に列させ散騎常侍・行太子左庶子を加授し、黎陽縣公に累封した。
於志寧――太宗への諫言(七廟・世襲刺史)
- 七廟を立て涼武昭王を始祖とする議論で房玄齢らが賛成する中、於志寧は「武昭は遠祖であり王業の直接の淵源ではなく始祖にふさわしくない」と独り異を唱えた。功臣を代々世襲の刺史とする案にも、古今の事情の違いを理由に長久の道でないと上疏で争い、いずれも於志寧の議が採用された。
- 太宗は「古に太子が生まれれば士が背負い輔弼を置いた、成王が幼少の時、周公・召公が師傅となり正道を日々聞かせ習性とした、今皇太子(承乾)も幼く卿が正道で輔けるべきだ、邪僻に心を開かせるな」と語った。於志寧は承乾がしばしば礼度を欠くことを憂い匡救の志から『諫苑』二十巻を撰して諷諫し、太宗は大いに喜び黄金十斤・絹三百匹を賜った。
- 十四年(640年)、太子詹事を兼ねる。翌年、母の喪で解官されるが起用され本官に復し、於志寧は喪の完遂を再三上表したが、太宗は中書侍郎岑文本を邸に遣わし「忠孝は両立し難いが我が子には輔弼が必要だ、私情に流されるな」と諭させ、於志寧は職に就いた。
於志寧――承乾への諫言(三つの上書)
- 皇太子承乾が農繁期に曲室(密室)の造営を続け、多くの不法な行いをしていたことに対し、於志寧は上書で諫めた。趙盾・呂望の忠誠を引き、東宮の既にある壮麗さで十分であり更なる造営は財帛の浪費であること、罪人の丁匠・官奴が宮廷に出入りし警備の綻びとなっていること、鄭衛の淫楽(宮中の鼓声・伎楽)が続いていることを指摘し、工事の停止・久役の民の解放・淫楽の禁止・群小の排斥を求めた。承乾はこれを聞き入れなかった。
- 承乾が宦官を多く側近に置いていたことに対しても、於志寧は上書で諫めた。易牙・張讓・伊戻・趙高・弘恭石顕・王甫曹節らが宦官の禍で国を乱した歴史的先例、北斉の鄧長顒・陳徳信の専横で国が傾いた例を引き、内職の宦官は本来門外での取次のみを職掌とすべきなのに宮中を自由に出入りしていることを問題視し、君子を近づけ小人を退けるよう求めた。承乾はこれを読み甚だ不快に思った。
- 承乾が司馭(御者)らを酷使し交代を許さず、また突厥の達哥支を私的に宮内に引き入れていたことに対しても、於志寧は上書で諫めた。周誦(成王)や漢の恵帝の輔佐の故事を引き、司馭・駕士・獣医らが長期にわたり交代なく働かされ家族を顧みられない実態、突厥の達哥支は人面獣心であり礼教で律することができない存在であることを指摘し、忠言を聞き入れるべきだと説いた。
於志寧――刺客の襲撃と高宗朝の重用
- 承乾は激怒し密かに刺客張師政・紇干承基を放って於志寧を殺害させようとした。二人は於志寧の邸に忍び込んだが、於志寧が喪に服し苫廬(粗末な仮小屋)に寝起きしていた姿を見て忍びず殺害を止めた。承乾敗死後の推鞫でこの事実が判明し、太宗は「卿がたびたび規諫し隠すところがなかったことを知っている」と深く労った。一方、諫言を残していなかった右庶子令狐徳棻らは皆貶責された。
- 高宗が皇太子となると於志寧は再び太子左庶子を授かり、まもなく侍中に遷る。永徽元年(650年)、光禄大夫を加えられ燕国公に進封。二年、監修国史。
- 洛陽の李弘泰が太尉長孫無忌を誣告した罪で時を待たず斬るよう詔された際、於志寧は上疏し、陰陽・時節に応じた刑罰の運用(『左伝』『礼記』月令、董仲舒の陰陽刑徳論を引用)を説き、春の時期の処刑を諫めた。帝はこれに従った。
- 衡山公主が長孫氏に嫁ぐことになった際、喪明け後の吉礼として秋の挙式が議論されたが、於志寧は『礼記』『春秋』を引き、斬縗(父母の喪服)の場合は三年の喪を終えるべきとし、公主の心喪中の婚礼を諫めた。これにより公主は三年の服喪を終えてから婚礼を行うことになった。
- その年、尚書左僕射・同中書門下三品を拝す。三年(652年)、本官のまま太子少師を兼ねる。
於志寧――両属の姿勢と晩年
- 顕慶元年(656年)、太子太傅に遷る。右僕射張行成・中書令高季輔とともに賜地を受けた際、於志寧は「私は関右の地に代々基盤を持つが、行成らは新たに邸宅を営んだばかりで田園に乏しい、私には余りがあるので私の分を譲りたい」と申し出、帝はこれを嘉し行成・季輔に分与させた。四年、致仕を請い尚書左僕射を解かれ太子太師・同中書門下三品を拝す。
- 高宗が王皇后を廃そうとした際、長孫無忌・褚遂良は反対を貫き、李勣・許敬宗は密かに廃立を勧める中、於志寧のみは態度を明確にしなかった。許敬宗が長孫無忌の獄事を推鞫した際、於志寧が無忌に党附していたと誣告され免職、まもなく榮州刺史に降格された。麟徳元年(664年)、華州刺史に累転、老齢を理由に致仕を請い許された。二年(665年)、家で卒す、七十八歳。幽州都督を追贈され謚は定。上元三年(676年)、左光禄大夫・太子太師を追復された。
- 於志寧は賓客を厚く遇し接待を厭わず、後進の文筆の士は皆その傘下に集ったが、実際に推挙して用いる力には乏しく、当時の議者はこれを物足りなく思った。格式律令や『五経義疏』の編纂、礼・史書の修纂に多く携わり賞賜は数え切れないほどであった。文集二十巻。子の於立政は太僕少卿。於志寧の玄孫の於休烈、その子の於益には別に伝がある。
高季輔――出自と唐初の戦功
- 高季輔、徳州蓚の人。祖父の高表は北魏の安徳太守、父の高衡は隋の万年令。高季輔は若くして学を好み武芸も習い、母の喪では孝行で聞こえた。兄の高元道は隋で汲令であったが、武徳初、県人が城を翻し賊に付き高元道が殺害された際、高季輔は仲間を率いて戦い兄を殺した者を捕らえ斬り、その首を墓前に供えて祭ったことで士友に称された。これにより多くの群盗が帰服し衆は数千に及んだ。
- まもなく武陟の李厚徳と共に衆を率い唐に降り、陟州総管府戸曹参軍を授かる。貞觀初、監察御史に抜擢され権貴を憚らず多くを弾劾。中書舍人に累転。
高季輔――五条の封事
- 太宗がしばしば近臣を召し時政の得失を問うた際、高季輔は五条の封事を上奏。
- 天下は平定され功も成ったが刑罰がなお必要な状況は、謀猷の臣が簡易な政を行わず、台閣の使者が長遠の道理に疎いためであるとし、寛平温厚な官吏の登用と敬譲の教化による家庭・社会の廉恥の涵養を求めた。
- 聖上(太宗)は倹約を心がけているが営繕の労役が絶えないことを指摘し、畿内の州は狭く人口稠密で田畑に余裕がないため労役を軽減し、関・河以外の地域との負担の均衡を図るべきと説いた。
- 公主・勲貴の家が封邑・俸禄で十分でありながら利息貸付で利を貪っていることを批判し、風紀の是正を求めた。
- 地方官の下級官吏が俸禄不足で妻子を養えず、廉潔を求めるだけでは実効性がないとし、戸口の増加や倉廩の充実に応じ俸禄を増やしてから厳しく責任を問うべきと説いた。
- 密王元暁ら皇族への礼儀について、皇帝の子が諸叔に拝礼した際に諸叔も答拝するのは昭穆(世代の序列)の秩序に反すると指摘し、礼制の明確化を求めた。
- 上奏は太宗に称賛された。十七年(643年)、太子右庶子を授かり、なおも時政の得失を上疏したため鐘乳(薬石)一剤を特賜され「薬石の言を進めたので薬石で報いる」と言われた。十八年、銀青光禄大夫を加えられ吏部侍郎を兼ね、その銓叙は当時妥当と評された。太宗は金背鏡一面を賜りその清鑑を称えた。
- 二十二年(648年)、中書令に遷り検校吏部尚書・監修国史を兼ね蓚縣公に叙爵。永徽二年(651年)、光禄大夫・行侍中・太子少保を授かる。風疾(中風)を患い自宅で療養する中、兄の虢州刺史高季通を宗正少卿として見舞わせ、たびたび中使を遣り食事の進み具合を尋ねさせた。まもなく卒す、五十八歳。帝は哀悼し三日輟朝、開府儀同三司・荊州都督を追贈し謚は憲。子の高正業は中書舍人に至るが上官儀との親交により嶺外に配流された。
張行成――出自と直言
- 張行成、定州義豊の人。若くして河間の劉炫に師事し勤学を怠らず、劉炫は門人に「張子は体局方正、廊廟の才である」と評した。大業末、孝廉に察挙され謁者台散従員外郎。王世充の僭号時、度支尚書とされる。世充平定後、隋の資格により宋州谷熟尉を補せられ、制挙乙科にも及第し雍州富平縣主簿となり治績で名を知られた。任期満了後、殿中侍御史。糾劾に権貴を憚らず、太宗はこれを有能と評し房玄齢に「古今の人材登用は必ず仲介があるものだが、行成のような者は私が自ら見出した、口利きなしに」と語った。
- 太宗が山東と関中の人材で好悪の差を口にした際、宴に侍していた張行成は跪いて「天子は四海を家とすべきで、東西で区別すべきではない、そのようにすれば人に狭量を示すことになる」と諫め、太宗はこれを称え名馬一匹・銭十万・衣一襲を賜った。以後、大政のたびに議に加わり給事中に累遷。
張行成――太宗への諫言と皇太子監国の補佐
- 太宗が「私が恣に情欲に走らず質素な生活を保つのは民のためだ、私は人主として将相の事も兼ね行っている、これは公らの功名を奪っていないか、漢高祖は蕭何・曹参・韓信・彭越を得て天下を安んじ、舜・禹・湯・武は稷・契・伊尹・呂尚を得て四海を治めたが、私はこれを全て一人で兼ねている」と語った際、張行成は退いて上書し「隋の失道により天下は沸騰したが陛下はこれを撥乱反正し民を塗炭の苦しみから救った、周漢の君臣に比すべきものではない、陛下は聖徳を備え文武の功を兼ねているのに、なぜ臣下と功を較べる必要があろうか」と諫め、太宗は深く納得した。
- 刑部侍郎・太子少詹事に転じる。太宗の東征に際し皇太子が定州で監国した折(定州は張行成の本邑)、太子は「今、あなたを錦を着て故郷に帰らせよう」と語り先祖の墓を祀らせた。張行成は郷人の魏唐卿・崔宝権・馬龍駒・張君劼らを推薦し、太子は彼らに謁見したが高齢で任用できず厚く賜与して帰した。太子はまた張行成を行在所(太宗の陣営)に遣わし、太宗は喜んで馬二匹・縑三百匹を賜った。
- 太宗の帰京後、河南巡察大使を務め称旨を得て本官のまま検校尚書左丞。太宗の霊州行幸に太子が随行することになった際、張行成は「皇太子は東宮での修養を始めたばかりであり、監国として百官に接し庶務を裁断することで京師の重鎮としての威信を示すべきで、私愛に流されて随行するより公道に従うべき」と上疏し、太宗はこれを忠と評し銀青光禄大夫に進めた。
張行成――高宗朝の重用と晋州地震の諫言
- 二十三年(649年)、侍中に遷り刑部尚書を兼ねる。太宗崩御に伴い高季輔とともに高宗の太極殿での即位に侍った。まもなく北平縣公に封じられ監修国史。
- 晋州で連日の地震(雷のような音を伴う)があった際、高宗の下問に対し張行成は「天は陽、地は陰、陽は君の象、陰は臣の象、君は動くべきで臣は静かであるべきだが、晋州の地震が十日以上止まないのは、女謁(後宮の女性の政治介入)や大臣の陰謀への戒めではないか、陛下の元の封地が晋であることも合わせ、深く思慮し未萌のうちに防ぐべき」と答えた。
- 二年(651年)八月、尚書左僕射を拝す。まもなく太子少傅を加授。四年、三月から五月まで雨が降らなかったことを理由に致仕を上表するが、高宗は手詔で「これは私の不徳であり宰相の咎ではない、辞表は受け付けない」と答え宮女・黄金器物を賜った。なおも致仕を固請すると高宗は「公は私の故旧腹心、どうして私を捨てて去るのか」と涙を流し、張行成はやむなく職務に復した。九月、尚書省で卒す、六十七歳。高宗は哀哭し三日輟朝、九品以上の官に自宅で哭させ、殮の際には三度中使を遣わし内衣服を賜り尚宮を邸に留めて殯斂を見守らせた。開府儀同三司・并州都督を追贈、少牢の礼で祭り絹布八百段・米粟八百石を賻し東園秘器を賜い謚は定。弘道元年(683年)、高宗廟庭への配享が詔された。子の張洛客が嗣ぎ雍州渭南令に至る。
張行成――族孫張易之・張昌宗
- 張行成の族孫、張易之・張昌宗。易之の父張希臧は雍州司戸。張易之は初め門蔭により尚乗奉御に累遷、二十余歳で色白の美貌、音律・歌詞に長けた。則天臨朝、通天二年(697年)、太平公主が弟の張昌宗を禁中に推挙し、昌宗は則天に「兄の易之は臣より器量が優れ煉丹の術にも通じる」と申し出て召見され、則天は大いに喜んだ。以後兄弟は共に宮中に侍り、化粧を施し錦繍の服を着け辟陽(漢の呂后の男寵の故事)のごとき寵愛を受けた。まもなく昌宗は雲麾将軍・行左千牛中郎将、易之は司衛少卿となり、邸宅一区・物五百段・奴婢駝馬などを賜る。数日後、昌宗に銀青光禄大夫を加え防閣を賜い京官同様に朔望の朝参を許された。父希臧には襄州刺史が贈られ、母韋氏(阿臧)は太夫人に封ぜられ尚宮が邸を訪ねるほどの厚遇を受け、尚書李迥秀に阿臧の私的な世話をさせる詔まで出された。武承嗣・三思・懿宗・宗楚客・宗晋卿らはその門庭に群がり争って轡を取り、易之を「五郎」昌宗を「六郎」と呼んだ。
- まもなく昌宗は左散騎常侍を加えられる。聖暦二年(699年)、控鶴府が置かれ易之は控鶴監・内供奉となる。久視元年(700年)、控鶴府を奉宸府と改め易之は奉宸令となり、閻朝隠・薛稷・員半千ら文人を奉宸供奉に招いた。宴席では公卿を嘲弄させて笑いものにし、内殿の私宴では張易之・張昌宗兄弟や武氏一族が侍し賭博や戯れに際限のない賞賜が行われた。
- 阿諛の徒が「昌宗は王子晋(仙人)の生まれ変わりだ」と奏したため、羽衣を着せ簫を吹かせ木の鶴に乗せて庭で音楽を奏し、あたかも王子晋の昇天のごとく演出させた。文人たちはこれを詩に詠み称え、崔融の作が最も評価された(「昔遇浮丘伯、今同丁令威。中郎才貌是、蔵史姓名非」の句を含む)。
- 則天が美少年を奉宸供奉に選ぶよう命じた際、右補闕朱敬則は「陛下には既に薛懐義・張易之・昌宗の寵臣がいて十分なはず、近頃、上舎奉御柳模が子の良賓を美貌と自薦し、左監門衛長史侯祥が薛懐義以上の壮偉を売り込んでいるという、無礼無儀が朝廷に溢れている」と諫言し、則天は「卿の直言がなければ知らなかった」と労い彩百段を賜った。
- 昌宗の醜聞が外に漏れることを美事で覆い隠そうと、則天は昌宗に『三教珠英』の内廷での編纂を命じ、李嶠・閻朝隠・徐彦伯・張説・宋之問・崔湜・富嘉謨ら二十六人の文学の士を招き分門して撰集させ、千三百巻を完成させて上呈した。昌宗は司僕卿・鄴国公、易之は麟台監・恒国公に封ぜられ各実封三百戸。まもなく昌宗は春官侍郎に改まる。易之・昌宗はいずれも文をよくするとは言えず、応詔の和詩は宋之問・閻朝隠が代作した。
- 則天の高齢化に伴い政事の多くが張易之兄弟に委ねられた。中宗が皇太子であった頃、太子の子邵王重潤と娘の永泰郡主が二張の専権を密かに批判したことを易之が則天に訴え、太子自身に鞫問・処置させられ、太子は二人を自ら縊殺させた。
- 御史大夫魏元忠が二張の罪を奏したことに対し、易之は不安を覚え、魏元忠と司礼丞高戩が「天子は老いた、太子を擁して耐久の朋(長期の後ろ盾)とすべき」と語ったと誣告。則天が証拠を問うと易之は「鳳閣舍人張説が証人だ」と答えたが、翌日の対質で虚偽と判明。それでも則天は二張への配慮から魏元忠を高要尉に、張説を欽州への長流に処した。
- 長安二年(702年)、易之の贓賂事件が発覚し御史台に弾劾され下獄、兄の司府少卿張昌儀、司礼少卿張同休も貶黜された。則天が長生院で病臥した際、宰臣もほとんど拝謁できず張易之兄弟のみが側に侍り、禍変を恐れ朋党を組んで備えた。この事を路上に榜示した者があり左台御史中丞宋璟が糾問を求めたが、則天は表向き許しつつ実際には宋璟を幽州に派遣し都督屈突仲翔を按問させ、司礼卿崔神慶に鞫問させたところ、崔神慶は上意を忖度し昌宗兄弟の罪を雪いだ。
張行成――張易之・張昌宗の誅殺
- 神龍元年(705年)正月、則天の病篤し。同月二十日、宰臣崔玄暐・張柬之らが羽林兵を興し太子(中宗)を迎え玄武門を斬り開いて入り、易之・昌宗を迎仙院で誅し首を天津橋南に晒した。則天は上陽宮に退居。易之の兄張昌期は岐州・汝州刺史を歴任し在任中に苛烈横暴であったため、この日同じく梟首された。房融・崔神慶・崔融・李嶠・宋之問・杜審言・沈佺期・閻朝隠ら朝官数十人が二張への連座で竄逐された。
史論
- 燕国公於志寧は皇太子の輔導に努め、侍中高季輔は政理を陳べ、北平縣公張行成は陰の禍(晋州地震)を語った。いずれも人が言いにくいことを言った人物であり、金玉のごとき志節と松竹のごとき節操がなければ、君主の意に逆らってまで苦言を献じることはできなかっただろう。廟堂で道を論じ最後まで栄達を全うしたのは当然であり、義をもって君主の過ちを匡した者として、この三人がまさにそれに当たると評される。
- 賛:ああ、於公(於志寧)は両宮(太宗・高宗)に仕え諫言を献じ、その徳は代を継いで一層盛んになった。高季輔は薬石(諫言)に薬石で報われ、張行成は帝の心を動かした。君臣の義はまさにこの三人において貫かれたと評される。