舊唐書卷八十一 韋挺・楊纂・劉徳威・閻立徳・柳亨・崔義玄

舊唐書卷八十一は太宗・高宗期に実務官僚として仕えた韋挺・楊纂・劉徳威・閻立徳・柳亨・崔義玄の合伝である。韋挺は隠太子李建成の旧臣から太宗に用いられたが、遼東出兵の糧運に失敗し除名された。楊纂は吏部で銓選を長く司った能吏、劉徳威は刑法に通じ寛刑を説いた大理卿であった。閻立徳・立本兄弟は造営と絵画の技をもって重用され、柳亨は太宗の恩顧を受けた外戚、崔義玄は陳碩真の乱を鎮圧し武后擁立に協賛した。いずれも子孫の代まで官界に名を残している。

年表(23件)

韋挺――隠太子との関係と唐初の官歴

  • 韋挺、雍州万年の人、隋の民部尚書韋沖の子。若くして隠太子(李建成)と親しく、高祖の京城平定後、隴西公府祭酒に任じられる。武徳中、太子左衛驃騎・検校左率に累進し、太子の側近として重用された。
  • 七年(624年)、高祖が仁智宮に避暑中、太子と宮臣が異端を潜構していると上書する者があり、慶州刺史楊文幹の謀反事件に連座して韋挺は杜淹・王珪らとともに越巂に流された。
  • 太宗が東宮にあった時、主爵郎中に召し戻される。貞觀初、王珪の推挙で尚書右丞に遷り、まもなく吏部侍郎、黄門侍郎を経て御史大夫に進み扶陽縣男に封ぜられる。太宗の女を斉王祐の妃とした。房玄齢・王珪・魏徴・戴胄らとともに顧問を承け政事を議し、高士廉・令狐徳棻らと『氏族志』を共修し度々賞賜された。
  • 太宗は「卿を御史大夫に任じたのは私の意思のみによる、左右の大臣は反対だった、努めよ」と語ったが、韋挺は「臣は駑鈍で高位に値しない、勲旧でもないのに藩邸故僚の上に立つのは不本意、後進に譲りたい」と辞退したが太宗は許さなかった。

韋挺――魏王泰への関与と遼東転運の失態

  • 銀青光禄大夫・行黄門侍郎に改まり魏王泰府の事務を兼ねる。魏王泰が寵愛される中、皇太子承乾の過失が多く太宗に廃立の意が芽生えていた時期、中書侍郎杜正倫が禁中の言を漏らして左遷された際、韋挺も泰の事に関与していたが太宗は「正倫は罪したが卿を法に処すには忍びない」と特に許した。まもなく太常卿に遷る。
  • かつて韋挺が御史大夫であった頃、馬周が監察御史であったが韋挺は馬周を寒門の士として礼を尽くさなかった。後に馬周が中書令となり、太宗が韋挺を門下省に用いようとした際、馬周は密かに韋挺の傲慢な性格を挙げ宰相の器でないと述べ、この登用は見送られた。
  • 十九年(645年)、遼東出兵に際し糧運の人選で馬周が韋挺を推挙し、太宗はこれに従った。韋挺の父が隋で営州総管として高麗経略の遺文を残していたことも奏上され、太宗は喜び「幽州以北、遼水二千余里は州県がなく軍の資糧を現地調達できない、卿がこの任にふさわしい、軍用が絶えなければ功は小さくない」と命じた。民部侍郎崔仁師を副使とし文武四品官十人を子使に選ばせ、幽・易・平三州の精兵二百人と官馬二百匹を随行させ、河北諸州の便宜行事の権を与え、太宗自ら貂裘と中厩馬二匹を賜った。
  • 韋挺は幽州に至り燕州司馬王安徳に渠水の通塞を巡らせ、幽州の庫物を先に出して船を造らせ米を運んだ。桑乾河から盧思台まで(幽州から八百里)進んだところで王安徳が「これより先、漕渠は塞がっている」と報告。北方の寒雪を理由に韋挺は進軍を止め台のそばに米を貯め、開春を待って転運を再開する方針を太宗に急報した。
  • 太宗は不満を示し「兵は拙速を尊び工遅を貴ばない、十九年春の大挙を考えているのに二十年の運漕とは無意味だ」と詔した。繁畤令韋懐質を派遣し軍糧・渠水を検分させたところ、韋懐質は「韋挺は漕渠を先に視察せず工匠を集めて船を造り米を運んだ、盧思台に至って初めて渠の閉塞を知り進退窮まり米を貯めただけで平夷の地を通せていない、また幽州で連日飲会に耽り公務を怠っていた」と復命した。太宗は激怒し将作少監李道裕を代任させ、治書侍御史唐臨に韋挺を洛陽まで械送させ除名の上、白衣従軍とした。
  • 前軍が蓋牟城を破ると韋挺は蓋牟の鎮守に任じられたが、高麗の新城と隣接し日夜戦闘が絶えず苦悩し、失職の不平もあって術士公孫常と交わした書簡(城中の危機と嘆きを綴る)が、公孫常が他事で拘束され自縊死した際に発見された。太宗はこれを怨望とみなし象州刺史に貶した。一年余り後、五十八歳で卒す。

韋挺――子待価

  • 子の韋待価は初め左千牛備身。永徽中、江夏王李道宗が罪を得た際、その婿であったため連座し盧竜府果毅に左遷。将軍辛文陵が高麗招慰の兵を率い吐護真水で高麗に不意打ちされ敗れた際、韋待価は薛仁貴とともに救援に赴き、辛文陵の苦戦を助け軍を保全した。韋待価自身は左足に流矢を受ける重傷を負ったが功を言わず、足疾を理由に免官して帰った。
  • 後に蘭州刺史に累授。吐蕃の辺患に対し高宗は沛王李賢を涼州大都督とし韋待価を司馬とした。まもなく粛州刺史、頻繁に守禦の功を挙げ右武衛将軍・検校右羽林軍事に召還される。儀鳳三年(678年)、吐蕃の侵攻に対し本官のまま検校涼州都督・知鎮守兵馬事、まもなく旧職に復し扶陽侯に再封。
  • 則天臨朝後、吏部尚書・摂司空。高宗の山陵造営を終えると金紫光禄大夫を加えられ天官尚書・同鳳閣鸞台三品に改まり、物千段を賜り一子に五品官が与えられた。韋待価は元来人物鑑識の才に乏しく武職から出身したため、選部を司っても銓叙が乱れ当時嘲笑された。垂拱元年(685年)十月、燕然道行軍大総管として突厥を防ぐ。翌年春帰還、六月に文昌右相・同鳳閣鸞台三品を拝すが、身に過ぎた地位を不安に思い辞職をたびたび上表するも則天は許さなかった。父への恩贈を求める表を出し、韋挺に潤州刺史が追贈された。
  • 翌年、自ら戎旅の用を志願し安息道行軍大総管として三十六総管を統べ吐蕃討伐、扶陽郡公に進封。寅識迦河で吐蕃と交戦し初戦は勝つも後に敗れ、寒雪と糧食不足のため弓月に退き高昌に駐屯した。則天は激怒し副将閻温古を逗留の罪で処刑、韋待価も除名され繡州に配流されまもなく卒した。

韋挺――弟万石

  • 弟の韋万石は学業に優れ特に音律に長じた。上元中、吏部郎中から太常少卿に遷り、郊廟の楽調や宴会雑楽を太史令姚玄辯とともに増減し称職と評された。まもなく吏部選事を兼ね任地で卒した。韋挺の従祖兄の子、韋安石には別に伝がある。

楊纂――唐初の経歴と吏才

  • 楊纂、華州華陰の人。祖父の楊倹は北周の東雍州刺史、父の楊文偉は隋の温州刺史。楊纂は経史に通じ時務に明るく、若くして顔師古・令狐徳棻と親交があった。大業中、進士挙に及第し朔方郡司法書佐となるが楊玄感の近親として除名され蒲城に隠棲。義軍が黄河を渡った際、長春宮で謁見し侍御史に累授された。たびたび上書し召問され考功郎中に抜擢される。
  • 貞觀初、長安令となり長安縣男に叙爵。婦人袁氏の妖逆事件を調査するも実態を掴めず、後に袁氏が事発し処刑されると太宗は楊纂を不忠として処刑しようとしたが、中書令温彦博が過誤にすぎず死罪に値しないと固諫し赦された。
  • 三遷して吏部侍郎。八年(634年)、特進蕭瑀の副として河南道巡察大使を務めたが蕭瑀と不和で相互に弾劾し合い蕭瑀が罪を得た。まもなく尚書左丞を拝し吏部道に長け各地で治績を上げ、再び吏部侍郎となる。前後十余年選挙を司り人材評価は概ね妥当とされたが、文雅の士を抑え酷吏を用いる傾向があり当時批判もされた。後に太常少卿・雍州別駕を歴任し銀青光禄大夫を加えられ、再び尚書左丞、太僕卿・検校雍州別駕を経て戸部尚書に遷る。永徽初卒し幽州都督を追贈され謚は敬。子の楊守愚は則天時代に雍州長史、楊守挹は岐州刺史。族子の楊弘礼。

楊纂――族子楊弘礼

  • 楊弘礼は隋の尚書令楊素の弟の子。父の楊岳は大業中に万年令として楊素の子楊玄感と不和で、楊玄感の乱を密かに帝に予告した。玄感誅殺後、楊岳は長安で獄に繋がれるも帝の赦免使者が到着する前に留守により殺害され、弘礼らは連座を免れた。
  • 高祖受禅後、楊素の隋代の勲業により楊弘礼に清河郡公の襲封が詔され、太子通事舍人を拝す。貞觀中、兵部員外郎、西河道行軍大総管府長史を経て中書舍人に三遷。太宗の遼東出兵に際し文武の才を評価され兵部侍郎に抜擢され兵機を専管した。作戦会議に参与しつつ自らも軍を率い攻戦、駐蹕の陣では歩騎二十四軍を率い不意を突いて撃破した。太宗は山下からこの様子を見て「越公(楊素)の子弟には家風がある」と許敬宗らに語った。当時、諸宰相が定州で皇太子を輔けている中、褚遂良・許敬宗・楊弘礼のみが行在所で機務を掌った。
  • 二十年(646年)、中書侍郎を拝す。翌年、銀青光禄大夫を加えられ司農卿、昆丘道副大総管として諸道軍を節度、処月を破り処密を降し焉耆王を殺し馺支部を降し亀茲・于闐王を捕らえた。凱旋するも論功行賞の前に太宗が崩御。大臣の意に逆らうところがあり涇州刺史に出された。永徽初、昆丘の功が論じられ勝州都督に改任、まもなく太府卿に遷る。四年(653年)卒し蘭州都督を追贈され謚は質。弟の楊弘武。

楊纂――楊弘武と子孫

  • 楊弘武は若くから謹厳、武徳初、左千牛備身。永徽中、吏部郎中。孝敬(李弘)の立太子時、東宮の人材選定にあたり中舍人に任じられる。麟徳中、東岳への行幸に際し荊州司馬から司戎少常伯に抜擢され、随行後は高宗の特命で吏部の五品以上の選人を補任する任を与えられ次第に信任された。継母の栄国夫人楊氏が同族であることから推挙もあり西台侍郎に遷る。乾封二年(667年)、戴至徳・李安期らと東西台三品を歴任し清簡の政で称された。総章元年(668年)任官中に卒し汴州刺史を追贈され謚は恭。
  • 子の楊元亨は則天時に司府少卿、楊元禧は尚食奉御で医術に優れ則天に重用されたが、張易之の意に逆らい、易之は楊元禧が楊素兄弟の子孫であることを密奏し、則天は楊素の逆節を理由に子孫を京官・侍衛から排除する制を下した。楊元亨は睦州刺史、楊元禧は資州長史、その弟の緱氏令楊元禕は梓州司馬に左遷された。張易之誅殺後、いずれも京職に復し、楊元亨は斉州刺史、楊元禧は台州刺史、楊元禕は宣州刺史に至った。

劉徳威――唐初の武功と刑法観

  • 劉徳威、徐州彭城の人。父の劉子将は隋の毗陵郡通守。劉徳威は姿貌魁偉で機略で称された。大業末、左光禄大夫裴仁基に従い淮左の賊を討ち賊帥李青珪を斬った。後に裴仁基とともに李密に帰し、李密は劉徳威に兵を与え懐州鎮守を任せた。
  • 武徳元年(618年)、李密が王世充に敗れ入朝すると劉徳威も帰順、高祖に賞され左武候将軍・滕縣公に封ぜられる。劉武周の南侵に際し討伐を命じられ并州総管府司馬を判す。裴寂が介州で軍律を失い斉王元吉が并州を棄てて帰った際、劉徳威は留府事を任されるが劉武周軍に捕らえられ浩州招慰を命じられるも唐に帰参、高祖から賊中の虚実や晋・絳諸部の利害を評価された。彭城縣公に改封、検校大理少卿を経て竇建徳・王世充討伐に功を挙げ刑部侍郎に転じ散騎常侍を加えられ平壽縣主を妻とした。
  • 貞觀初、大理卿・太僕卿を歴任し金紫光禄大夫を加えられる。綿州刺史として廉平で百姓に碑を立てられ、検校益州大都督府長史を経て十一年(637年)再び大理卿となる。太宗の「近来刑網が細かくなったのはなぜか」との問いに対し、劉徳威は「主上の好みによる。律文では失入(無実に重罰)は三等減、失出(有罪を軽く)は五等減とされているのに、今は逆に運用され、吏は自衛のため厳しい法解釈を競い合っている。陛下がその厳しさを緩めれば『寧失不経』(疑わしきは寛大に扱う)の精神が今日も行われるようになる」と答え、太宗は深く同意した。
  • 数年後、刑部尚書兼検校雍州別駕。十七年(643年)、斉王祐が長史権万紀を殺した事件で済州に急行し済州に入り事の顛末を報告、河南の兵馬を発する詔を受けたが母の喪により中止。十八年、遂州刺史に起用され同州刺史に三遷。永徽三年(652年)、七十一歳で卒す。礼部尚書・幽州都督を追贈され謚は襄、献陵に陪葬。劉徳威は家内で穆やかで人に接して寛平、得た財貨の多くを一族に分け与えた。子の劉審礼が爵を襲う。

劉徳威――子審礼

  • 劉審礼は幼くして母を失い祖母元氏に養われた。隋末、父の徳威が裴仁基に従い討伐に出て道が通じなかった際、まだ弱冠に満たない審礼は自ら祖母を背負い江を渡って避難、天下平定後に長安に入った。祖母が病むと必ず自ら薬湯を嘗め、祖母は「わが孫は孝順で幽微に貫徹する、思うだけで持病が軽くなる」と語ったという。
  • 貞觀中、左驍衛郎将を歴任。父の喪に去職、葬儀では跣足で車に付き従い血が滲むほどで人々に称された。服喪明けに爵位を継ぐべきところ弟に譲る表を再三上げたが朝議は許さなかった。永徽中、将作大匠・検校燕然都護に累遷し彭城郡公を襲封。父の死後も長く悲しみ、父の旧僚に会うたびに嗚咽した。母の鄭氏は早世し、継母の平壽縣主に仕え、その病には憂懼して容色に表れ夜も眠らないほどであった。継母の子李延景を友愛をもって養い、俸禄を全て継母のもとに送り延景の費用に充てる一方、自身の妻子は貧窮に安んじて意に介さなかった。再従の親族と同居し家に別竈なく、一門二百余人で不和がなかった。
  • 工部尚書・検校左衛大将軍に累遷。儀鳳二年(677年)、吐蕃が涼州を侵した際、行軍総管として中書令李敬玄と合流して討伐したが、青海で敵と遭遇した際に李敬玄が期に遅れ来なかったため戦は敗れ、劉審礼は捕らえられた。永隆二年(681年)、吐蕃で卒す。工部尚書を追贈され謚は僖。継母の子李延景は陝州刺史に至り、睿宗初、後父として尚書右僕射を追贈された。

劉徳威――孫易従・審礼従弟延嗣

  • 劉審礼の子劉易従は岐州司兵参軍を歴任。父が吐蕃で没した際、詔により入蕃して見舞うことを許され、父の死に号泣し晝夜止まず、礼を超える悲嘆で身を損なった。吐蕃はその志行を哀れみ父の遺骸を返し、易従は万里の道を徒歩で護送して彭城に帰り朝野に称賛された。後に彭州長史・任城男。永昌中、徐敬貞の誣告により害された。易従は官にあって仁恕で、刑に臨む際は遠近の人吏が競って功徳を為し長史のために祈福し、州人十余万人がこれに従うほど人に愛された。子の劉升は開元中、中書舍人・太子右庶子。
  • 劉審礼の従父の弟、劉延嗣は文明年間(684年)潤州司馬であった。徐敬業の乱に際し潤州を攻められたが刺史李思文とともに固守し降らず、城が陥ちて敬業に捕らえられ降伏を迫られたが「国恩を受けた身として州城を守れなかったのは朝廷への負い目だが、苟且に生き延び宗族を累わすことはできない、一身のために千載の辱を招くくらいなら今日死ぬのは幸いだ」と拒んだ。敬業は激怒し斬ろうとしたが党の魏思温が救い江都の獄に囚われた。乱が敗れると裴炎の近親であるため功を序されず梓州長史、汾州刺史を歴任し卒す。一族で刺史に至った者二十余人。

閻立徳――造営の功と一族

  • 閻立徳、雍州万年の人、隋の殿内少監閻毗の子。その先祖は馬邑より関中に移った。閻毗は工芸で知られ、閻立徳と弟の閻立本は早くから家業を継承した。武徳中、尚衣奉御を累授され、閻立徳が造った袞冕大裘など六服や腰輿・傘扇はみな典式に依っており当時称賛された。
  • 貞觀初、将作少匠を歴任し太安縣男に封ぜられる。高祖崩御の際、山陵造営の功で将作大匠に抜擢。十年(636年)、文徳皇后崩御に伴い司空を摂して昭陵を営むが怠慢により解職。まもなく博州刺史に起用され十三年(639年)再び将作大匠に。十八年(644年)、高麗親征に従軍し師旅が遼澤に至った際、東西二百余里の泥沼で人馬が通れなかったところを道を埋め橋を造り軍の進行を妨げなかったため太宗に大いに喜ばれた。まもなく翠微宮・玉華宮の造営を命じられいずれも意にかない厚く賞された。工部尚書に遷り、二十三年(649年)司空を摂し太宗の山陵造営を担い、事終えて公に進封。顕慶元年(656年)卒し吏部尚書・并州都督を追贈された。子の閻玄邃は司農少卿。孫の閻知微は聖歴初、右豹韜衛将軍。突厥の默啜が和親を求めた際、則天は淮陽王武延秀に嫁ぐ使を送り閻知微に春官尚書を摂して随行させたが、默啜は延秀が皇室の諸王でないことに怒り閻知微を拘束、閻知微を伴い恒岳道から趙・定二州を攻略させた。閻知微は一年余り後に突厥から帰るが、則天は賊に従い侵寇したとして百官に凌遅させて斬らせ三族を滅ぼした。

閻立徳――弟立本

  • 閻立本は顕慶中、将作大匠に累遷し後に兄立徳に代わり工部尚書となり、兄弟が相次いで八座(尚書クラス)となったことは当時栄誉とされた。総章元年(668年)、右相に遷り博陵縣男に叙爵。応務の才もあったが特に絵画に長け写実に優れた。『秦府十八学士図』や貞観年間の『凌煙閣功臣図』はいずれも閻立本の作で当時称賛された。
  • 太宗が侍臣・学士と春苑で舟遊びをした際、池中の珍しい鳥を題材に詩を詠ませ、閻立本に写生を命じた。当時すでに主爵郎中の官にあった閻立本は「画師閻立本」と呼ばれ、汗を流しながら池のほとりに伏し賓客の視線を浴びながら描くことを甚だ恥じ、退いて子に「私は若くして読書を好み無知を免れ得たが、絵の才で知られ雑役に使われるのは大きな恥辱だ、この末技を習わぬよう」と戒めたが、閻立本自身は性の好みゆえこれをやめられなかった。
  • 右相として左相姜恪と枢密を分掌したが、姜恪は将軍として塞外で功を立てた人物であり、閻立本は絵画のみに長け宰輔の器ではないとされ、当時「左相は沙漠に威を宣べ、右相は丹青に誉を馳す」と『千字文』を借りて評された。咸亨元年(670年)、百司の旧名復活に伴い中書令と改称。四年(673年)卒す。

柳亨――出自と太宗の恩遇

  • 柳亨、蒲州解の人、北魏尚書左僕射柳慶の孫。父の柳旦は隋の太常少卿・新城縣公。柳亨は隋末、熊耳・王屋二県の長を歴任するが李密に陥落し、李密敗死後に唐に帰し駕部郎中を累授された。
  • 容貌魁偉で高祖に愛され殿中監竇誕の女(高祖の外孫)を娶らされた。左衛中郎将に三遷し壽陵縣男に封ぜられるが、罪を得て邛州刺史に出され、散騎常侍を加えられるも代任され数年冷遇された。兄の葬儀の折に南山で遊行中の太宗に召し出され、哀憐され数日後に北門で引見、銀青光禄大夫・行光禄少卿に拝された。太宗は「卿とは旧親で情誼も厚いが、交遊が多すぎる、この職を授けるので簡静を心がけよ」と戒めた。
  • 柳亨は狩猟を好み放埓の評もあったが、以後自ら励み賓客を絶ち節倹に努め職務に精勤、太宗もこれを称した。二十三年(649年)、太廟修築の功により金紫光禄大夫を加えられる。後に太常卿を拝し万年宮への行幸に従い検校岐州刺史。永徽六年(655年)卒し礼部尚書・幽州都督を追贈され謚は敬。

柳亨――族子范

  • 柳亨の族子柳範は貞觀中、侍御史。呉王恪が狩猟を好み民に損害を与えたことを弾劾した際、太宗は「権万紀は私の子(恪)に仕えながら匡正できなかった、その罪は死に値する」と侍臣に語った。柳範は「房玄齢は陛下に仕えていながら狩猟を止められない、なぜ万紀だけが罪に問われるのか」と進言。太宗は激怒し衣を払って退室したが、後に柳範のみを呼び「なぜ私の言を遮ったのか」と問うと、柳範は「主聖臣直(主君が聖明であれば臣は正直になれる)と聞く、陛下が仁明であるからこそ愚直に申し上げた」と答え、太宗の怒りは解けた。柳範は高宗の時、尚書右丞・揚州大都督府長史を歴任した。

柳亨――兄子奭

  • 柳亨の兄の子、柳奭。父の柳則は隋の左衛騎曹で高麗への使者として卒した。柳奭は高麗に赴き父の柩を迎え、その哀号は礼を超え夷人にも慕われた。貞觀中、中書舍人に累遷。外甥の女が皇太子妃となったことで兵部侍郎に抜擢され、妃が皇后となると中書侍郎に遷る。永徽三年(652年)、褚遂良に代わり中書令となり監修国史を兼ねる。まもなく皇后に疎まれ憂懼し枢密の任を辞す上疏を繰り返し吏部尚書に転じる。皇后(王皇后)が廃されると連座して愛州刺史に貶された。後に許敬宗・李義府に「柳奭が宮掖と密通し鴆毒を謀った、褚遂良らと朋党を結んだ」と誣告され大逆の罪とされ、高宗は使者を派遣し愛州で殺害、家産を没収した。柳奭は無実の罪で死んだため当時大いに哀惜された。神龍初、則天の遺制により褚遂良・韓瑗らとともに官爵を回復され、連座した子孫親属も赦免された。

柳亨――孫渙

  • 開元初、柳亨の孫柳渙は中書舍人として上表し「臣の堂伯祖柳奭は永徽三年、褚遂良ら五家とともに罪せられた。遺制で名誉回復されたが子孫はほぼ絶え、曾孫の柳無忝のみが龔州に籍を置き長年赦されながらなお遠地に留められている。先天以後、宰相を務めた家系は淪滞から救われる例が続いている、伯祖柳奭も過失なく誅殺されたのだから、柩を郷里に葬らせ曾孫柳無忝を本貫に帰すことを願う」と訴え、勅許され柳奭は官造りの霊輿で郷里に改葬された。柳無忝は後に潭州都督に至る。

柳亨――渙弟澤の諫言

  • 柳渙の弟柳沢は景雲中、右率府鎧曹参軍。姚元之・宋璟が中宗朝の斜封官数千員の廃止を奏請し、両者が刺史として外に出た後、太平公主の働きかけで斜封官が旧職に復された際、柳沢は上疏で諫めた。
  • 疏の要旨:神龍以来、法網が乱れ内寵・外戚が官爵を売買してきた弊風を陛下(睿宗)は即位当初に姚元之・宋璟の建策により正したはずなのに、再びこれを復するのは矛盾している。斜封の人を惜しむなら韋月将・燕欽融の名誉回復や李多祚・鄭克義の雪冤も否定すべきことになる、というように基準の一貫性の欠如を批判。太平公主が胡僧慧範を通じてこの動きを主導しているとの世評を伝え、「姚・宋が相であれば邪は正に及ばないが、太平公主が事を執れば正は邪に及ばない」との巷説を紹介した。尚医奉御彭君慶が邪巫の技で三品に超授されたことも名器の濫用として批判し、賞罰の適正化・請謁の路を塞ぐことを求めた。
  • 後に柳沢は銓選に参じ、選人に上書させる勅が出た際、再び上書。前朝(韋后時代)の弊政を糾すため即位した睿宗の功績を称えつつ、驕奢は親貴から起こり綱紀は寵幸によって乱れるとし、儲君(皇太子)・諸王府の人選の重要性、畋猟遊興の戒め、寵愛の行き過ぎへの警戒を説き、『書』『詩』『礼』の教えを多く引きながら「三風十愆」(巫風・淫風・乱風の戒め)を説き、奢侈驕怠には削禄、質朴修業には褒賞をもって臨むよう求めた。
  • 睿宗はこれを善しとして中書省に再議させ、柳沢を監察御史に抜擢。開元中、太子右庶子に累遷。鄭州刺史に出るが赴任前に病没し兵部侍郎を追贈された。

崔義玄――唐初の帰順と戦功

  • 崔義玄、貝州武城の人。大業末、李密に身を寄せるが用いられず。群鼠が洛水を渡るのを見、また槊の刃に花紋が現れたのを見て「これは王敦敗亡の兆しだ」と親しい者に語った。柏崖に拠る黄君漢を「機を見て動くべきだ、群盗が蜂起する中、天命は有徳の者に帰す、唐公(李淵)は秦京に拠り符籙に応じている、真主である、寇恂・竇融の故事に倣い今のうちに帰順し封侯を得るべき」と説き、黄君漢を伴い唐に帰した。懐州総管府司馬を拝す。
  • 王世充の将高毗が河内を侵略した際にこれを撃破し多くの城堡を落とした。黄君漢が子女・金帛を分け与えようとしたが崔義玄は全て辞退し、功により清丘縣公に封ぜられる。後に太宗の王世充討伐に従いたびたび籌策を献じ採用された。東都平定後、隰州都督府長史に転じる。
  • 貞觀初、左司郎中を歴任し韓王府長史を兼ね州府事を代行。友人の孟神慶とは志向が異なりながらも共に清廉正直で王府を匡正し、王はいずれも信任した。永徽初、婺州刺史に累遷。

崔義玄――陳碩真の乱の鎮圧

  • 睦州の女性陳碩真が挙兵し、その部下童文寶が四千の徒衆で婺州を襲撃した際、崔義玄は迎撃を率いた。百姓の間に陳碩真が天に昇った、その兵に触れる者は皆滅ぼされるという流言が広まり皆恐れる中、司功参軍崔玄籍が「順に発した兵ですら成功しないことがある、これは妖言に過ぎず長続きしない」と説き、崔義玄はこれに同意し崔玄籍を先鋒に自ら後続、下淮戌で間諜二十余人を捕らえた。夜、賊の陣営に流星が落ちるのを見て「これは賊が滅ぶ徴だ」と述べ、翌朝進撃、自ら先頭に立ち兵士が盾で矢を防ごうとすると「刺史ですら矢を避けようとするなら誰が死力を尽くすか」と言い放ち、士卒は奮戦して数百級を斬り残りは投降を許した。睦州境に至ると帰順者は万を数えた。陳碩真平定の功で御史大夫を拝す。

崔義玄――経学と晩年

  • 若くから章句の学を愛し、『五経』の大義や先儒が疑義とした箇所・音韻の不明な部分を諸家の説を取り入れ解釈し証拠を挙げて条疏をまとめていた。高宗はこれにより崔義玄に『五経正義』の討論を命じ諸博士と是非を詳定させたが事は完成しなかった。
  • 高宗の武氏立后に際し崔義玄はその謀に協賛し、長孫無忌らが罪を得た際には崔義玄が中旨を承けてこれを処断した。顕慶元年(656年)、蒲州刺史に出、まもなく七十一歳で卒し幽州都督を追贈され謚は貞。則天はその功を思い後に揚州大都督を追贈し家に実封二百戸を賜った。

崔義玄――子神基・神慶

  • 子の崔神基が爵を襲う。長寿中(692-694年)、司賓卿・同鳳閣鸞台平章事となるが、宰相となって一月余りで酷吏に陥れられ死一等を減じて配流。後に次第に登用され中宗初、大理卿となる。
  • 崔神基の弟崔神慶は明経挙に及第、則天時代に萊州刺史に累遷。入朝の際に億歳殿で待制し奏事が意に適い、則天は彼の治績と父の功を評して并州長史に抜擢し「并州は朕の故郷であり軍馬もある、卿ほど適任者はいない」と自ら経路図を作り送り出した。任地では偽の改鋳貨幣勅による物価騒動を沈静化させ、汾水で隔てられた東西二城を連結する城壁を築いて防御兵数千を削減し辺境で称賛された。
  • 兄崔神基が下獄し死罪に処されそうになった際、崔神慶は都に馳せ参じて告訴し則天から推状を示され、状に基づき申弁し神基は死一等を減じられたが、崔神慶自身も連座して歙州司馬に貶された。長安中、礼部侍郎に累遷し時政の利害をたびたび上疏し則天に嘉納された。太子右庶子に転じ魏縣子に叙爵。
  • 突厥使の入朝に際し太子の朝参に関する礼制の不備(勅書を経ずに文符のみで召される慣行)を指摘し、太子には特に玉契・墨勅による召命を用いるべきと上疏し則天に納れられた。まもなく詹事祝欽明とともに東宮で交代で侍読を務める。司刑卿・司礼卿を歴任。張昌宗を推問する詔を受けながらその罪を寛大に扱ったため、神龍初、昌宗誅殺の際に連座して欽州に流され、まもなく卒す、七十余歳。翌年、敬暉らが罪を得た際、張昌宗連座者は例により雪冤され、崔神慶にも幽州都督が追贈された。

崔義玄――子孫の繁栄

  • 開元中、崔神慶の子の崔琳らはみな高官に至り、一族数十人が朝廷に出仕した。毎年の家宴では組珮が輝き笏を重ねて置くほどであった。開元・天宝間、内外の一族に緦麻の喪すら絶えぬほど(喪も出さぬほど昌盛だったの意)栄えた。東都の私邸の門には崔琳と弟の太子詹事崔珪、光禄卿崔瑤が共に棨戟を並べ「三戟崔家」と称された。崔琳は太子少保で位を終えた。

史論

  • 北周・隋以来、韋氏は世々令名の人物を出し名門であったが、韋安石(別伝)に至ってその門は一層大きくなった。韋挺は才を恃み人を軽んじ長者の風を欠き、馬周に不仁の仕打ちで報いられた、君子として論じるに難がある。堯・舜が実像以上に美化され、桀・紂が実像以上に貶められるのは、一つの凶徳があれば衆悪がそこに帰されるためだと評される。楊素父子は隋の祚を傾け悪名が広まったが、閻弘礼・閻弘武(本文の楊弘礼・楊弘武の誤記か底本のまま)は正士でありながら楊元亨兄弟は凶族として一時竄逐された。古人が節義を守り死んでも道を曲げなかった意義がここにも表れている。
  • 劉徳威の刑名論は要を得ており大理卿にふさわしい見識であった。劉審礼の仁孝は治行の模範とすべきだが禍に遭ったのは悲しむべきことである。閻氏兄弟の画技は精巧だったが、芸に長じて職分に劣ることを戒めとすべきである。柳氏一族は代々謇諤(率直な諫言)で知られ、柳奭・柳沢には正人の風があり忠規を献じた人物であった。崔義玄は武后に阿附し、崔神慶は酷吏に寛容であったため一族の凶邪の芽となり、その末に傾敗したのも当然と評される。
  • 賛:韋氏(韋挺)は驕矜のゆえに功名を損ねた。楊氏(楊素の一族)は悪を積み一族から排斥された。閻氏は絵の技で辱められ、劉氏(劉徳威・審礼)は孝行に禍を受けた。崔氏(崔義玄・神基・神慶)は能吏であったが、その行いには取るべきものがなかったと評される。