舊唐書卷七十八 劉洎・馬周・崔仁師
舊唐書卷七十八は太宗朝の言官・能吏である劉洎・馬周・崔仁師と、崔仁師の系譜に連なる崔湜ら子孫を合わせて伝える篇である。劉洎は隋末に唐へ帰順した後、太宗の側近として直言で重んじられたが、褚遂良の讒言により自尽を命じられた。馬周は貧窮の身から長安に遊学し、太宗に才を見出されて宰相に至る布衣の立身譚として描かれる。崔仁師は裁判官として仁恕の名声を得たが、その孫の崔湜は栄達を重ねながら権勢に阿附し、太平公主一党への連座から配流の途上で縊死するという対照的な末路をたどった。
年表(16件)
- 貞觀七年633年給事中に累進し清苑縣男に封ぜられる
- 貞觀十一年637年治書侍御史に転じ尚書省の詔勅停滞を批判する上疏を行う
- 貞觀十三年639年黄門侍郎に遷る
- 貞觀十七年643年銀青光禄大夫を加授され散騎常侍に任ぜられる
- 貞觀十八年644年侍中に遷る
- 貞觀十九年645年褚遂良の讒言により自尽を命じられる
- 貞觀五年631年太宗に上書の才を認められ召見され門下省に直す
- 貞觀六年632年監察御史に任ぜられる
- 貞觀十二年638年中書舍人に転じる
- 貞觀十五年641年治書侍御史・知諫議大夫を兼ね検校晋王府長史も兼任する
- 貞觀十八年644年中書令に遷り太子右庶子を兼任する
- 貞觀二十一年647年銀青光禄大夫を加えられる
- 貞觀二十二年648年四十八歳で病没する
- 景龍二年708年兵部侍郎に遷り父子ともに南省の副貳となる
- 先天元年712年中書令となる
- 開元十四年726年弟の崔滌、東封随行の功で金紫光禄大夫を加えられ同年卒す
劉洎――出自と初期の経歴
- 劉洎、字は思道、荊州江陵の人。隋末、蕭銑に仕え黄門侍郎となる。蕭銑の命で嶺表を攻略し五十余城を得るが、戻る前に蕭銑が敗れたため、得た城とともに唐に帰順し、南康州都督府長史を授かる。
- 貞觀七年(633年)、給事中に累進し清苑縣男に封ぜられる。十一年(637年)、治書侍御史に転じ、尚書省の詔勅の停滞・文案の停滞を批判する上疏を行う。左丞戴胄・右丞魏徴の時代は綱紀が行き届いていたが、後任は勲親の者が官にあり職に不適で機能不全になっていると指摘し、左右丞・左右司郎中の四員の精選を求めた。
劉洎――太宗との議論と諫言
- 上疏後まもなく尚書右丞となる。十三年(639年)、黄門侍郎に遷る。十七年(643年)、銀青光禄大夫を加授され散騎常侍に任ぜられる。
- 性格は疎放で直言を好んだ。太宗が玄武門で三品以上を宴し、自ら飛白の書を書いて群臣に与えた際、劉洎が御座に上って筆を取ったため「洎登御床、罪当死」と咎められたが、太宗は「昔聞婕妤辞輦、今見常侍登床」と笑って許した。まもなく黄門侍郎を摂し上護軍を加えられる。
- 太宗が公卿と古道を論じ詰問を好むことに対し、至愚が至聖に、至卑が至尊に対しても十分に答えられないとし、雄弁を控え浩然の気を養うべきと諫める上書を提出。太宗は手詔で「今聞讜言、虚懐以改」と答えた。
- 皇太子が立てられた際、太子を尊び道を重んじるべきと上書。晁錯・賈誼の故事を引き、太子が学問・賓客と接する機会が乏しいことを憂慮し、師傅らとの接見を増やすよう求めた。
- これにより劉洎は岑文本とともに馬周と交代で東宮に赴き皇太子と議論するよう勅命を受ける。太宗が苑西守監穆裕を怒り朝堂で斬ろうとした際、皇太子が諫めた逸話に関連し、太宗は長孫無忌に、皇太子が諫めを好むのは劉洎・岑文本・馬周・褚遂良らに感化されたためだと語った。
- 十八年(644年)、侍中に遷る。太宗が群臣に自分の過失を率直に言うよう求めた際、長孫無忌・李勣・楊師道らは陛下に過失なしと答えたが、劉洎は「上書者が意に沿わない場合、面前で問い詰められ言路が塞がれる恐れがある」と指摘し、太宗はこれを受け入れた。
劉洎――遼東征討と死
- 太宗の遼東親征に際し、劉洎は高士廉・馬周とともに定州で皇太子の監国を輔け、左庶子・検校民部尚書を兼ねる。太宗は「社稷安危の機、汝に託す」と述べ、劉洎は「大臣に過失あれば直ちに誅す」と応じたが、太宗はその軽率さを危惧し「君密ならざれば臣を失い、臣密ならざれば身を失う。卿は性疏にして太だ健、深く戒め慎むべし」と戒めた。
- 十九年(645年)、太宗が遼東より帰還する途上で病を発した際、劉洎と中書令馬周が見舞い、退出後に劉洎は褚遂良に「聖体患癰、極可憂懼」と涙ながらに語った。ところが褚遂良は「劉洎は『国家の事は憂うるに足らず、まさに少主に伊尹・霍光の故事に倣わせ、異志ある大臣は誅すべし』と言った」と誣告した。太宗が病癒えて問い質すと劉洎は事実を述べ馬周を証人としたが、馬周の陳述は劉洎の言と一致したにもかかわらず褚遂良はなお主張を曲げず、劉洎は自尽を命じられた。
- 死に臨み紙筆を求めて上奏しようとしたが憲司が与えず、太宗は後にこれを知り憲司の担当者を罰した。文集十巻が世に行われた。則天臨朝の際、子の劉弘業が劉洎は褚遂良に讒言されて死んだと訴え、詔により官爵が回復された。
馬周――出自と長安への遊学
- 馬周、字は賓王、清河茌平の人。若くして孤貧、学を好み特に『詩』『伝』に精通したが、落拓不羈で州里に敬われなかった。武徳中、博州助教に補せられるが酒に耽り講授を怠り、刺史達奚恕にたびたび咎められたため職を離れ曹州・汴州に遊び、また浚儀令崔賢に辱められて長安へ西遊。
- 新豊の宿では商人客ばかりが優遇され軽んじられたが、一斗八升の酒を悠然と独酌し主人を驚かせる逸話がある。長安では中郎将常何の食客となる。
- 貞觀五年(631年)、太宗が百僚に得失を上書させた際、武人の常何に代わり馬周が二十余の献策を起草し、いずれも太宗の意に合致した。太宗が常何に問うと「家客馬周の作」と答え、太宗は即日召見し門下省に直させた。六年(632年)、監察御史に任じ、常何にも功として帛三百匹を賜う。
馬周――上疏(大安宮・九成宮行幸・封建の弊)
- 大安宮(太上皇の居所)が宮城の外にあり城壁・門楼が卑小であることを指摘し、修築を進言。
- 九成宮行幸(二月二日の予定)について、太上皇への朝夕の視膳・晨昏の礼を欠くことになると懸念を示す。
- 宗室・勲賢を諸鎮に封じ子孫に世襲させる詔について、堯舜の子にも不肖の子があった例(丹朱・商均)を引き、無才の子孫が嗣げば民に害を及ぼすとし、後漢光武帝が功臣に吏事を任せなかった例を挙げ、慎重な人選を求めた。
- 太宗が即位以来、宗廟を親祭したことがないことを指摘し、孝の実を挙げるよう求めた。
- 楽工出身の王長通・白明達、馬術のみに長じた韋槃提・斛斯正らが士流に列し高爵を得ていることを批判し、士人と同席させるべきではないと諫めた。
- 太宗はこれを深く納得し、まもなく侍御史に任じ朝散大夫を加える。
馬周――十一年の上疏(歴代の興亡・倹約・諸王の処遇)
- 夏殷漢の享祚が長く、魏晋以降が短命であったのは積徳・恩化の厚薄によるとし、陛下も貞観の初めの倹約・恩恵の姿勢を保つべきと説く。
- 百姓は隋末の喪乱を経て人口が隋の十分の一程度に減ったにもかかわらず徭役・供給の負担が変わらず不満があると指摘。漢文帝・景帝の倹約の故事(露台建設の中止、慎夫人の衣が地を曳かぬこと、錦繡纂組の禁止)を挙げ倹約を求める。
- 貞觀の初めは一匹の絹で一斗の米しか買えぬほど窮乏していたが人心は安定していたのに対し、近年は豊作で一匹の絹で十余石の粟が買えるのに民に怨言があるのは不急の営作が多いためと分析。隋の洛口倉・東都の蓄積が李密・王世充に利用された例を引き、蓄積は民の余力があってこそ意味があると説く。
- 賈誼が漢文帝に諫めた韓信・彭越・英布の例を引き、当代の功臣には現状問題ないが、諸王が多く年少であり、将来樹立の仕方を誤れば禍乱の元になると警告。魏の陳思王(曹植)が文帝に疎まれた例を引き、諸王への処遇は長久の法を制定すべきと説く。
- 続けて刺史・県令の人選の重要性を説き、朝廷が内官を重んじ地方官を軽んじる現状(武人・不称職の京官が地方に出る、辺遠の地は特に人材が薄い)を批判した。太宗はこの上疏を大いに称賛した。
馬周――その後の官歴と晩年
- 京城の街々で朝夕人を遣って呼ばわり民を戒めていたのを、鼓を置いて撃つ方式に改めるよう提案し採用される。給事中に拝し、十二年(638年)中書舍人に転じる。機弁に長け奏事に巧みで、太宗は「我於馬周、暫不見則便思之」と評した。中書侍郎岑文本も馬周の議論を高く評価しつつ、「鳶肩火色、騰上必速、恐不能久」と早世を予感した。
- 十五年(641年)、治書侍御史・知諫議大夫を兼ね、検校晋王府長史も兼任。晋王が皇太子になると中書侍郎・太子右庶子に。十八年(644年)、中書令に遷り太子右庶子を兼任のまま。太宗の遼東親征では劉洎・高士廉とともに皇太子の監国を輔けた。太宗帰還後、吏部尚書を摂す。二十一年(647年)、銀青光禄大夫を加えられる。
- 消渇の病を得て太宗自ら薬を調じ、皇太子も見舞うほど厚遇された。臨終に際し自らの上書の草稿を焼き「管仲・晏嬰のように君の過を彰らかにして身後の名を求めることはしない」と語った。二十二年(648年)、四十八歳で卒す。太宗は哀悼し幽州都督を贈り昭陵に陪葬。高宗即位後、尚書右僕射・高唐県公を追贈。垂拱中、高宗廟庭に配享された。子の馬載は咸亨年間に吏部侍郎に累進し人材登用に長け、雍州長史で卒した。
崔仁師――出自と裁判官としての名声
- 崔仁師、定州安喜の人。武徳初、制挙に応じ管州録事参軍を授かる。五年(622年)、侍中陳叔達の推薦で右武衛録事参軍に進み梁・魏等の史書編纂に加わる。貞觀初、殿中侍御史に再遷。
- 青州の謀反事件で獄が満員となった際、詔により再調査を命じられ、首謀者十余人のみを罪とし残りは赦免。大理少卿孫伏伽に「これほど赦免すれば命惜しさに讒言が出るのでは」と危惧されたが、崔仁師は「理獄の要諦は仁恕、身の安全のために枉げて理を申さないことはできない」と応じ、後に勅使が再訊した際も囚人は皆冤罪のないことを認めた。
- 度支郎中として財物の数千言に及ぶ奏を手控えなしで暗誦し、太宗を驚かせた逸話がある。
- 校書郎王玄度が孔・鄭旧注を廃し自注を用いるよう上表した際、崔仁師はその穿鑿を批判し駁奏、詔により玄度の説は退けられた。
- 十六年(642年)、給事中に遷る。刑部が『賊盗律』の反逆縁坐の兄弟没官刑を死刑に改めるべきと議論した際、高士廉・侯君集・李勣らは重刑化に賛成したが、崔仁師は歴代の刑法史(周末の峻法から秦の滅亡、漢文帝の連座廃止と過度の寛大の両面)を論じ、「父子・兄弟に誅を及ぼすのは惻隠の情に反する」と駁議し、これが採用された。
- 密かに魏王を太子に立てるよう奏したことが忤旨となり、鴻臚少卿に転じ、後に民部侍郎に遷る。
崔仁師――遼東の役以後の浮沈
- 遼東征討で太常卿韋挺の海運を副として補佐し、自身は河南水運を担当。水路の険遠を理由に近海の租賦を融通する便宜策を取ったが、韋挺が壅滞・失期で除名された際、崔仁師も運夫の逃亡を報告しなかった罪で免官。この間『体命賦』を著し心情を述べた。
- 太宗の中山帰還時に中書舍人に起用され、検校刑部侍郎を兼ねる。太宗の翠微宮行幸に際し『清暑賦』を上って諷諫し、帛五十段を賜る。
- 二十二年(648年)、中書侍郎に遷り機務に参与、太宗の厚い信任を得たが中書令褚遂良に妬まれる。伏閣上訴の一件を奏上しなかったため太宗に「罔上」とされ、龔州に配流。赦により帰還。永徽初、簡州刺史として起用されるがまもなく六十余歳で卒す。神龍初、子の崔挹が国子祭酒となったことにより崔仁師に同州刺史が追贈された。
崔湜――出自と栄達
- 崔挹の子、崔湜。若くして文辞で名を知られ進士に及第、左補闕に累進し『三教珠英』編纂に加わり殿中侍御史に遷る。
- 神龍初、考功員外郎に転じる。桓彦範・敬暉らが国政を握った際、武三思を警戒し崔湜を耳目として動静を伺わせたが、崔湜は逆にその計議を武三思に密告。中宗が功臣を疎んじ武三思を厚遇すると、崔湜は中書舍人に遷る。
- 桓彦範・敬暉らが嶺外に流された際、崔湜は彼らを皆殺しにするよう武三思に勧め、表兄の周利貞(桓・敬らに憎まれていた人物)を推挙してその任に当たらせ、桓・敬らの多くは利貞の到着を聞いて自殺した。
- 景龍二年(708年)、兵部侍郎に遷り、父崔挹は礼部(尚書)に、父子ともに南省の副貳となる(唐建国以来初の例)。昭容上官氏に取り入り中宗の厚遇を得て吏部侍郎、さらに中書侍郎・同中書門下平章事に。
- 鄭愔と選事を共にし銓叙の乱れで御史李尚隠に弾劾され、鄭愔は嶺南に配流、崔湜は江州司馬に左遷されるが、上官昭容と安楽公主の取り成しで襄州刺史に転じ、まもなく尚書左丞に入る。
- 韋后臨朝時、再び中書侍郎・同中書門下三品。睿宗即位後、華州刺史に出、まもなく太子詹事に。
- 景龍中、南山新路の開通を献策し数万の徭役で十中三四が死亡、旧道を厳禁したが新路は夏の洪水で崩壊し通行不能となった。後にこの功が追論され銀青光禄大夫を加えられる。
- 太平公主に引かれ再び中書門下三品。先天元年(712年)、中書令に。劉幽求と権を争い不和になり、幽求を嶺表に陥れ、さらに広州都督周利貞を促して殺そうとしたが果たせなかった。
- 父崔挹は老齢のため戸部尚書で致仕、性貪冒で崔湜に事を頼み度々拒まれ世の嘲りを買った。玄宗が東宮時代にその邸をたびたび訪れるほど親密だった。
- 崔湜が太平公主に私淑したことを人々が危惧し、門客陳振鷺が『海鷗賦』を献じて諷したが崔湜は表面上称賛しつつ内心不快だった。玄宗が蕭至忠らを誅そうとして崔湜を腹心として召そうとした際、弟の崔滌が「主上の問いには隠すな」と諫めたが従わず、対問で失旨し、蕭至忠らの誅殺後、崔湜も嶺外に流罪となる。
- 同じく連座した新興王李晋が刑死に際し「本謀者は崔湜なのに、我が死して湜が生きるとは何たる冤罪か」と嘆いた逸話が伝わる。その後、宮人元氏が崔湜と共謀して鴆毒を進めようとしたと訴え、崔湜は追って賜死。
- 崔湜は張説と不和で、時の中書令張説が陥れたとの噂があった。尚書右丞盧藏用と共に配流の途上、弟が恩寵を受けているので寛宥を期待して遅延したが、荊州で鏡の夢を見て凶兆と占われ、その日追使が至り駅で縊死。時に四十三歳。
- 崔湜は容姿に優れ早くから才名があった。弟の崔液・崔滌、従兄の崔蒞もみな文才があった。要職にある間、東晋の王導・謝安の家に自らをなぞらえ「わが一門は出身歴官すべて第一等」と語り、進取をやめなかったため天寿を全うできなかった。
崔液
- 崔液は特に五言詩に優れ、崔湜は「海子(崔液の幼名)は我が家の亀(宝)」と称賛した。官は殿中侍御史に至るが、兄の連座で郢州の胡履虚の家に逃匿。『幽徴賦』を著し、赦に遇い帰る途上で病没。友人裴耀卿がその遺文を集め十巻とした。
崔論
- 崔液の子、崔論は吏才で称された。天宝中、櫟陽令から司勲員外郎・濛陽太守に累進。乾元後、いくつかの名郡を歴任しいずれも治績で称された。大暦末、元載の誅殺後の人材登用で同州刺史に。まもなく黜陟使庾何に厳しく弾劾され免職。後に評価が過酷だったとされ衢州刺史に再任。任期満了後、揚州・楚州の間に寓居。徳宗により旧族耆老として大理卿を授かり致仕、卒す。
崔滌
- 崔液の弟、崔滌は弁舌に長け機知に富み諧謔を好み、玄宗と親密だった。兄崔湜が太平公主一党として誅されて後も玄宗は変わらず厚遇し秘書監に用いた。禁中に出入りし諸王との宴席で寧王より上座に座ることもあった。後に「澄」と改名。東封(泰山封禅)に随行した功で金紫光禄大夫を加えられ安喜県子に封ぜられる。開元十四年(726年)卒し、兗州刺史を追贈された。
史論
- 劉洎は当初、切実な上疏によって高位に上ったが、樞機の発言は栄辱を分けるものであり、一言の慎みを欠いたことで誣奏に陥り、悔いても及ばなかった、と評される。
- 馬周は際会に恵まれ、天性深沈で人を見抜く力に優れ、忠孝を本とした人物とされるが、中寿で世を去ったことが惜しまれる。
- 崔仁師は史才により登用され、仁恕を旨とした裁判で称され、穿鑿の注や重刑論を退けた発言も正しかったが、魏王擁立の密奏(『書』の「疑謀勿成」に反する)や、機務参与後に忌嫉を招き罔上とされたことにも一因があったと評される。
- 崔湜は祖父の徳から遠ざかり、権勢を恃み進取をやめなかった末、極位に達しても止まることを知らなかった。『海鷗賦』を見ても諫めを聞かず、荊州の夢占いのように破滅を悟る事態に至った。『易』の「不節の嗟、又誰をか咎めん」という評が当てはまるとされる。
- 賛:賢馬が造父に出会えば一日に千里を走るように、英主が賢を得れば階陛にとらわれない。馬周は徒歩で長安に上り、劉洎はかつて賊軍の下級官吏だったが、共に太宗に見出され宰相の位に登った。