舊唐書卷七十九 蘇世長・韋雲起・孫伏伽・張玄素

舊唐書卷七十九は、隋末唐初にかけて高祖・太宗に仕え、卑賤の身から直言諫諍によって顕達した蘇世長・韋雲起・孫伏伽・張玄素の合伝である。蘇世長は北周・隋を経て唐に帰順し、高祖の遊猟・造営を機知に富む言葉で諫めた。韋雲起は隋代から山東門閥の朋党を弾劾し契丹討伐で功を挙げたが、隠太子李建成との縁により竇軌に殺害された。孫伏伽は高祖に三事を諫めて厚遇された。張玄素は洛陽宮の造営を諫めて太宗の信任を得た後、皇太子李承乾の乱行をたびたび諫めたが聞き入れられなかった。

年表(13件)

蘇世長――北周から隋にかけての経歴

  • 蘇世長、雍州武功の人。祖父の蘇彤は後魏の直散騎常侍、父の蘇振は北周の宕州刺史・建威縣侯。
  • 周武帝の時、十余歳で上書し政事を論じる。武帝が読んだ書を問うと『孝経』『論語』と答え、その要旨(「国を為むる者は鰥寡を侮らず」「政を為すに徳を以てす」)を的確に述べたため武帝は感心し獣門館で読書させた。父が王事に殉じたため襲爵を許され、武帝の御前で号泣し武帝を感動させた。
  • 隋文帝の受禅後もたびたび便宜を上書し補益があり、長安令に抜擢される。大業中、都水少監として上江で漕運を督す。江都の変(煬帝弑逆)に際し、煬帝のために発喪し慟哭して路人を感動させた。
  • 王世充の僭号後、太子太保・行台右僕射に署せられ、世充の兄子の王弘烈や豆盧褒とともに襄陽を鎮める。豆盧褒の女が王弘烈の妻であり深く結託していた。高祖(李淵)は豆盧褒と旧交があり璽書で諭したが従わず、使者を斬ることを繰り返した。

蘇世長――唐への帰順と諫言

  • 武徳四年(621年)、洛陽平定に伴い、蘇世長は真っ先に王弘烈に降伏を勧めた。京師に至ると高祖は豆盧褒を誅し蘇世長の帰順の遅さを責めたが、蘇世長は「鹿を争う喩え、獲鹿の後に猟の仲間を怨むのは筋違い、陛下は管仲・雍歯の故事を忘れてはならない」と述べ、高祖は旧知の情もあり笑って許した。玉山屯監を授かる。
  • 玄武門での引見で高祖に「諂佞か正直か」と問われ「愚直」と答え、「王世充を裏切って我に帰したのはなぜか」と問われると「洛陽平定で天下が一となったため始めて帰順した、もし世充がなお在れば漢南に拠り勍敵たり得た」と答え、高祖は大笑した。高祖の戯言(「名長意短、口正心邪」)にも巧みに応じ、竇融の故事を引いて自らの軽い処遇を諧謔した。即日、諫議大夫に抜擢される。
  • 涇陽での校猟に随行し禽獣を多く獲た際、高祖に「今日の狩りは楽しいか」と問われ「陛下の遊猟は万機を廃するもの、十旬に満たぬとはいえ大楽とは言えぬ」と諫言。高祖は色を変えたが後に笑って許した。
  • 突厥入寇で武功の郡県が戸口を失った後に武功での校猟が計画された際も、恤民を優先すべきと諫めたが高祖は聞き入れなかった。
  • 披香殿で酒に酔い「これは隋煬帝の造営か、雕麗ぶりがすごい」と皮肉を述べ、高祖自身の造営であることを指摘されると「傾宮鹿台の類は受命の帝王の愛民節用にふさわしくない、陛下がこれを造ったのなら誠に相応しくない」と諫めた。高祖は深く同意した。
  • 陝州長史・天策府軍諮祭酒を歴任。秦王府の文学館開設に際し学士に列し、房玄齢ら十八人とともに肖像を描かれ、文学褚亮の賛では「軍諮諧噱、超然辯悟。正色於庭、匪躬之故」と評された。
  • 貞觀初、突厥に使いし頡利可汗と礼を争い賂遺を受けず、朝廷に称賛された。巴州刺史に出、舟が覆り溺死。機弁と学識を兼ね、博渉で簡率、酒を好み威儀に乏しかった。陝州在任中、部内の犯法を禁じきれず自ら都街で笞打ったが、伍伯が詭道と憎み鞭を強く当てたため蘇世長は痛みに大呼して逃げ、見物人に笑われ、議者は詐りと評した。

蘇世長――子・良嗣

  • 子の蘇良嗣は高宗の時、周王府司馬に遷る。王が年少で不法を行った際、正色をもって匡諫し敬憚された。王府の官属に不適な者が多い中、規律を守らせ高宗に称された。荊州大都督府長史に遷る。
  • 高宗が宦官に長江沿いの珍しい竹を採らせ苑中に植えようとした際、宦官が船を科して各地で暴を働き荊州を通過したため、蘇良嗣はこれを捕らえて切諫し「遠方の珍異を求めるのは聖人の抑己愛人の道にあらず、小人の威福の弄びは皇明を損なう」と上疏。高宗は下制で慰勉し竹を江中に棄てさせた。
  • 永淳中、雍州長史。関中の大飢饉で人相食む中、盗賊を三日以内に捕えるなど厳明な政治を行う。則天臨朝後、工部尚書、まもなく王徳真に代わり納言となり温国公に累封。西京留守として赴任する際、則天は詩を賦して餞送し厚遇した。
  • 尚方監裴匪躬が西苑の果菜を売って利を得ようとした際、蘇良嗣は「公儀休が魯の相となっても葵を抜き織を廃した、万乗の主が果菜を売り民と利を争うことはあり得ない」と駁し、これを止めさせた。
  • 文昌左相・同鳳閣鸞台三品に遷る。載初元年(690年)春、文昌左相を罷め特進に加位、依然政事に参与。地官尚書韋方質と不和で、方質が誅に処された際に良嗣を引き合いに出したが則天は良嗣を庇護した。良嗣は謝恩の際に伏したまま起き上がれず、輿で帰宅、その日薨去、八十五歳。則天は三日輟朝し、開府儀同三司・益州都督を追贈、絹布八百段・米粟八百碩を賜い璽書で弔祭した。
  • 子の蘇践言は太常丞であったが酷吏に陥れられ嶺南に配流され死亡、良嗣の官爵も追削され家産を没収された。景龍元年(707年)、蘇良嗣に司空が追贈された。践言の子の蘇務玄は温国公を襲爵し、開元中に邠王府長史となる。

韋雲起――出自と隋代の直言

  • 韋雲起、雍州万年の人。伯父の韋澄は武徳初に国子祭酒・綿州刺史。韋雲起は隋開皇中に明経挙で符璽直長を授かる。
  • 文帝の下問に応じ、兵部侍郎柳述が公主の婿として要職に居るが未経験で不適任であると直言、文帝は柳述に「雲起の言は汝の薬石、師友とすべし」と告げた。仁壽初、朝廷の推薦で通事舍人に進む。大業初、通事謁者に改まる。
  • 朝廷内の山東出身者が門戸を作り互いに推挙し朋党を為していると上疏で指弾。煬帝が大理に究めさせた結果、左丞郎蔚之・司隸別駕郎楚之らが朋党の罪で流罪、九人が免官された。

韋雲起――契丹討伐と隋末の直言

  • 契丹が営州を侵した際、突厥兵を率いて討伐するよう詔される。啓民可汗の二万騎を二十営に分け軍令を厳格に敷き(鼓で進み角で止まる、紇幹一人を斬って徇える等)、突厥の将帥は畏服した。
  • 契丹に対しては突厥をして「柳城郡で高麗と交易する」と偽らせ隋使の存在を隠し、大迂回の奇策で不意を突き、男女四万口を捕らえた。女子・畜産の半分は突厥に分与し、残りは連行、男子は皆殺した。煬帝は大いに喜び「突厥を用いて契丹を平らげた、行師の奇譎、文武を兼ねる」と百官の前で称賛し、治書御史に抜擢した。
  • 韋雲起は続けて内史侍郎虞世基・御史大夫裴蘊が賊の規模を過小に報告し戦況を悪化させていると弾劾したが、大理卿鄭善果に「名臣を誹り妄りに威権を作った」と反論され、大理司直に左遷される。
  • 煬帝の揚州行幸中、韋雲起は長安に帰省中に義旗(唐の挙兵)に遭遇し長楽宮で謁見。義寧元年(617年)、司農卿・陽城縣公を授かる。武徳元年(618年)、上開府儀同三司を加え農圃監事を判す。
  • 王世充討伐の大規模出兵計画に対し「国家は喪乱の後、京邑は初めて平らいだばかりで内には盗賊が残り(盩厔司竹・藍田・谷口の群盗、北の梁師都と胡寇との連結)、外征より内憂の解消と農桑の勧めを優先すべき」と上疏し諫止、三年後には一挙に討てると説く。高祖はこれに従った。
  • その後、突厥入寇に際し豳・寧以北九州の兵馬を総領。四年(621年)、西麟州刺史・司農卿。趙郡王孝恭に代わり夔州刺史、遂州都督に転じ夷獠を懐柔し民心を得た。益州行台民部尚書、後に行台兵部尚書に転じる。

韋雲起――竇軌との確執と死

  • 行台僕射竇軌がしばしば殺戮を行い獠の反乱を偽って奏し兵を集めようとしたが、韋雲起はこれに従わないことが多かった。また韋雲起自身も私産を営み生獠と通じて利を図ったため竇軌に非難され、両者は疑心を抱き対立した。
  • 隠太子(李建成)の死に際し、朝廷は竇軌に息を馳せて報せたが、竇軌は韋雲起の弟の韋慶儉・堂弟の韋慶嗣らが東宮に仕えていたため事変を恐れ、まず備えを固めてから告知した。韋雲起は詔書を求めたが、竇軌は「公は建成の党であり、詔を奉じないのは反心の証」として殺害した。
  • 若い頃、太学博士王頗に師事した際、「韋生の識悟はこのようであり必ず富貴を得るが、剛腸嫉悪の性ゆえに終には身を害するだろう」と評されており、その通りになった。子の韋師実は垂拱初、華州刺史・太子少詹事に至り扶陽郡公に封ぜられた。

韋雲起――子の孫・韋方質

  • 韋師実の子、韋方質は則天初、鸞台侍郎・地官尚書・同鳳閣鸞台平章事。『垂拱格式』の改修に多く関与し当時称された。
  • 武承嗣・武三思が朝政を専断し諸宰相が阿附する中、韋方質は病中に見舞いに来た承嗣らに礼を執らず、周囲に危険を諭されても「吉凶は命、大丈夫が近戚に折節して苟免を求めることはできない」と応じた。まもなく酷吏周興・来子珣に陥れられ儋州に配流、家産を没収され、まもなく卒す。神龍初、罪を雪がれた。

孫伏伽――武徳元年の三事の諫

  • 孫伏伽、貝州武城の人。大業末、大理寺史から万年縣法曹に累補。武徳元年(618年)、三事について上諫。
  • その一:天子に諍臣あれば無道でも天下を失わず、父に諍子あれば無道でも不義に陥らないとし、隋煬帝が滅んだのは直言を聞かなかったためと指摘。唐が天下を得た容易さに慢心せず、狩猟は時節に順うべきこと、即位直後の鷂・琵琶・弓箭の献上を受けたことは前朝の弊風であると批判した。
  • その二:百戲散樂は隋末に盛んになった淫風で、太常が民間から婦女の裙襦五百余具を借り玄武門で散妓に用いようとしていることを、後代の範とすべきでないとし廃止を求めた。
  • その三:皇太子・諸王の側近の人選の重要性を説き、無義・無頼・驕奢遊猟の徒を近づけるべきでないとし、賢才を皇太子の僚友とするよう求めた。
  • 高祖は大いに喜び、隋の滅亡が直言を聞かなかったことによるとする詔を下し、孫伏伽を治書侍御史に任じ帛三百匹を賜った。以後たびたび賦斂の改革を進言し高祖はこれを納れた。
  • 二年(619年)、高祖は裴寂に李綱・孫伏伽の忠直を称賛。王世充・竇建徳平定後の大赦で処罰対象者が配流されることについて、孫伏伽は「赦とは信を示すものであり、渠魁(首謀者)が赦されるなら脅従の者に罪を問うのは筋が通らない」と上表し反対した。また諫官の設置も上表し、いずれも高祖に納れられた。

孫伏伽――太宗朝

  • 太宗即位後、樂安縣男に叙爵。貞觀元年(627年)、大理少卿に転じる。太宗の馬射(乗馬しての射的)を「千金の子は堂に近寄らず」として危険を諫め、天子は自ら険を履むべきでないと上書、太宗は大いに喜んだ。
  • 五年(631年)、囚人の奏に誤りがあり免官。まもなく刑部郎中に起用され、大理少卿に累遷、民部侍郎に転じる。十四年(640年)、大理卿に拝し、後に陝州刺史に出る。永徽五年(654年)、老齢により致仕。顕慶三年(658年)卒す。

張玄素――隋末の経歴

  • 張玄素、蒲州虞郷の人。隋末、景城縣戸曹。竇建徳が景城を攻略し張玄素は捕えられ処刑されようとしたが、県民千余人が号泣して代命を願い出、竇建徳は釈放し治書侍御史に署したが固辞。江都陥落後に召されて黄門侍郎となり応命。竇建徳平定後、景城都督府録事参軍を授かる。

張玄素――太宗との問答と洛陽宮建設の諫止

  • 太宗が即位し政道を問うと、隋室喪乱の甚だしさは君主の専断と法の乱れにあると答え、君臣が互いに諫め合う体制を説いた。太宗はこれを称賛し侍御史に抜擢、まもなく給事中に遷る。
  • 貞觀四年(630年)、洛陽宮乾陽殿の修築(巡幸準備)が計画された際、上書して五つの不可を論じた。(1)諸王が出籓し営構が増えており民を疲弊させる、(2)かつて東都の高楼を撤毀させ天下に称賛されたのに再び雕麗を襲うのは矛盾する、(3)巡幸の時期も定まらぬ中の虚費、(4)民の生計がまだ回復していない、(5)漢高祖が洛陽ではなく関内を都とした先例、を挙げ、隋の乾陽殿建設(豫章から巨木を運び二千人で一柱を曳く難工事)の轍を踏めば煬帝以上の害になると警告した。
  • 太宗が「私は煬帝より劣るか、桀・紂と比べてどうか」と問うと、張玄素は「この殿が成れば同じく乱に帰す」と答え、太宗は「思慮が足りなかった」と嘆じ、房玄齢に工事の停止を命じた。太宗は張玄素の忠直を賞し彩二百匹を賜い、侍中魏徴も「張公の論事は回天の力あり」と称賛した。太子少詹事に累遷し右庶子に転じる。

張玄素――皇太子李承乾への諫言

  • 皇太子李承乾が春宮にあって遊猟に耽り学業を廃していたことに対し、古の三驅の礼や傅説の言(「学不師古、匪説攸聞」)を引き、孔穎達らの侍講を活かし学問に励むよう諫めた。太子少詹事を兼ねる。
  • 十三年(639年)、周公の謙虚さや皇太子の入学齒胄の礼の意義を説き、孔穎達・趙弘智ら碩儒との侍講を重んじ、騎射畋游・酣歌戲玩に耽らぬよう諫めた。李承乾は聞き入れなかった。
  • 太宗は張玄素の頻繁な諫言を評価し、十四年(640年)銀青光禄大夫・太子左庶子に抜擢。李承乾が長く朝に出ないことを諫めた際、承乾は諫言を嫌い戸奴に夜間馬撾で打たせ、危うく死にかけた。また宮中で鼓を鳴らした際も張玄素は閣を叩いて切諫し、承乾は鼓を毀して見せた。
  • この年、太宗が朝廷で張玄素の前歴(刑部令史出身)を問うたことで恥辱を受けた際、諫議大夫褚遂良が「君は臣に戯言すべきでない、宋孝武帝が軽言で朝臣を弄んだ悪例を挙げ、陛下の問いが張玄素を辱めた」と上疏、太宗は「私もこの問いを悔いていた」と応じた。
  • 承乾の乱行が増す中、張玄素は再び上疏。北周太子贇の放蕩と隋文帝への交代、隋の楊勇太子の驕奢と廃立の例を引き、承乾が六旬の間に七万を超える浪費をし、正士を遠ざけ邪佞な者を近づけていることを憂慮し、右庶子趙弘智との対話を求めたが取り合われなかったことも述べ、居安思危を諭した。

張玄素――晩年

  • 上書は容れられず、承乾は刺客を放って害しようとした。まもなく承乾の廃位に伴い、張玄素も例により免官された。十八年(644年)、潮州刺史に起用され鄧州刺史に転じる。永徽中、老齢により致仕。竜朔三年(663年)、銀青光禄大夫を加えられる。麟徳元年(664年)卒す。

史論

  • 孫伏伽は高祖に、張玄素は太宗に、いずれも卑賤の身から至尊に切直な諫言を尽くし顧遇を得た。忠誠が上聴に通じたからこそ実現できたことであり、『書』の「木は縄に従えば正しく、君主は諫めに従えば聖となる」との言葉がまさに当てはまる、と評される。蘇世長は幼くして聡悟、長じて能く規諫し、韋雲起は朋党を排し驕豪を憚らず、いずれも見るべき行実があった。ただし韋雲起は最期に処し方を誤り、蘇世長も詭詐で世評を招いたことは惜しまれ、この点で孫伏伽・張玄素の二人には及ばないと評される。
  • 賛:言は身の飾りであり、義に感じて身を忘れるものである。忠胆なくして誰が逆鱗を犯せようか。蘇世長・韋雲起は果断で優れ、孫伏伽・張玄素は忠純であった。主君を悟らせ過失を匡すのは、まさに諍臣の徳である。