舊唐書卷七十 列傳第二十 杜正倫

出自と諫言

  • 杜正倫、相州洹水の人。隋仁壽中、兄正玄・正藏と共に秀才に挙げられた。隋代の秀才は十余人に過ぎず、一家から三秀才を出したことは当時大いに称賛された。文をよくし釈典に深く通じた。隋の羽騎尉として仕え、武德中、齊州總管府錄事參軍を歴任。太宗はその名を聞き秦府文學館に直させた。
  • 貞觀元(627)年、尚書右丞魏徵が正倫を推挙し古今に類なしと称し兵部員外郎に抜擢された。太宗は「今行能の人を挙げるのは私が独りその者を私するのではなく民に益するため、宗親や勲旧でも行能なき者は用いない、卿の忠直を以て挙げる、それに応えよ」と述べた。貞觀二(628)年、給事中・知起居注を兼ねた。太宗が「毎日朝廷で発言する前に民に利益があるか考えるので多言はしない」と語ると、正倫は「君の挙は必ず記録され左右史に留まる、一言が道理に外れれば千載にわたり聖德に累が及ぶ、陛下は慎むべき」と進言し、太宗は大いに喜び絹二百段を賜った。
  • 貞觀四(630)年、中書侍郎に累遷。貞觀六(632)年、御史大夫韋挺・秘書少監虞世南・著作郎姚思廉らと共に上呈した封事が太宗の意に適い、太宗は宴を設け「古来の忠臣も龍逢・比干のように誅戮を免れなかった、君主も臣も共に難しい、龍にも逆鱗があり触れれば人を殺す、君主にも逆鱗があるが卿らはそれを避けず封事を進めた」と述べ帛を賜った。まもなく散騎常侍・行太子右庶子・崇賢館學士を加えた。太宗は「国の儲副は古来重んじられる、太子はまだ幼く志が定まらないので朝夕会えぬ分、卿の貞愨を見込んで太子を匡すよう委ねる」と述べた。

太子承乾との関わりと晩年

  • 貞觀十(636)年、再び中書侍郎、南陽縣侯に叙され太子左庶子を兼ねた。両宮を出入りし機密に参与し、干理の才で称された。太子承乾が足疾で朝謁できず小人と親しむのを憂い、太宗が正倫に「太子の疾病は仕方ないが、賢を愛し善を好むという評判が全くない、私が引接する者の多くが小人だ、卿は察して教え、改まらなければ知らせよ」と述べた。正倫は諫めても聞かれず太宗の言葉をそのまま承乾に告げると、承乾は抗表して奏聞し、太宗は「なぜ私の言葉を漏らしたのか」と問い、正倫は「開導しても入らないので陛下の言葉で威嚇し、あるいは畏れて反省するかと思った」と答えたが、太宗は怒り谷州刺史に、さらに交州都督に左遷した。
  • 後に承乾の謀反が発覚し侯君集との関わりで、君集が金帶を正倫に贈ったとされ、驩州に配流された。顯慶元(656)年、黃門侍郎・崇賢館學士を経て同中書門下三品。同二(657)年、度支尚書を兼ね知政事は元通り。まもなく中書令、太子賓客・弘文館學士を兼ね襄陽縣公に進封。同三(658)年、中書令李義府との不和で橫州刺史に左遷され封邑も削られた。まもなく卒去。文集十巻が世に伝わる。

史論

  • 史臣曰く。王珪は正道を貫き忠誠比類なく、君臣の巡り合わせがここに集約された。《易》の「天より之を祐く、吉にして利あらざる無し」はまさに叔玠(王珪の字)を指す。戴冑は両朝に仕え心力を尽くし、刑を濫用せず事を諫めた。学識は十全でなくとも匡益は時を済うに足り、これも大任を担う巧みさである。岑文本は文才海の如く忠は雪霜を貫き、父の冤を雪ぎ明主の業を助けたが、繁劇を任されるとまもなく突然逝った。《書》に「小心翼翼、上帝に昭事す」とあるが、憂いが人を傷つけ長生きできなかったということであろう。羲以下、清要に登った者数十人に及ぶ。積善の道は軽んじてよいものではない。杜正倫は文才で挙げられ直道で任され機密に参与し両宮を出入りし、時を得たと言える。しかし承乾の金帶の疑いを受けたことは、かの薏苡の謗り(後漢馬援の故事、無実の疑い)に似て、士大夫は慎むべきである。
  • 贊にいう。五霊嘉瑞は盛衰と共に現れる。人中の麟鳳、王珪・戴冑ら諸公。動けば必ず礼に由り、言えば皆身を正す。規を献じ諫を納れる、これぞ貞觀の風である。