舊唐書卷六十九 高士廉・長孫無忌

高士廉――出自と隋末の経歴

  • 高儉、字は士廉。渤海蓚の人。曾祖の飛雀は後魏の贈太尉。祖父の岳は北齊の侍中・左僕射・太尉・清河王。父の勵、字は敬德は北齊の樂安王・尚書左僕射・隋の洮州刺史。
  • 若くして器量あり、文史に通じた。隋の司隸大夫薛道衡・起居舍人崔祖浚が先達として称え、忘年の交わりを結び、公卿の間で評判が高まった。大業年間に治禮郎となる。
  • 妹は隋の右驍衛將軍長孫晟に嫁ぎ、無忌および女(後の文德皇后)を生んだ。晟の死後、士廉は妹と甥を自邸に迎え、太宗がまだ潜龍であった頃にただならぬ人物と見抜き、晟の娘を娶らせた。
  • 隋の遼東遠征の際、兵部尚書斛斯政が高麗に亡命した事件に連座し、士廉は硃鳶主簿に左遷された。嶺南の瘴癘を避け、妻の鮮于氏を留めて父母に仕えさせ、妹の生活のため大宅を売って小宅を買い与えた。
  • 天下大乱の中、交趾太守丘和が士廉を司法書佐に任じた。母を思う情に篤く、夢に母を見た翌日に母の消息を得たという孝行の逸話がある。
  • 欽州の寧長真が丘和を攻めた際、士廉は「長真の軍勢は遠征で疲弊しており持久できない」と進言し、行軍司馬として水陸から反撃し撃破、寧長真は単身で逃れた。
  • 蕭銑滅亡後、高祖の命で嶺南を平定。武德五(622)年、丘和とともに帰順を上表し、雍州治中に累遷。太宗が雍州牧であった時、文德皇后の舅として厚遇された。
  • 隱太子誅殺の密謀に甥の長孫無忌とともに参画し、六月四日(玄武門の変、626年)には獄囚を釈放して武装させ芳林門に馳せつけ太宗に合流した。太宗の東宮即位後、太子右庶子を拝命。

高士廉――貞觀朝の事績

  • 貞觀元(627)年、侍中に抜擢、義興郡公に封ぜられ実封九百戶を賜る。密表の扱いで王珪の件に連座し安州都督に左遷、のち益州大都督府長史に転任。
  • 蜀の風俗(病人を親しく看護せず杖の先に食を掛けて遠くから与える等)を教化で改めた。李冰が創始した汶江の灌漑水利が富家に独占されていたのを別途疏通させ、蜀に大きな利益をもたらした。学校・儒学講論を興し、蜀中の学問が再興した。
  • 蜀人の隱者硃桃椎の逸話――竇軌の招きにも応じず、士廉が礼をもって遇しても口を開かず、ただ視て去るのみだった。士廉は近代に軽んじられがちな隠逸を厚く遇し、蜀中で美談となった。
  • 貞觀五(631)年、吏部尚書に入り、許國公に進封、一子を縣公とした。人物鑑定に優れ、任用は概ね適材適所であった。高祖崩御の際、司空を代行し山陵の造営を統轄、特進・上柱國を加えられた。
  • 山東の士人が没落した旧家を誇り婚姻に多額の聘財を求める風潮を太宗が嫌い、士廉・韋挺・岑文本・令狐德棻らに命じて姓氏を刊正させた。天下の譜牒を集め史伝と照合して真偽を糺し、《氏族志》を撰した。士廉が等第を分けて進上した際、太宗は崔・盧・李・鄭が没落してなお高慢に聘財を求めることを批判し、当代の官爵の高下で等級を定めるべきと述べ、崔干を第三等とさせた。全百巻が成り、天下に頒布された。
  • のち同中書門下三品。貞觀十二(638)年、長孫無忌らとともに佐命の功で刺史世襲を授けられ申國公とされ、尚書右僕射を拝命。表奏の草稿は成すたびに焼き捨て、他人に知らせなかった。
  • 太子少師を摂し選挙を掌る。貞觀十六(642)年、開府儀同三司を加えられ、致仕を請うたが尚書右僕射のみ解かれ、開府儀同三司のまま平章事を続けた。魏徵らと《文思博要》一千二百巻を撰進。貞觀十七(643)年二月、凌煙閣に肖像を図せられる。
  • 貞觀十九(645)年、太宗の高麗親征に際し皇太子が定州で監国し、士廉は太子太傅を摂して朝政を統轄。皇太子は敬意を表し別席を設けたが、士廉は固辞した。
  • 貞觀二十(646)年、病を得て太宗が邸を見舞い、生涯を語り合って涙した。貞觀二十一(647)年正月壬辰、京師崇仁里の私邸で薨去、享年七十二。
  • 太宗が自ら弔問に赴こうとしたのを房玄齡が薬石服用中は喪に臨むべきでないと諫めたが太宗は聞かず、長孫無忌が馬前で泣訴し(士廉の遺言を伝え)、ようやく還宮した。司徒・并州都督を贈られ昭陵に陪葬、諡は文獻。
  • 六子は履行・至行・純行・真行・審行・慎行。柩が橫橋を出た際、太宗は故城西北楼に登って望み慟哭した。高宗即位後、太尉を追贈され房玄齡・屈突通とともに太宗廟庭に配享された。

子 履行

  • 履行は貞觀初め祠部郎中を歴任。母の喪に哀毀甚だしく、太宗が「毀不滅性」と諭した。服喪後、滑州刺史に累遷。太宗の娘東陽公主を娶り駙馬都尉。
  • 貞觀十九(645)年、戶部侍郎・銀青光祿大夫。父の喪でも孝行が篤く、太宗が手詔で摂食を促した。のち衛尉卿、金紫光祿大夫、申國公襲爵。
  • 永徽元(650)年、戶部尚書・檢校太子詹事・太常卿。顯慶元(656)年、益州大都督府長史に出た(父士廉もこの職で治績を残していた)。
  • 顯慶三(658)年、長孫無忌の親族として連座し洪州都督に左遷、のち永州刺史に転じて官にて没した。

弟 真行

  • 履行の弟真行は右衛將軍まで至った。その子で典膳丞の岐が章懷太子との陰謀に連座し発覚した際、詔により真行に懲戒を委ねられると、真行は自ら手にかけて殺し、屍を路上に棄てた。高宗はこれを卑しみ、真行を睦州刺史に貶し、そこで没した。

長孫無忌――出自と太宗擁立への功

  • 長孫無忌、字は輔機。河南洛陽の人。祖先は後魏獻文帝の第三兄に出て、もと拓拔氏。宗室の長として跋氏、のち長孫氏を名乗った。
  • 七世祖道生は後魏司空・上黨靖王、六世祖旃は後魏特進・上黨齊王、五世祖觀は後魏司徒・上黨定王、高祖稚は西魏太保・馮翊文宣王、曾祖子裕は西魏衛尉卿・平原郡公、祖光は周開府儀同三司・平原公襲爵、父晟は隋右驍衛將軍。
  • 貴戚として学問を好み文史に通じた。妹は文德皇后。若くして太宗と親交を結び、義軍が黄河を渡った際に長春宮で謁見し渭北道行軍典簽を授かった。太宗の征討にしばしば従い比部郎中を歴任、上黨縣公に封ぜられた。
  • 武德九(626)年、隱太子建成・齊王元吉の謀に対し無忌は太宗に先手を進言。房玄齡・杜如晦らと密謀し、六月四日、尉遲敬德・侯君集・張公謹・劉師立・公孫武達・獨孤彥雲・杜君綽・鄭仁泰・李孟嘗ら九人とともに玄武門で建成・元吉を討った(玄武門の変、626年)。太宗の東宮即位後、太子左庶子。即位後、左武候大將軍に遷る。
  • 貞觀元(627)年、吏部尚書に転じ、功第一として齊國公に進封、実封千三百戶。太宗は無忌を佐命の元勲・外戚として厚遇し、内殿への出入りを常に許した。その年、尚書右僕射を拝命。
  • 突厥頡利可汗との和議の後、群臣が攻取を論じた際、太宗が蕭瑀・無忌に問うと、蕭瑀は「弱きを兼ね昧きを攻めよ」と説き、無忌は「今は兵を収め、彼の侵寇を待って討つべき」と説き、太宗は無忌の議に従った。突厥はのち政衰えて滅んだ。

長孫無忌――外戚として重んじられる

  • 無忌の権寵過剰を非難する密表があったが、太宗はこれを無忌に示し「君臣に疑いなし」と述べ、百僚に「無忌は自分の子同然」と語った。無忌は満を戒め機密の任を懇辞し、文德皇后も陳請したため、太宗は開府儀同三司を授け尚書右僕射を解いた。
  • 貞觀五(631)年、房玄齡・杜如晦・尉遲敬德とともに元勳として各一子を郡公に封ぜられる。貞觀七(633)年十月、司空を冊拝されたが固辞、太宗は外戚の私を避けたい無忌に対し「才行によって授けたもの」と諭し、《威鳳賦》を賜って佐命の功を称えた(賦の内容は威鳳の受難と再起を寓意する長大な韻文であり、要旨は無忌の忠誠と苦難を称える寓意詩)。

長孫無忌――諸功臣の刺史世襲と辞退

  • 貞觀十一(637)年、無忌ら功臣に刺史の世襲を命じる詔が下り、無忌は趙州刺史・趙國公、房玄齡は宋州刺史・梁國公、杜如晦(贈)は密州刺史・萊國公、李靖は濮州刺史・衛國公、高士廉は申州刺史・申國公、侯君集は陳州刺史・陳國公、李道宗は鄂州刺史・江夏郡王、李孝恭は觀州刺史・河間郡王、尉遲敬德は宣州刺史・鄂國公、李勣は蘄州刺史・英國公、段志玄は金州刺史・褒國公、程知節は普州刺史・盧國公、劉弘基は朗州刺史・夔國公、張亮は澧州刺史・鄖國公にそれぞれ改封され、子孫世襲とされた。
  • 無忌らは「披荊斬棘して陛下に仕えたのに、天下太平の今、外州に世襲するのは流謫に等しい」と反対し、房玄齡と連名で上表。四つの不可(史書の誹りを招く、才が伴わない、幼子が職を嗣ぐ弊害、民に累が及ぶ)を挙げて辞退を願った。太宗はやむを得ず取りやめた。
  • 貞觀十二(638)年、太宗が無忌の邸を訪れ親族に賜物。貞觀十六(642)年、司徒を冊拝。貞觀十七(643)年、無忌ら二十四人を凌煙閣に図画するよう詔が下った。図画された者は無忌(趙國公)、李孝恭(河間元王)、杜如晦(萊國成公)、魏徵(鄭國文貞公)、房玄齡(梁國公)、高士廉(申國公)、尉遲敬德(鄂國公)、李靖(衛國公)、蕭瑀(宋國公)、段志玄(褒忠壯公)、劉弘基(夔國公)、屈突通(蔣忠公)、殷開山(鄖節公)、柴紹(譙襄公)、長孫順德(邳襄公)、張亮(鄖國公)、侯君集(陳國公)、張公謹(郯襄公)、程知節(盧國公)、虞世南(永興文懿公)、劉政會(渝襄公)、唐儉(莒國公)、李勣(英國公)、秦叔寶(胡壯公)の二十四名である。

長孫無忌――晉王擁立と太宗末年

  • 太子承乾が罪を得た際、太宗が晉王を立てようとしつつ迷い、両儀殿で無忌・房玄齡・李勣のみを残して自刺しようとする挙に出た。無忌らが佩刀を取り上げ、無忌は「晉王擁立に異議ある者は斬る」と奏し、擁立が定まった。無忌は太子太師を加授された。
  • のち太宗が吳王恪を立てようとした際も無忌が密かに諫めて止めさせた。
  • 太宗が「主賢なれば臣は直言する」と群臣に諫言を求めた際、無忌は「陛下に過失なし」と答えたが、太宗はさらに求め、無忌以下諸臣の得失を論評した(無忌は嫌疑を避けるに巧みだが軍事の才には欠けると評された、高士廉は臨難に節を変えず朋党もないが骨鯁の諫言に欠ける、唐儉は言辞巧みだが三十年仕えて国事の得失を一言も論じない、楊師道は善良だが怯懦で緊急時に頼りない、岑文本は文章に長じるが議論は経遠に依る、劉洎は堅貞だが友人への諾を重んじすぎる、馬周は敏速で正直、褚遂良は学問堅正で忠誠篤いと評された)。
  • 貞觀十九(645)年、太宗の高麗親征時、無忌は侍中を摂した。帰還後、太子太師の辞任を許された。貞觀二十一(647)年、揚州都督を遙領。貞觀二十三(649)年、太宗の病篤きに際し無忌と褚遂良が輔政の遺命を受けた。太宗は褚遂良に「無忌の忠誠は篤く、天下を得たのはこの人の力による、讒言で無忌を損なわせるな」と告げた。

長孫無忌――高宗朝と武后立后への反対

  • 高宗即位後、太尉に進み揚州都督を兼ね、尚書・門下二省の事を知る。尚書省事は固辞して許された。永徽二(651)年、監修國史。
  • 高宗が上疏の質を問うた際、無忌は「陛下の政化は行き届き、上疏に採るべきものが少ないのは当然」と答え、また官司の情実についても「阿私は古来免れがたいが陛下の教化の下で概ね公である」と述べた。
  • 翌年、旱により辞職を上疏したが高宗は許さなかった。永徽五(654)年、高宗が親しく無忌邸を訪れ三子を朝散大夫に擢授、無忌の肖像を画かせ賛を自ら作って賜った。
  • 永徽六(655)年、高宗が昭儀武氏(武則天)を皇后に立てようとした際、無忌はしばしば不可と諫めた。帝は密かに金銀宝器一車・綾錦十車を賜って懐柔しようとし、武氏の母楊氏も自ら邸を訪れ懇請、礼部尚書許敬宗も勧めたが、無忌は厳しく退けた。帝が無忌・于志寧・褚遂良を召して意向を問うた際、無忌は「先朝が褚遂良に付託した、陛下は遂良に可否を問うべき」と答え、結局帝は無忌らの言に従わず武氏を皇后に立てた。皇后は無忌が先に厚賞を受けながら自分を助けなかったことを深く恨んだ。
  • 顯慶元(656)年、無忌は令狐德棻とともに武德・貞觀二朝の史(八十巻)を編み表上、監領の功で賜物二千段、子の潤を金城縣子に封ぜられた。
  • 顯慶四(659)年、中書令許敬宗が監察御史李巢と無忌の謀反交通を上封し、高宗は敬宗と辛茂將に鞫問させた。敬宗は無忌謀反の端を強く主張し、帝は嘆きつつ処罰に躊躇した。敬宗は漢文帝が舅薄昭を殺した先例を引き早期の決断を促した。帝は結局無忌に直接問うことなく敬宗の誣構の説を信じ、無忌の官爵を除いて黔州に流し、子の駙馬都尉沖ら(秘書監)も除名し嶺外に流した。
  • 敬宗は李義府とともに大理正袁公瑜を黔州に派遣し無忌を再鞫し、公瑜は無忌を自縊させて死に至らしめ、家産を没収した。無忌は大功ある身でありながら罪なくして死に、天下は今なおこれを哀れむ。
  • 上元元(674)年、無忌の官爵追復の優詔が下り、無忌の孫延に齊獻公の祀を主らせた。無忌の従父兄安世は王世充に仕え内史令となり、東都平定後に獄中で死んだ。安世の子祥は文德皇后の近属として刑部尚書を歴任したが、無忌と書を通じたことで連座して殺された。

史論

  • 高士廉は才望もとより高く、節操に瑕なく、君臣の義を全うし子孫の継承を図った功臣であった。しかし子の真行が自らその子を手刃した凶事は、積善の道が必ずしも報われぬ例として惑わされる。
  • 長孫無忌は戚里の名家に生まれ人傑として太宗の擁立と社稷の安定に力を尽くし、功勲は終始変わらなかった。しかし武后廃立に阿らず先帝の遺託に応えた結果、許敬宗の誣構によって罪に落とされた。忠信にして罪を得ることは古今免れがたく、無実にして族を滅ぼされたことは何の咎あってか。主が暗く臣が奸なることは後代への戒めとするに足る。