出自と隋末の経歴
- 秦叔寶、名は瓊、齊州歷城の人。大業中、隋將來護兒の帳内であった。母の喪に護兒が弔問使を遣わすと、軍吏は普段そうしないのになぜかと問い、護兒は「此人は勇悍で志節があり必ず自ら富貴を取る器、卑賤に扱うべきでない」と答えた。
- 隋末群盜蜂起の際、通守張須陀に従い賊帥盧明月を下邳に撃った。賊衆十余萬に対し須陀の兵はわずか万人、対峙十余日で糧尽き退こうとした際、叔寶と羅士信が志願して営を襲う奇計を実行。柵門を越えて旗を抜き、火を放って三十余の柵を焼いた。明月は数百騎で逃げ、余は虜とされた。この功で勇名が広まった。
- 海曲で孫宣雅を先登して破り、建節尉を授けられた。須陀に従い滎陽で李密を撃つが敗れ須陀は戦死、叔寶は残兵をもって裴仁基に附いた。仁基が武牢で李密に降ると密は叔寶を厚遇し帳內驃騎とした。
- 密が宇文化及と黎陽童山で大戦した際、密は流矢に当たり落馬悶絶、左右は逃げ散ったが叔寶独り護衛して密を救った。密が敗れた後は王世充に得られ龍驤大將軍に署された。世充の多詐を嫌い、九曲での戦の際、程咬金・呉黑闥・牛進達ら数十騎とともに西へ馳せ、世充に別れを告げて降った。
- 高祖の命で秦府に仕え、太宗はその勇を厚遇。長春宮鎮守に従い馬軍總管を拝した。美良川で尉遲敬德を破る戦で功最も多く、高祖は金瓶を賜り「卿は妻子を顧みず遠く我に投じ功を立てた、朕の肉さえ用いるべきなら割いて卿に賜ろう」と労った。秦王右三統軍を授かる。
- 宋金剛討伐(介休)、王世充討伐(毎に前鋒)、竇建德を武牢で拒ぐ戦(精騎数十で陣を陥す)、劉黑闥討伐に従い、翼國公に進封、黃金百斤・帛七千段などを賜った。太宗は敵陣で炫耀する驍將を見ると叔寶に取らせ、叔寶は単騎で万衆の中を刺し貫き、この功で自らも矜持を持つに至った。
玄武門の変とその後
- 六月四日、建成・元吉討伐に従い、事定まって左武衞大將軍・食實封七百戸を拝した。
- のち多病となり「若くして戎馬に長じ経た戦二百余陣、重傷を屢々受け出血も数斛に及んだ、病まぬはずがない」と人に語った。貞觀十二年に卒し徐州都督を贈られ昭陵に陪葬。太宗は特に墓域に石人馬を立てさせ戦功を表した。十三年、胡國公に改封。十七年、長孫無忌らと凌煙閣に図形された。