舊唐書卷六十三 屈突通・任瑰・丘和・許紹・李襲志・姜抃

屈突通――出自と隋朝での気骨

  • 屈突通は雍州長安の人。父は長卿、北周の邛州刺史。
  • 性は剛毅で忠実、身持ちは清廉、武略を好み騎射に優れた。
  • 開皇年間、親衛大都督となり、隴西の牧場を検分し隠匿された馬二万余匹を摘発した。文帝が太僕卿慕容悉達ら監督官千五百人を斬ろうとした際、屈突通は「人命は至重、死は再生せず、畜産のことで千余人を殺すのはあまりに酷い」と命懸けで諫め、文帝を翻意させた。悉達らは減死となった。
  • 右武候車騎将軍に抜擢され、公正で親戚の犯法も容赦しなかった。弟の屈突蓋も長安令として厳格で知られ、当時「寧食三斗艾、不見屈突蓋、寧服三斗蔥、不逢屈突通」と語られた。
  • 文帝崩御後、煬帝は屈突通に詔を持たせ漢王楊諒を征させた。文帝と楊諒の間に璽書の印に一点を加える密約があったが、書には験がなく、楊諒の詰問にも屈せず長安に帰った。
  • 大業年間、左驍衛大将軍に転じ、関内討捕大使となる。安定の劉迦論が雕陰郡に拠って反乱し十余万衆を集め、稽胡の劉鷂子も呼応した。屈突通は偽って旋師を装い上郡に潜入、迦論の不備を突いて夜襲し、迦論と首級一万余を斬り、上郡南山に京観を築き、男女数万口を虜にした。

屈突通――隋末の敗戦と唐への降伏

  • 煬帝が江都に行幸すると屈突通は長安鎮守を命じられ、代王が屈突通を河東に進屯させた。義兵が河を渡り、屈突通の将桑顕和を飲馬泉で大破、永豊倉も義師に奪われた。
  • 屈突通は堯君素を河東に残し、自らは武関から藍田を経て長安に赴こうとしたが、潼関で劉文静に阻まれ月余対峙した。桑顕和の夜襲も失敗し、文静に降った。
  • 竇琮・段志玄らが桑顕和とともに屈突通を稠桑で追撃。屈突通は子の屈突壽の説得にも「昔は父子、今は仇讎」と叫び射させたが、桑顕和が「京師陥落、汝ら関西人はどこへ行くのか」と呼びかけると衆は武器を捨てた。屈突通は東南に向かい号泣し「臣力尽き兵敗れたるも陛下に背かず」と唐に降った。
  • 高祖は「隋室の忠臣なり」と釈放し、兵部尚書・蔣国公に封じ、太宗の行軍元帥長史とした。

屈突通――唐初の功績と晩年

  • 薛挙討伐に従い、珍物山積の中で独り私せず、高祖に金銀六百両・彩物千段を賜った。
  • 王世充討伐で二子が洛陽にいたが「両児死すとも国事を先とする」と述べ、高祖を感嘆させた。世充平定後、功第一で陝東大行台右僕射・洛陽鎮守。刑部尚書は固辞し工部尚書に転じた。
  • 隠太子誅殺の際、再び行台僕射を検校し洛陽に馳せ鎮した。貞観元年、行台廃止で洛州都督、実封六百戸、左光禄大夫加増。翌年卒、年七十二。尚書右僕射を追贈、謚は忠。
  • 子の屈突壽が爵を襲い、少子の屈突詮は果毅都尉となった。貞観十七年、凌煙閣に図形。二十三年、房玄齢とともに太宗廟庭に配饗。永徽五年、重ねて司空を追贈。詮の子仲翔は神龍年間に瀛州刺史となった。

任瑰――出自と隋末の官歴

  • 任瑰は字瑋、廬州合肥の人。陳の鎮東大将軍任蛮奴の弟の子。父七宝は陳の定遠太守。
  • 早くに孤児となり蛮奴に養われた。十九歳で霊渓令を試守、のち衡州司馬に転じ都督王勇に重んじられた。隋が陳を滅ぼすと嶺南拠地を勧めたが用いられず、官を棄てた。仁寿年間、韓城尉となるも罷職。

任瑰――高祖への献策と関中平定

  • 高祖の汾晋討捕の際に謁見し河東県戸曹となる。高祖挙兵の折、龍門で謁見し関中平定策を献策(梁山渡河・韓城攻略・合陽進撃・朝邑分取など)。高祖はこれを採用し銀青光禄大夫を授け、陳演壽・史大奈に歩騎六千を率いさせ梁山を渡らせ、任瑰・薛献を招慰大使とした。
  • 孫華・白玄度らが降り、韓城県を説き下し、飲馬泉で敵を破り左光禄大夫を拝し永豊倉を留守した。

任瑰――唐初の官歴と晩年

  • 高祖即位後、谷州刺史。王世充の新安攻撃を退け、功により管国公に累封。太宗の王世充討伐に従い邙山まで至り水運を検校。河南道安撫大使となり世充弟の王辯の投降を受けた。
  • 徐円朗の反乱に際し、副使柳浚の諫言を退け、崔樞・張公謹に虞城を守らせた。崔樞が反乱の質子を斬った件で任瑰は表向き怒ったが内心これを是とし、徐円朗を撃退。事平定後、徐州総管、大使を兼ねた。
  • 官吏選任で私情が入り、また妻劉氏の悍婦ぶりで世に譏られた。輔公祏平定後、邢州都督。隠太子誅殺の際、弟の任璨(典膳監)に連座し通州都督に左遷。貞観三年卒。

丘和――出自と隋官歴

  • 丘和は河南洛陽の人。父丘壽は魏の鎮東将軍。若くして弓馬に優れ気任侠、無貴賤に愛された。北周で開府儀同三司、入隋後は右武衛将軍・平城郡公。
  • 漢王楊諒の反乱に際し蒲州刺史として脱出、除名。宇文述に取り入り代州刺史となり、煬帝に食事を献じて評価され博陵太守、のち天水郡守。
  • 大業末、海南が乱れたため裴矩の推薦で交趾太守となり、諸豪傑を撫し蛮夷の心を得た。

丘和――隋末の南方情勢と唐への帰順

  • 煬帝が宇文化及に弑されると、寧長真は蕭銑に、馮盎は林士弘に附いたが、丘和は当初どちらにも従わなかった。林邑西方諸国が明珠・文犀・金宝を贈り王者に等しい富を得た。蕭銑がこれを狙い寧長真に百越の兵で丘和を攻めさせたが、高士廉が撃退した。
  • のち隋滅亡を知った驍果たちにより州は蕭銑に従った。蕭銑平定後、丘和は海南の地を挙げて唐に帰し、上柱国・譚国公・交州総管を授けられた。子の丘師利が迎え、高祖は九部楽を奏して饗し左武候大将軍を拝した。
  • 老いたため稷州刺史(本郷)となり自ら怡養、九年特進。貞観十一年卒、年八十六。荊州総管を追贈、謚は襄。陪葬は献陵。子十五人のうち丘行恭が最も知られた。

丘和――子 丘行恭

  • 丘行恭は騎射に優れ勇敢絶倫。大業末、兄丘師利と岐・雍間に兵を集め一万衆で故郿城を保ち、群盗を寄せ付けなかった。
  • 原州の奴賊数万が扶風を囲んだ際、投降者を得て自ら賊営に赴き、酋帥を斬り衆を帰順させた。師利とともに渭北で太宗に謁見し光禄大夫。
  • 京城平定・薛挙・劉武周・王世充・竇建徳討伐に従い殊勲、左一府驃騎を授かる。隠太子誅殺で左衛将軍。貞観中、実母の埋葬を巡り嫡兄と争い法司に劾せられ除名。侯君集の高昌平定に従い天水郡公に封じ右武候将軍を歴任。
  • 高宗即位後、右武侯大将軍・冀陝二州刺史を歴任。致仕を請い光禄大夫。麟徳二年卒、年八十。荊州都督を追贈、謚は襄、温明秘器を賜り昭陵に陪葬。
  • 王世充討伐の邙山戦で太宗の後を独り従い、太宗の乗馬が矢を受けた際、丘行恭は騎馬で矢を射返し矢は必ず命中、下馬して矢を抜き自分の馬を太宗に進上、太宗の馬前で長刀を執り数人を斬り陣を突破した。貞観中、詔でこの拔箭の姿を石人馬に刻み昭陵闕前に立てた。

丘和――孫 丘神勣と少子 丘行掩

  • 子の丘神勣は嗣聖元年、左金吾将軍として則天の命で巴州に赴き章懐太子を害し、その罪を負わされ疊州刺史に左遷。のち左金吾衛大将軍に復し、周興・来俊臣らと並ぶ酷吏と称され、罪により誅された。神龍初、子孫は禁錮された。
  • 丘和の少子丘行掩は高宗の時、少府監となった。

許紹――出自と隋末の統治

  • 許紹は字嗣宗、本は高陽の人、梁末に周に移り安陸に家した。祖父許弘、父許法光は共に楚州刺史。高祖と幼少より同学の友。
  • 大業末、夷陵郡通守として郡境を保全し流民数十万口を招き、倉を開いて賑給した。江都の弑逆に大臨三日を行い、郡を越王侗に遙属させた。王世充篡位後、黔安・武陵・澧陽等の諸郡を率いて唐に帰した。硤州刺史・安陸郡公に封じられ、高祖より友情厚い勅書を賜った。

許紹――蕭銑との攻防と晩年

  • 蕭銑の将董景珍が長沙で降ると許紹はこれに応じた。蕭銑を破った功で子の許智仁が温州刺史となり招慰を委ねられた。蕭銑の将楊道生の硤州包囲を撃退。
  • 蕭銑の将陳普環が大艦で硤に入り蕭闍提と巴蜀を狙うと、許智仁・李弘節・張玄静が西陵硤で大破し陳普環を生擒。安蜀城・荊門城の攻略にも成功。高祖は制を下して褒美し便宜従事を許した。
  • 敵の捕虜には給養して帰し、賊もこれに感じ侵掠しなかった。趙郡王李孝恭の蕭銑討伐に従い荊州攻略を図る途中、軍中で卒した。高祖はこれを聞き涙を流した。貞観中、荊州都督を追贈。嫡孫の許力士が爵を襲い洛州長史に至った。

許紹――子 許欽寂

  • 万歳登封年間、夔州都督府長史。契丹入寇の際、龍山軍討撃副使を兼ね崇州で戦敗し捕らえられた。安東包囲の際に説降を命じられたが、都督裴玄珪に「狂賊は天殃、滅は朝夕にあり、公は謹んで守り忠節を全うせよ」と告げ、賊に殺された。
  • 則天は制を下して褒美し蘄州刺史を追贈、謚は忠。子の許輔乾は左監門衛中候・海東慰労使となり、開元中に光禄卿に至った。

許紹――子 許欽明

  • 欽寂の弟欽明は軍功により左玉鈐衛将軍・安西大都護、鹽山郡公。万歳通天元年、金紫光禄大夫・涼州都督。
  • 突厥の黙啜が数万で来襲した際に力尽きて捕らえられ、霊州城下で降伏を勧めさせられたが、大声で「醤二升、粱米二斗、墨一梃」を求め城中にこれを暗号として伝えようとしたが理解されず、間もなく殺された。兄弟同年に王事に死し人々に称された。

許紹――子 許智仁・少子 許圉師

  • 次子許智仁は父の勲により温州刺史・孝昌県公、のち硤州刺史、太僕少卿・涼州都督を歴任、貞観中卒。
  • 少子許圉師は器量あり文芸に博通、進士。顕慶二年、黄門侍郎・同中書門下三品、修国史を兼ねる。三年、実録編修の功で平恩県男に封じ物三百段を賜る。龍朔中、左相。子の許自然が狩猟で誤って人を射殺したのを隠したことと李義府の讒言により虔州刺史に左遷、のち相州刺史。清廉な詩を賜り贓吏を改心させたという寛厚な統治で知られた。上元中、戸部尚書。儀鳳四年卒、幽州都督を追贈、恭陵に陪葬、謚は簡。

李襲志――出自と隋末の郡城防衛

  • 李襲志は字重光、本は隴西狄道の人。五世祖の李景が安康に避地し金州安康人と称した。周の信州総管・安康郡公李遷哲の孫。父李敬猷は隋の台州刺史・安康郡公。
  • 隋で始安郡丞を任じた。大業末、江外の盗賊が甚だしく、家産を散じて三千人を募り郡城を守った。蕭銑・林士弘・曹武徹らの攻撃に長く固守。宇文化及の弑逆を聞くと士庶を集め三日の哀を挙げた。
  • 郡人が嶺表割拠を勧めたが「吾世々忠貞を樹て、危に見て命を授く」と拒み、勧めた者を斬ろうとしたが衆議で止めた。二年固守の末、蕭銑に陥落し工部尚書・検校桂州総管とされた。

李襲志――唐への帰順と晩年

  • 武徳初、高祖の子李玄嗣が書を持って招くと李襲志は嶺南首領・李光度と共に帰国を密議。高祖は間使を遣り宗族としての情誼を諭す書を送った。蕭銑平定後、江南道大使趙郡王李孝恭が李襲志を桂州総管とした。
  • 武徳五年入朝、柱国・始安郡公、江州都督。輔公祏の反乱を水軍総管として討平、桂州都督に転じた。桂州には前後二十八年在任し清簡な政治で嶺外を安んじた。のち入朝を請い右光禄大夫・行汾州刺史で致仕し、家で卒した。

李襲志――弟 李襲譽

  • 李襲譽は字茂実、聡敏で識度あり。隋末、冠軍府司兵として陰世師に永豊倉据点・粟の放出を説いたが用いられず、山南で募兵に赴いた。漢中で高祖の長安平定を知り太府少卿・安康郡公となり宗正に附籍。
  • 太宗の王世充討伐で潞州総管、突厥使を撃斬。のち光禄卿・浦州刺史、揚州大都督府長史・江南道巡察大使。江都の農桑不振に雷陂水・勾城塘を築き八百余頃を灌漑し民に利した。太府卿に召拝。
  • 性は厳整、俸禄は宗親に散じ、蓄えは書写に費やした。子孫に「近京の賜田十頃で食い、河内の桑千樹で衣し、江東の写本で官を求めよ」と訓じた。
  • 涼州都督・金紫光禄大夫・行同州刺史を歴任するも、涼州で番禾県丞劉武を杖殺した罪で除名・泉州に流され、間もなく卒した。『五経妙言』四十巻・『江東記』三十巻・『忠孝図』二十巻を撰した。

李襲志――兄子 李懷儼

  • 文才で知られ蘭台侍郎を歴任、四部書写の検校を命じられたが書に汚れがあり郢州刺史に左遷、のち礼部侍郎で卒した。

姜抃――出自と唐建国への貢献

  • 姜抃は秦州上邽の人。祖父姜真は北魏南秦州刺史、父姜景は周の梁州総管・建平郡公。
  • 大業末、晋陽長として高祖に器を認められ、「唐公は覇王の度あり撥乱の主となろう」と結納。大将軍府建立後、司功参軍として霍邑平定・絳郡攻略・河川渡河の軍統制に功。長道県公に封じられた。

姜抃――唐初の官歴

  • 薛挙討伐時、隴右安撫の便宜従事を任じられ竇軌と散関を出て河池・漢陽二郡を下したが、竇軌の軽敵により薛挙に敗れ、姜抃は召還され員外散騎常侍。
  • 薛仁杲平定後、秦州刺史(本州)を拝し、賊を帰順させ安んじた。隴州刺史に転じ、七年老疾で去職。貞観元年卒、岷州都督を追贈、謚は安。

姜抃――子 姜行本

  • 貞観中、将作大匠。九成宮・洛陽宮の造営を統括し功により厚賞。左屯衛将軍に転じ「飛騎」(五色袍の親衛騎兵)を統率。
  • 高昌の役で行軍副総管として伊州から先発、柳谷付近で班超の紀功碑を磨り消し新たな頌を刻んだ。侯君集とともに高昌を平定、璽書で称賛され金城郡公に進封、物百五十段・奴婢七十人を賜る。
  • 貞観十七年、太宗の高麗親征に反対したが従わず、行本は蓋牟城で流矢に当たり卒した。太宗は詩を賦して悼み、左衛大将軍・郕国公を追贈、謚は襄、昭陵に陪葬。

姜抃――孫 姜簡・姜晞

  • 子の姜簡が爵を襲い、永徽中、安北都護に至り卒した。簡の子姜晞は開元初、左散騎常侍。

姜抃――簡弟 姜柔遠

  • 容姿美しく上奏に長け、則天の時、左鷹揚衛将軍・通事舎人・内供奉に至った。

姜柔遠子 姜皎――玄宗との親密と要職

  • 長安中、尚衣奉御に累遷。籓邸時代の玄宗に見出され信任された。潤州長史をへて即位後、殿中少監に召され、玄宗の内寝に召され「姜七」と字で呼ばれるほど親愛され、宮女・名馬・珍物を賜った。
  • 竇懐貞らの逆謀討伐で協賛の功により殿中監・楚国公・実封四百戸。玄宗は敕を下し姜皎の忠節(中宗時代の讒言で潤州に左遷された経緯等)を詳述して褒揚した。

姜皎――弟 姜晦と権勢の抑制

  • 太常卿・監修国史に遷った後、弟姜晦も御史中丞・吏部侍郎となり兄弟当朝用事。侍中宋璟は権寵過盛を憂い抑制を奏し、開元五年の敕で姜皎を功臣として賞しつつ「放歸田園」を命じ、姜晦は宗正卿に転じさせ権を去らせた。

姜皎――失脚と死

  • のち秘書監に復した姜皎は開元十年、禁中の語を漏らした罪で嗣濮王李嶠に奏され、中書令張嘉貞(王守一の意を受けた)により罪を構成され杖決・欽州流に処された。行きて汝州で卒した、年五十余。
  • 姻戚の劉承祖も雷州に流され、他数人は流死した。時人は冤とし張嘉貞を咎めた。玄宗は旧勲を思い柩を戻させ礼葬、中使を遣り家を存問した。十五年、澤州刺史を追贈。姜晦も皎に連座し春州司馬に左遷、のち海州刺史で卒した。

姜皎――子 姜慶初

  • 天宝六載、慶初らに官を授け、七載、姜皎に吏部尚書・実封二百戸を追贈し享祀に充てた。慶初は楚国公を襲封。幼少で公主に嫁ぐ約束をされたが二十余年沈淪、李林甫(皎の甥)が奏し恩命を得た。天宝十載、新平公主に配され駙馬都尉。永泰元年、太常卿を拝した。

史論

  • 屈突通は隋に尽忠しながら唐で功を立て両朝で名を上げたのは、純誠を貫けば一心で百君に仕えられるからだと論じ、稠桑での捕虜となっても苟免せず、薛仁杲討伐の財に苟得しなかった君子ぶりを称える。
  • 任瑰・丘和・許紹・李襲志は皆真主に遇い、旧交を敘し功を立て、あるいは衆を率いて帰国した。李襲志の為政、李襲譽の子孫訓育は弘遠と評す。姜抃の恩信は能吏の誉れ、姜行本の勤勉は克敵の功多し。
  • 姜皎は旧交ながら恩幸が過分であり、張嘉貞に冤を着せられたとはいえ自ら寵を貪ったこと自体、無徳にして禄あれば禍が生ずる証しである。任瑰の妒妻無礼、親戚への財の融通、丘和の食を進めて幸を求めた行いは取るに足らない。

賛にいう。屈突通は節を守り、仁を求めて仁を得た。諸君は主に遇ったが、その徳は屈突通に及ばない。