舊唐書卷六十一 裴寂・劉文靜

太原挙兵を裏で支えた裴寂・劉文靜二人の合伝。裴寂は博奕を通じて高祖に近づき挙兵を促し、唐建国後は尚書右僕射・司空に至る栄達を遂げたが、晩年に妖言事件への連座で失脚した。劉文靜は太宗と挙兵を密議し軍事・外交で功を挙げたが、裴寂との軋轢から酒席の発言を反逆と断じられ処刑され、対照的な末路をたどった。

年表(10件)

裴寂――出自と太原での縁

  • 裴寂は字を玄真といい、蒲州桑泉の人。祖の融は司本大夫、父の瑜は絳州刺史。寂は幼くして父を失い兄達に養われ、十四歳で州主簿となった。成長すると眉目秀麗、姿容が偉であった。隋の開皇中、左親衛となる。
  • 家貧しく徒歩で京師に赴く途中、華岳廟に参って「窮困此に至る、もし富貴を期せるなら吉夢を賜え」と祈った。夜、白頭の翁が夢に現れ「卿は三十歳以後に志を得て、ついに人臣の極位に至るだろう」と告げた。のち斉州司戸、大業中に侍御史・駕部承務郎・晋陽宮副監を歴任した。
  • 高祖が太原留守となると旧知の縁で厚遇され、しばしば宴に招かれ博奕を共にし通宵連日に及んだ。太宗は挙兵を企図するも言い出せずにいたが、寂が高祖に厚遇されているのを見て私財数百万を出し、龍山令高斌廉を通じ寂と賭博をさせわざと負けさせた。寂は大喜びし太宗と親しく遊ぶうち太宗はその情を告げ、寂は承諾した。
  • 寂はまた晋陽宮人を密かに高祖に侍らせ、酒宴で「二郎(太宗)が密かに兵馬を纂め挙兵しようとしている、宮人を差し上げたのも事が露見して誅されるのを恐れてのこと。今天下大乱、城外は皆盗賊、小節を守れば旦夕に死し、義兵を挙げれば必ず天位を得る」と告げた。高祖は「我が子に既にその計画があるなら従おう」と応じた。

裴寂――挙兵と唐建国

  • 義兵蜂起にあたり寂は宮女五百人、米九万斛、雑彩五万段、甲四十万領を供出した。大将軍府建立で長史となり聞喜県公に封ぜられた。
  • 河東に至り屈突通の抵抗を攻めきれず、京師攻略を先にすべきか議論となった際、寂は蒲州を先に平定すべしと説き、太宗は速攻して関中に入るべしと反論、高祖は両論を容れ河東を囲みつつ関中に進軍した。京師平定後、良田千頃・甲第一区・物四万段を賜り大丞相府長史・魏国公・食邑三千戸となった。
  • 隋恭帝の譲位に際し高祖が固辞すると、寂は「桀紂の滅亡にも子はいたが湯武に輔けられた例はない、寂の茅土・大位はみな唐より受けたもの、陛下が唐帝とならねば臣は官を去るのみ」と勧め、符命十余事を陳べ高祖はこれに従った。禅譲後、高祖は「私をここに至らせたのは公の力だ」と述べ、寂は尚書右僕射を拝し服玩を数え切れぬほど賜い、御膳を毎日賜わり「裴監」と呼ばれ名を呼ばれなかった。

裴寂――唐建国後の栄達

  • 武徳二年(619年)、劉武周の将黄子英・宋金剛が太原を頻繁に侵し、行軍総管の姜寶誼・李仲文が相次いで陥没、高祖は憂慮した。寂は自ら討伐を志願し晋州道行軍総管となるが、介休で金剛に抗しきれず度索原に籠るも水源を絶たれ大敗、寂は一昼夜で晋州に逃げ帰った。夏県人呂崇茂の反乱を鎮圧できず再敗、召還され高祖に「義挙の初め功があったが、今回の敗戦は朕を辱めるものではないか」と責められ一時投獄されたがまもなく釈放された。
  • その後も高祖の巡幸には必ず留守を任され、麟州刺史韋雲起の謀反告発も高祖は取り合わず寂を厚遇し続けた。高祖は「我が李氏は隴西で富み、皇室と姻戚を結び挙兵から数日で天子となった、蕭何・曹参のような刀筆吏出身とは違う、公と私は千載の後も先人に恥じない」と語った。改鋳銭を寂に特に鋳造させ、趙王元景に寂の娘を妃として娶せた。
  • 武徳六年(623年)尚書左僕射に転じ、含章殿で宴を賜り、寂は「太原発した時のお約束通り天下平定の後は退官を」と願うが高祖は涙を流し「まだだ、共に老いよう」と応じ、司空に冊立し実封五百戸を賜い、尚書員外郎を毎日交代で寂邸に詰めさせるほどの厚遇であった。
  • 貞観元年(627年)実封千五百戸に加増。二年(628年)南郊祭祀で長孫無忌と共に金輅に同乗するよう命ぜられた。

裴寂――晩年の失脚

  • 貞観三年(629年)、沙門法雅が妖言により処罰された際、法雅が寂も知っていたと証言し、寂は免官され食邑を半減、本邑へ追放された。太宗は「公の勲功はここまでのものではないが恩沢により第一位にいた、武徳の政刑の乱れは公の由るところだ、旧情により極刑にはしないが墓参りに帰るべきだ」と述べた。
  • 蒲州に帰った後、狂人信行を名乗る者の妖言に関する讒言があり、寂は監奴の恭命に事情を隠させたが、恭命が寂の封邑収納金を使い込み露見を恐れ変事を上奏、太宗は寂に「四つの死罪」(妖人法雅との親密、事後の憤怒発言、天分の噂の隠蔽、口封じの殺害)を挙げ怒ったが、流刑に減じ交州のちに静州へ流した。
  • 山羌の乱に際し反獠が寂を主に立てたとの噂が流れたが、太宗は「国家は寂に命の恩がある、そのようなことはあるまい」と述べ、実際寂は家僮を率いて賊を破ったと伝えられた。太宗はその佐命の功を思い召し出そうとしたが、寂は入朝前に卒した。享年六十。相州刺史・工部尚書・河東郡公を追贈された。
  • 子の律師が嗣ぎ、太宗の妹臨海長公主を娶り汴州刺史に至った。律師の子の承先は則天期に殿中監となるが酷吏に殺された。

劉文靜――出自と交友

  • 劉文靜は字を肇仁といい、自ら彭城の人と称し代々京兆武功に居住した。祖の懿用は石州刺史、父の韶は隋で戦死し上儀同三司を贈られた。文靜は父の死により儀同三司を襲った。姿儀偉にして器量あり倜儻多権略であった。
  • 隋末、晋陽令となり晋陽宮監の裴寂と交わりを結んだ。ある夜、寂は城上の烽火を見て「卑賤の極みで家道しばしば窮し乱世に遭う、どう救われようか」と嘆き、文靜は「世の道がこうであれば時勢は知れる、我々二人が相得れば卑賤を患うことはない」と笑った。

劉文靜――挙兵の謀議

  • 高祖の太原鎮守にあたり、文靜は高祖の四方の志を察し深く結んだ。また太宗を観察し寂に「非常の人物、大度は漢高祖に類し神武は魏武帝に同じ、若年ながら天縦の資である」と述べたが寂は当初信じなかった。
  • 後に文靜は李密との婚姻の連座で煬帝により郡獄に繋がれ、太宗は謀議のため獄を訪ね、文靜は「天下大乱、湯武高光の才なくば定まらぬ」と述べ、二人で挙兵の計画を語り合った。文靜は「李密が洛邑を包囲し主上(煬帝)は淮南に流浪、群盗は各地に満ちるが真主の統率を待つのみ、太原の避難民を集めれば十万は得られ、あなたの父君の数万と合わせれば半年で帝業を成せる」と説いた。太宗は謀議を進めるが高祖の同意を得るのを躊躇していたところ、文靜は寂を介して太宗との謀議を進めた。

劉文靜――義兵蜂起

  • 高君雅が突厥に敗れ高祖が拘束された際、太宗は文靜・寂と共に高祖へ「変事に処し功を立てよ」と説得、高祖はこれに応じた。文靜は太原・西河・雁門・馬邑の二十歳以上五十歳以下の徴兵を命じる煬帝の勅を偽作し人心を動揺させ、寂へも挙兵を促した。
  • 馬邑の劉武周が太守王仁恭を殺し天子を自称し突厥を率い太原を侵そうとした事を機に、太宗は文靜・長孫順德らに募兵を命じ、文靜・寂は偽の符勅で宮監の庫物を出し軍資に充てた。副留守の王威・高君雅が高祖暗殺を謀ると知り、太宗は文靜と鷹揚府司馬劉政會に急変の書を届けさせ、留守の面前で威・君雅の謀反を告発する芝居を打ち、両名を捕縛し挙兵を果たした。

劉文靜――唐建国後の功績

  • 高祖は大将軍府を開き文靜を軍司馬とした。文靜は旗幟改変・突厥との連携を進言し、始畢可汗の下へ使者として赴き「人衆土地は唐公に、財帛金宝は突厥に」と約し、可汗は将康鞘利に騎二千・馬千匹を伴わせて随行させた。屈突通を潼関で防ぎ、桑顕和の攻撃を半日の激戦の末に奇兵で撃破、通を捕らえ新安以西を平定した。大丞相府司馬に転じ光禄大夫・魯国公に叙せられた。
  • 高祖践祚後、納言を拝した。文靜は「陛下は億兆に君臨し、臣下は皆名を呼ばれるべきでない」と進言するも容れられなかった。隋開皇律令の刊定に当たり通識の士と共にこれを損益した。薛挙討伐に元帥府長史として従うが、太宗の不予中に司馬殷開山の計に従い出軍し敗北、除名された。のち太宗の薛挙再討伐で功を復し民部尚書・陝東道行台左僕射となった。武徳二年(619年)、太宗の長春宮鎮守に従った。

劉文靜――裴寂との軋轢と誅殺

  • 文靜は自らの才能が裴寂より優れ軍功も多いのに位が下であることを不平とし、廷議でしばしば寂と対立した。弟の文起と酒宴中「必ず裴寂を斬る」と刀で柱を撃つ発言をし、家中の妖異を憂え巫者に厭勝の法を行わせた。愛妾の失寵を機に妾の兄が変事を上奏、高祖は寂・蕭瑀に取り調べさせた。
  • 文靜は「挙兵の初め司馬として長史と同等の地位だったのに、今寂は僕射で邸宅も豪華、自分は東西征討で家族の生計もままならぬ不満から酔って怨言を発したに過ぎない」と弁明したが、高祖は「これは反乱の証」と断じた。李綱・蕭瑀は無実を主張し、太宗も義旗の初め文靜が非常の策を立てたこと、寂に劣らぬ功があったことを述べ助命を求めたが、高祖は疎んじ、寂も「文靜の才略は時人に冠絶するが性は粗険、忿ればみだりに事を為す、今赦せば後患を残す」と進言し、高祖は文靜・文起を殺し家産を没収した。文靜は刑に臨み「高鳥逝きて良弓蔵る、と言うが虚しからず」と嘆いた。享年五十二。
  • 貞観三年(629年)、官爵を追復し子の樹義が魯国公を襲封、公主を尚す許可を得た。のち兄の樹藝と共に父の誅殺を怨み謀反を企て誅殺された。

元従功臣の恩賞

  • 文靜が納言であった当時、太原元謀立功の詔があり、尚書令秦王(某)、尚書左僕射裴寂及び劉文靜は特に二死を恕された。左驍衛大将軍長孫順德、右驍衛大将軍劉弘基、右屯衛大将軍竇琮、左翊衛大将軍柴紹、内史侍郎唐儉、吏部侍郎殷開山、鴻臚卿劉世龍、衛尉少卿劉政會、都水監趙文恪、庫部郎中武士鸊、驃騎将軍張平高・李思行・李高遷、左屯衛府長史許世緒ら十四人は、一死を免ずる約を得た。
  • 武徳九年十月(626年)、太宗が功臣の実封差等を初めて定めた際、文靜は既に死しており、裴寂は九百戸を加食し通前で一千五百戸となった。長孫無忌・王君廓・尉遲敬德・房玄齡・杜如晦の五人は食邑一千三百戸。長孫順德・柴紹・羅藝・趙郡王孝恭の四人は食邑一千二百戸。侯君集・張公謹・劉師立の三人は食邑一千戸。李勣・劉弘基の二人は食邑九百戸。高士廉・宇文士及・秦叔寶・程知節の四人は食七百戸。安興貴・安修仁・唐儉・竇軌・屈突通・蕭瑀・封德彝・劉義節の八人は各食六百戸。錢九隴・樊興・公孫武達・李孟嘗・段志玄・龐卿惲・張亮・李藥師・杜淹・元仲文の十人は各食四百戸。張長遜・張平高・李安遠・李子和・秦行師・馬三寶の六人は各食三百戸であった。
  • なお王君廓の事跡は「廬江王瑗伝」に、安興貴・安修仁の事跡は「李軌伝」に、李子和の事跡は「梁師都伝」に、馬三寶の事跡は「柴紹伝」に見える。

李孟嘗・秦行師・元仲文

  • 李孟嘗は趙州平棘の人、官は右威衛大将軍・漢東郡公に至った。元仲文は洛州の人、右監門将軍・河南県公に至った。秦行師は并州太原の人、左監門将軍・清水郡公に至った。事跡が微少なため記録されない。他に伝のない者もすべてここに附す。

劉世龍

  • 劉世龍は并州晋陽の人。大業末、晋陽郷長。高祖の太原鎮守に際し裴寂がしばしば推薦し重用された。王威・高君雅家にも出入りしたが心は高祖に帰していた。義兵蜂起前、威・君雅の内心の疑惑を探り高祖に告げた。威らの誅殺後、銀青光禄大夫を授けられた。京城平定に従い鴻臚卿に転じ、名を義節と改めた。
  • 草創期、府庫が枯渇する中、義節は「街衢・苑中の樹を樵として布帛と交換すれば年数十万匹の収益、藏内の繒絹の端材を集めれば十余万段になる」と進言し高祖はこれに従い大きな利を得た。太府卿に再遷し葛国公に封ぜられた。貞観初、少府監に転じ、罪により嶺南に流罪、欽州別駕を経て卒した。
  • 義節の従子の思禮は万歳通天二年(697年)、箕州刺史となった。相術を学び「太師の職に至る」と占われ自負したが、洛州録事参軍綦連耀と謀反を企て「公は龍気あり」「金刀に合う」と互いに讖緯を語り君臣の契りを結んだ。事発覚し思禮は三十余家を誣告して自免を図ったが、綦連耀・思禮は共に誅され、鳳閣侍郎李元素、夏官侍郎孫元亨、知天官侍郎事石抱忠、鳳閣舎人王劇及びその兄前涇州刺史勔、太子司議郎路敬淳らも連座して死んだ。

趙文恪

  • 趙文恪は并州太原の人。隋末、鷹揚府司馬。義師蜂起で右三統軍を授けられた。武徳二年(619年)都水監、新興郡公に封ぜられた。中原の混乱で馬が不足していたため突厥と牛馬を交易し国用に充てた。まもなく劉武周の将宋金剛が太原に侵攻、属城が陥落する中、真郷公李仲文が浩州を守るため、元吉は文恪に歩騎千余を率いさせ後援させたが、太原が賊に陥落すると文恪は城を捨てて逃亡し、獄中で死を賜った。

張平高

  • 張平高は綏州膚施の人。隋末、鷹揚府校尉として太原を守り高祖に見出され謀議に参与した。義旗建立後、軍頭となり京城平定に従い左領軍将軍・蕭国公に叙せられた。貞観初、丹州刺史に出るが罪により免ぜられ右光祿大夫として帰邸、卒した。のち羅国公に改封。永徽中、潭州都督を追贈された。

李思行

  • 李思行は趙州の人。かつて仇を避け太原に隠れた。高祖の挙兵に際し京城の動静を偵察させられ、詳細な報告が旨に叶い左三統軍を授けられた。宋老生の撃破と京城平定に従い、嘉州刺史・楽安郡公に至った。永徽初、卒し洪州都督を贈られ謚は襄。

李高遷

  • 李高遷は岐州岐山の人。隋末、太原に客遊し高祖に側近く用いられた。高君雅・王威らの捕縛に功があり右三統軍を授けられた。霍邑攻略・京城包囲で力戦し功が最も高く、左武衛大将軍・江夏郡公・検校西麟州刺史に至った。武徳初、突厥が馬邑を侵した際、朔州総管高滿政の救援要請で高祖は高遷に援軍を命じたが、賊軍の勢いに関を斬って夜逃げし将士を失い、除名され辺地に流された。のち佐命の功により陵州刺史。永徽五年(654年)卒し梁州都督を贈られた。

許世緒

  • 許世緒は并州の人。大業末、鷹揚府司馬。隋の命運の尽きるのを見て高祖に「天道は徳を輔け人事は能に与する、機を蹈んで発せねば必ず後悔する。公の姓は図籙に応じ名は歌謠に応じ、五都の兵を握り四戦の地にある。首として義旗を建て天下に唱えるのが帝王の業である」と説き、高祖に厚遇された。義兵蜂起で右一府司馬を授けられた。武徳中、蔡州刺史・真定郡公に至り卒した。
  • 弟の洛仁も元従功臣として冠軍大将軍・行左監門将軍に至った。永徽初卒し代州都督を贈られ謚は勇、昭陵に陪葬された。

劉師立

  • 劉師立は宋州虞城の人。もと王世充の将軍で親遇されたが、洛陽平定後に誅されるところを太宗がその才を惜しみ免じ左親衛とした。太宗が建成・元吉討伐を謀った際、師立を密かに謀議に加え夜通し語り合った。のち師立は尉遲敬德・龐卿惲・李孟嘗ら九人と共に建成誅殺に功があり左衛率に抜擢された。まもなく左驍衛将軍・襄武郡公に転じ絹五千匹を賜った。
  • 「眼に赤光があり体に非常の相があり姓氏が符讖に応じる」と告発された際、太宗に問われ師立は「隋朝で六品を超えぬ卑官、身も駑下、富貴を望んだこともない」と弁明、太宗は妄言と笑い帛六十匹を賜い慰諭した。羅藝反乱の際は長安の動揺に備え検校右武候大将軍となったが、藝平定後に交通の罪で除名され、のち藩邸の旧縁で検校岐州都督となった。
  • 師立は吐谷渾討伐を上書し、通報前に部落へ間諜を送り帰順を招き、開・橋二州とした。党項首領拓拔赤辭にも利害を説き内属させ、太宗はこれを喜び赤辭を西戎州都督とした。母の喪で去職しようとしたが父老の請願で留任し、河西の党項破刃氏を討伐、始州刺史に転じた。十四年(640年)卒し謚は肅。

錢九隴

  • 錢九隴は本は晋陵の人、父は陳で捕虜となり皇家の隸人となった。九隴は騎射を善くし高祖の信愛を受け側近に置かれた。義兵蜂起で軍功により金紫光禄大夫を授けられた。京城攻略で左監門郎将、薛仁杲・劉武周平定の功で右武衛将軍に至った。太宗の竇建德捕獲・王世充平定、隠太子の劉黒闥討伐にも従い力戦し功績は最も高かった。郇国公に累封され苑游将軍を兼ねた。貞観初、眉州刺史に出て右監門大将軍に再遷。十二年(638年)郇国公に改封され廬州の実封六百戸を加食された。まもなく卒し左武衛大将軍・潭州都督を贈られ謚は勇、献陵に陪葬された。

樊興

  • 樊興は本は安陸の人、父が罪により皇家の隸人となった。京城平定に従い右監門将軍に至った。太宗の薛挙討伐、王世充・竇建德平定に従い戦功を重ね営国公に封ぜられ物二千段・黄金三十鋌を賜ったが、まもなく事に坐して爵を削られた。貞観六年(632年)陵州の獠が反すると討伐し左驍衛将軍を拝した。李靖の吐谷渾討伐にも赤水道行軍総管として従うが、遅留と士卒の多くの死・甲仗の喪失により罪に問われ勲功で死を減ぜられた。のち左監門大将軍・襄城郡公に至り、太宗の遼東親征に際しては司空房玄齢を補佐し京師留守を務めた。永徽初卒し左武候大将軍・洪州都督を贈られ献陵に陪葬された。

公孫武達

  • 公孫武達は雍州櫟陽の人。膂力あり豪俠と称された。隋の驍果であった。武德初、長春宮に太宗に謁見し劉武周討伐に従い力戦し功は最も高かった。王世充・竇建德平定にも従い秦王府右三軍驃騎に累遷、清水県公に封ぜられた。貞観初、検校右監門将軍、まもなく肅州刺史となる。突厥数千騎・輜重万余が肅州に侵入し吐谷渾へ南下しようとした際、武達は二千人でこれを迎撃し張掖河に追い落とし、川を渡る敵を挟撃して斬溺し尽くした。璽書で慰勉され左監門将軍を拝した。鹽州で叛いた突厥を靈州へ追撃し渠帥可邏拔扈を斬りほぼ壊滅させ、東莱郡公に進封。永徽中、右武衛大将軍に至る。卒去に際し高宗は廃朝哀悼、荊州都督を贈り東園秘器を賜い昭陵に陪葬、謚は壮。

龐卿惲

  • 龐卿惲は并州太原の人。太宗の隠太子討伐に功があり右驍衛将軍・邾国公に至った。まもなく卒し濮国公を追封された。子の同善は右金吾大将軍に至り、同善の子の承宗は開元初、太子賓客となった。

張長遜

  • 張長遜は雍州櫟陽の人。隋代に里長となり陳平定の功で五原郡通守に至った。天下大乱に際し突厥に附し「割利特勒」と号された。義旗建立に際し郡を挙げて降り五原太守、豊州総管となった。梁師都・薛挙が突厥に渡河の兵を請うたことを知り、偽詔書で莫賀咄設を欺きその謀を退け高祖に称えられた。
  • 武徳元年(618年)、右武候驃騎将軍高静が始畢可汗への贈物途中で可汗が死去し、突厥が激怒して南渡しようとした際、長遜は高静に賻贈の礼を伝えさせ事を収めた。薛挙征討にも命を待たず駆けつけ功により豊州総管を授かり巴国公に進封、錦袍金甲を賜った。長遜が長く豊州に留まり突厥と結んでいることを言上する者があり、長遜は恐れて入朝を請い右武候将軍・息国公に改封、宮人・彩物千余段を賜った。竇軌の王世充討伐にも検校益州行台左僕射として従い、遂・夔二州総管を歴任しいずれも善政を行った。貞観十一年(637年)卒した。

李安遠

  • 李安遠は夏州朔方の人。隋雲州刺史徹の子。家は富み若くして博徒と交わったが晩年に読書に励み士友を敬慕した。父の城陽公を襲爵。王珪と親しく、珪の叔父頗の連座配流を庇い免れさせた。のち正平令となり、義兵が絳郡を攻めた際、通守陳叔達と共に籠城したが、城陥落後に高祖の旧知として撫慰され右翊衛統軍・正平県公に封ぜられた。
  • 武徳元年(618年)右武衛大将軍を授けられ、太宗の征伐に従い恩沢を受け戦功を重ね広德郡公に改封。吐谷渾へ使いし和好を結び、吐谷渾主伏允が中国との互市を請うたのは安遠の功であった。隠太子建成が党援に引き込もうとしたが固く拒み、太宗の信任をより厚くした。貞観初、潞州都督・懷州刺史を歴任し声績を挙げたが、厳急に過ぎるとの評もあった。七年(633年)卒し涼州都督を追贈され謚は密。十三年(639年)遂安郡公に追封された。

史論

  • 史臣曰く、裴寂は隋に仕え宮監に至り子女玉帛の務めを総べ倉廩兵甲の富を握ったが、博戯の利をひたすら喜び、挙義の謀を先んじて唱えた。岳神に福を祈ったことがすでに不逞の心の表れであり、貴妃を邸に留めたのはついに臣道に昧いことを示した。第一の位にありながら三事を規す規範に欠け、高祖の旧恩を恃んで文靜を極刑に追いやった。終に四罪を負いながら再生を保てたのは幸いというべきである。劉文靜は縦横の略を奮い締構の功を立てながら、寵辱の機を思わず軽躁の行いを過ごし、封を受けぬうちに禍を招いた、惜しむべきことである。佐命に関わった者はすべて実封の第を得、大小遺すことなく賢愚を自ら勧めさせた、太宗の行賞は明らかというべきである。
  • 賛に曰く、風雲が初めて合するや共に智力を尽くしたが、勢利が分かれるとたちまち仇敵に変わった。