舊唐書卷六十 蕭銑・杜伏威・輔公祏・沈法興・李子通・羅藝・梁師都
隋末の混乱に乗じて江南・淮南・関中北辺で自立した群雄たちの興亡を集めた合伝。蕭銑は梁の後裔として梁王・皇帝を僭称し長江中流域に一大勢力を築いたが、諸将の兵権を奪って自壊し唐軍に降伏した。杜伏威・輔公祏は淮南で勢力を築いたが唐帰順後に内紛で滅び、沈法興・李子通・林士弘・張善安・朱粲・羅藝・梁師都・李子和らも各地で皇帝や王を僭称して割拠したが、唐の統一とともに大半は滅亡し、一部は帰順して唐の武将として仕えた。
年表(19件)
- 大業十三年617年岳州の豪傑に推されて羅川令蕭銑が挙兵した
- 大業十三年617年挙兵五日で数万人が投じ梁公を自称した
- 大業十三年617年城南に壇を築き梁王を自称、建元「鳳鳴」とした
- 義寧二年618年皇帝を僭称し百官を置き梁の旧制に倣った
- 義寧二年618年隋将張鎮州が嶺表諸州を挙げて銑に降った
- 武徳元年618年江陵に遷都し園廟を修復、岑文本を迎えた
- 武徳四年621年高祖が趙郡王孝恭・李靖らに四方から銑討伐を命じた
- 武徳四年621年将文士弘らが撃破され都に迫られた
- 武徳四年621年救援なしと悟り軍門で百姓の助命を願い降伏した
- 武徳四年621年高祖に罪を問われ都市で斬られた、享年三十九
- 大業末榆林の大飢饉に際し郡丞を斬り倉を開いて窮民を救った
- 大業末永楽王を自称し建元「正平」とした
- 武徳元年618年唐に帰順し榆林郡守に任ぜられた
- 武徳二年619年郕国公に進封された
- 武徳四年621年戸口を南に移し延州故城への居住を許された
- 武徳五年622年太宗の劉黒闥討伐に従い陥陣の功をあげ李姓を賜った
- 貞観元年627年実封三百戸を賜った
- 貞観十一年637年婺州刺史に転じ夷国公に改封された
- 顕慶元年656年黔州都督となり、致仕を願い金紫光禄大夫を加えられた
蕭銑――出自
- 蕭銑は後梁宣帝の曾孫。祖父の岩は隋の開皇初年、隋に背いて陳に降ったが、陳滅亡後に文帝に誅殺された。
- 銑は幼くして父を失い貧しく育ち、書写の代筆で生計を立て、母への孝で知られた。煬帝の時、外戚として抜擢され羅川県令となった。
蕭銑――挙兵と梁の建国
- 大業十三年(617年)、岳州校尉の董景珍・雷世猛、旅帥の鄭文秀・許玄徹・萬瓚・徐德基・郭華、沔州人の張繡らが隋に背く謀議をした。
- 郡県の官属らは董景珍を主に推そうとしたが、景珍は自分は寒賤の出であるとし、梁氏の後裔で寛仁大度、武皇の風がある羅川令蕭銑を主に推すよう提案した。
- 銑はこれを喜び応じ、数千人を集めて挙兵した。潁川の賊帥沈柳生が羅川県を攻めてきたが撃退できず、銑は岳州豪傑の求めに応じ梁公を自称し、隋の服色を改め梁の旗を建てた。柳生は帰順し車騎大将軍に任ぜられ、巴陵へ進軍した。挙兵五日で数万人が投じた。
- 景珍は徐德基・郭華に州の首領数百人を率いさせ出迎えさせたが、柳生が功を独占しようとして徳基を殺害した。銑は激怒し軍を出て叱責したがのちに赦し復位させた。景珍は柳生の凶暴を理由に誅殺を進言し、銑はこれに従い柳生を斬った。
- 銑は城南に壇を築き天に告げ梁王を自称、瑞鳥出現により建元して「鳳鳴」とした。義寧二年(618年)皇帝を僭称し百官を置き、梁の旧制に倣った。従父の琮を孝靖帝、祖の岩を河間忠烈王、父の璇を文憲王に追諡した。董景珍を晋王、雷世猛を秦王、鄭文秀を楚王、許玄徹を燕王、萬瓚を魯王、張繡を斉王、楊道生を宋王に封じた。
- 隋将張鎮州・王仁壽は攻めるも下せず、隋滅亡を聞いて張鎮州は寧長真らと嶺表諸州を挙げて銑に降った。九江・鄱陽ではもと林士弘が僭号していたが自滅し、士弘は安成の山洞に逃れ、その郡も銑に降った。楊道生が南郡を攻略し、張繡は嶺表を平定、東は三峡、南は交阯、北は漢川に至るまで従い、勝兵四十余万を擁した。
蕭銑――内紛と衰退
- 武徳元年(618年)、江陵に遷都し園廟を修復した。岑文本を中書侍郎に迎え機密を掌らせた。
- 銑はまた楊道生に硤州を攻めさせたが、刺史許紹に撃破され溺死者が大半に及んだ。高祖は夔州総管趙郡王孝恭に討伐を命じ通・開の二州を抜き、偽の東平郡王蕭闍提を斬った。
- 諸将の専横を憂い、銑は兵を罷免し営農を名目に将帥の兵権を奪った。大司馬董景珍の弟(偽将軍)が兵を奪われたことを恨み反乱を謀るが露見し誅殺された。景珍は長沙鎮守中に召還されそうになり恐れて孝恭に内通、銑は斉王張繡に攻めさせ景珍は敗死した。繡はその功で尚書令となるが驕慢となり、銑に誅殺された。大臣が相次いで誅殺され、部将は疑懼し離反する者が多く、兵勢は弱まった。
蕭銑――唐への降伏と最期
- 武徳四年(621年)、高祖は趙郡王孝恭・李靖に巴蜀の兵を率いさせ夔州から進発させ、廬江王瑗は襄州道、黔州刺史田世康は辰州道、黄州総管周法明は夏口道からそれぞれ銑を攻めさせた。
- 銑の江州総管蓋彦挙は五州を挙げて降伏した。銑の将文士弘らは抗戦するも孝恭・李靖に撃破され、都に迫られた。銑はかつて兵を放散していたため急な追兵に間に合わず、孝恭は水城を落とし舟船数千艘を得た。
- 交州総管丘和・長史高士廉・司馬杜之松らは先に銑に謁していたが敗報を聞き李靖に投降した。銑は救援が来ないと悟り群下に「天が梁を助けず滅びの数に帰した。力尽きるまで待てば民を害するだけだ」と告げ降伏を決意、太牢を廟に告げ官属と共に緦縗布幘で軍門に赴き「死すべきは銑一人、百姓に罪はない、殺掠なきように」と願った。孝恭は銑を捕らえ京師に送った。
- 降伏数日後に江南の救援十余万が到着したが、銑の降伏を知り孝恭に投降した。高祖が罪を責めると銑は「隋がその鹿を失い英雄が競って逐った、銑に天命なくこの結果となった、田横の南面と同じで漢に背いたわけではない」と答え、都市で斬られた。享年三十九。挙兵から五年で滅亡した。
杜伏威――出自と挙兵
- 杜伏威は斉州章丘の人。若い頃は落魄し家業を治めず貧しく、しばしば盗みを働いた。輔公祏と刎頸の交わりを結んだ。公祏の叔母家は牧羊を業とし、公祏はしばしば羊を盗んで叔母に届けたため恨みを買い、盗みが露見した。郡県が急ぎ捕えようとしたため二人は逃亡し群盗を集め主に推された。時に十六歳。
- 大業九年(613年)、長白山に入り賊帥左君行を頼るが礼遇されず立ち去り、淮南を転掠し将軍を自称した。下邳の苗海潮も群盗を集めていたが、伏威は公祏を通じ合流を説き、海潮は恐れて帰順した。江都留守の校尉宋顥の討伐軍を偽装敗走で葭蘆に誘い火攻めで大勝した。海陵の賊帥趙破陣が伏威の兵の少なさを侮り招いたが、伏威は宴席で破陣を斬りその軍を併合、安宜を屠った。
杜伏威――勢力拡大
- 煬帝は右御衛将軍陳棱に精兵八千を率いさせ討伐させたが、棱は戦を避けたため伏威は婦人服を送り「陳姥」と嘲って挑発した。棱の部将が伏威の額を射たが伏威は矢を抜かず突撃し陣を突破、その部将を捕えて処刑し首を持って再度突撃、数十人を殺し棱軍を大潰させた。
- 高郵県を破り歴陽に拠り総管を自称、諸将を分遣し属県を略取し、江淮の小盗が次々帰順した。「上募」という敢死の士五千人を選び厚遇し、戦後背に傷のある者は退却とみなし殺した。獲得した資財は皆軍士に賞し、戦死者の妻妾を殉葬させた。
- 宇文化及は伏威を歴陽太守に任じたが受けず、丹陽に移り人材登用・武備充実・薄税・殉葬廃止を行い、姦盗・貪濁の官は軽重問わず殺した。越王侗に上表し東道大総管・楚王に封ぜられた。
杜伏威――唐への帰順と最期
- 太宗が王世充を包囲した際に招降され、高祖は伏威を東南道行台尚書令・江淮以南安撫大使・上柱国・呉王に封じ李姓を賜い宗正属籍に入れ、子の徳俊を山陽公に封じ帛五千段・馬三百匹を賜った。
- 武徳四年(621年)、部将王雄誕に杭州の李子通を討たせて捕獲、汪華を歙州に破り江東・淮南を平定した。太宗の劉黒闥平定・徐円朗攻撃を聞き入朝、太子太保・行台尚書令となり長安に留め置かれ斉王元吉の上位に置かれ厚遇された。
- 輔公祏の反乱時、伏威の令を詐称し衆を欺いたため趙郡王孝恭が討伐に向かったが、伏威は長安で急死した。公祏平定後、孝恭は公祏の供述を誤解し伏威の除名・妻子の没収を上奏した。貞観元年(627年)太宗はその冤罪を知り赦免し官爵を復し、公礼で改葬した。
輔公祏――出自と杜伏威との関係
- 輔公祏は斉州臨済の人。隋末、杜伏威に従い群盗となる。伏威が総管を称すると公祏は長史となった。李子通が沈法興を破った際、伏威は公祏に精兵数千で子通を討たせた。子通は数万で対抗したが、公祏は甲士千人に長刀を持たせ「退く者は斬る」と命じ、子通軍を大敗させ数千人を降した。公祏は淮南道行台尚書左僕射・舒国公に封ぜられた。
- 伏威と公祏は幼少より親しく伏威は兄事し軍中で「伯」と呼ばれ畏敬されたが、伏威は密かにこれを忌み、養子の闞棱を左将軍、王雄誕を右将軍とし、公祏を僕射に推して名目上尊崇しつつ兵権を奪った。公祏はこれを察し不満を抱き、旧知の左遊仙と偽って道術修行に隠れた。
輔公祏――反乱と滅亡
- 武徳五年(622年)伏威が入朝する際、公祏に留守を命じ王雄誕を副とし、密かに「入京後職を失わずとも公祏に変事を起こさせるな」と告げた。左遊仙は公祏に反乱を勧め、公祏は雄誕が病臥中に兵権を奪い、伏威が江南に戻れないと偽って挙兵を促し、宋国を僭称して陳の旧都に宮を築いた。百官を置き左遊仙を兵部尚書・東南道大使・越州総管とした。
- 呉興の賊帥沈法興を毗陵で破り、馮惠亮を博望山、陳正通・徐紹宗を青林山に配して官軍に対抗させたが、趙郡王孝恭に大破された。紹宗・正通は五騎で丹陽に逃亡した。公祏は恐れて左遊仙を頼り会稽へ逃げる途中、武康で捕えられ丹陽に送られ、孝恭に斬られ首は京師に送られた。伏威と挙兵し滅亡まで十三年、江東は平定された。
- 伏威は壮士三十余人を養子とし兵馬を分領させたが、闞棱・王雄誕が有名であった。
闞棱
- 闞棱は斉州臨済の人。長さ一丈両刃の大刀「陌刃」を用い、当たる者無しといわれた。伏威が江淮を領すると戦功により左将軍となる。伏威軍の出自は群盗で放縦な者が多く、掠奪する者は棱が容赦なく殺し軍規は厳正、路に遺を拾わずと称された。
- 伏威の入朝に従い左領軍将軍・越州都督。公祏僭号の討伐に従軍し陳正通と対峙した際、兜を脱いで旧部下に呼びかけ闘志を削いだ。公祏平定に功多く自負したが、公祏平定時に棱も通謀を誣告され、伏威・王雄誕・棱の家産返還を巡り孝恭と対立、孝恭の怒りを買い謀反として誅殺された。
王雄誕
- 王雄誕は曹州済陰の人。伏威挙兵時からその計略を用いて戦功を上げ驃騎将軍となる。伏威が李子通に襲われ重傷で落馬した際、雄誕が背負って葭蘆に逃れた。隋将来整に敗れた際も西門君儀の妻王氏が伏威を背負い、雄誕ら十余人の壮士が護衛し脱出させた。闞棱を「大将軍」、雄誕を「小将軍」と軍中で呼んだ。
- 輔公祏の李子通討伐に副将として従軍、溧水の戦いで子通を大破。公祏が追撃で敗れた際、雄誕は子通軍が油断していると進言し夜襲を献策、公祏は従わなかったが雄誕は自ら私兵数百で夜襲し順風に火を放ち子通を大敗させ、その地を占拠した。子通の独松嶺守備を部将陳当に奇襲させ杭州に追い詰め捕獲、京師に送った。
- 歙州の首領汪華を新安洞口で偽退却により誘い出し洞口を塞いで降伏させた。崑山県の聞人遂安には単騎で赴き利害を説いて降伏させた。前後の功により歙州総管・宜春郡公。
- 伏威入朝後、公祏が反乱を企て雄誕の兵権を奪い拘禁、反乱への同調を求めたが「今太平で呉王も京にいる、族滅の事をなぜするのか、死んでも命には従わない」と拒み、公祏に絞殺された。高祖はその節義を称え子の果に宜春郡公を襲封させた。太宗即位後、左衛大将軍・越州都督を追贈し謚は忠。
- 子の果は垂拱初年(685年頃)に広州都督・安西大都護に至った。
沈法興――出自と挙兵
- 沈法興は湖州武康の人。父の恪は陳の特進・広州刺史。法興は隋大業末に呉興郡守。東陽の賊帥楼世干が郡城を包囲、煬帝は法興と太僕丞元祐に討伐を命じた。
- まもなく宇文化及が煬帝を江都で弑逆すると、法興は南方の名族として孫士漢・陳果仁と共に元祐を捕らえ号令した。化及討伐を名目に東陽から進発し兵を集めながら余杭郡を下し、烏程に至る頃には精兵六万となった。毗陵郡通守路道德を会盟に誘い襲殺しその城を奪った。丹陽の楽伯通を陳果仁に攻めさせ陥落させ、江表十余郡を領し江南道総管を自称した。
- 越王侗の即位を聞き上表し大司馬・録尚書事・天門公を自称、百官を置き陳果仁を司徒、孫士漢を司空、蔣元超を尚書左僕射、殷芊を尚書左丞、徐令言を尚書右丞、劉子翼を選部侍郎、李百薬を府掾とした。
沈法興――滅亡
- 毗陵征服後、江淮以南の平定を専断し将士の小過を厳罰したため将士の心が離れた。梁を称し建元「延康」、陳の旧制を模倣した。杜伏威(歴陽)、陳棱(江都)、李子通(海陵)と三面から敵対され軍は挫折した。
- 陳棱が李子通に包囲され救援を求めると子の綸に数万を率いさせ救援したが子通に大敗、京口が陥落した。蔣元超を庱亭で防戦させるも戦死。法興は数百人と共に聞人遂安を頼るが、迎えに来た葉孝辯を途中で殺そうとし発覚、追い詰められ長江に投身自殺した。義寧二年(618年)挙兵し武徳三年(620年)に滅亡した。
李子通――出自と挙兵
- 李子通は東海丞の人。貧賤で漁猟を業とし、施しを好み蓄えなく、恨みは必ず報いた。隋大業末、賊帥左才相(博山公と号し斉郡長白山に拠る)に帰し武力で重用された。仁恕の性で人望を集め半年で兵一万人となる。才相に忌まれ自ら去り淮を渡り杜伏威と合流するも隋将来整に敗れ海陵に逃れ、二万を得て将軍を自称した。
- 宇文化及が陳棱を江都太守に任じると子通はこれを攻撃、棱は沈法興・杜伏威に救援を求めたが子通の謀臣毛文深の計により両軍相疑い動けず、子通は江都を陥落させ陳棱は伏威の元へ逃れた。子通は皇帝を僭称、国号「呉」、建元「明政」とした。
李子通――帝位僭称と滅亡
- 丹陽の楽伯通が投降し、子通は尚書左僕射に任命した。庱亭で沈法興を破り晋陵を得た。法興府掾の李百薬を内史侍郎、尚書左丞の殷芊を太常卿とした。
- 輔公祏に丹陽・溧水を攻められ敗れ、糧尽きて江都を捨て京口へ、さらに太湖へ逃れ二万を集め沈法興を呉郡で破り餘杭に都した。杜伏威の部将王雄誕に蘇州で敗れ餘杭へ退き、さらに攻められ降伏した。伏威は子通と左僕射楽伯通を捕らえ京師へ送った。高祖は罪を問わず邸宅・公田を与えた。
- 伏威の入朝後、子通は伯通に「東方はまだ平定されておらず自分の兵は江外にある、取り戻せば天下に大功をなせる」と語り共に逃亡、藍田関で捕えられ共に処刑された。
朱粲
- 朱粲は亳州城父の人。県の佐史から従軍し群盗の首領となり「可達寒賊」と号し迦楼羅王を自称、衆十余万に達した。淮を渡り竟陵・沔陽を屠り山南を掠奪、殺戮の限りを尽くした。義寧中に招慰使馬元規に破られるが再起し冠軍で楚帝を僭称、建元「昌達」、鄧州を陥落させ衆二十万となった。
- 占領地の食糧を食い尽くすと焼き払い移動を繰り返し、飢餓で人相食む惨状となり、嬰児を蒸して食わせ「人肉が美味」と嘯いた。婦人・小児を煮て軍に配り、諸城から幼弱の男女を徴発し兵糧とした。隋の著作佐郎陸従典・通事舎人顔愍楚を賓客としたが、後に飢餓でその一家も食われた。
- 楊士林・田瓚ら顕州首領が背き諸州が呼応、淮源で大敗し数千の兵で菊潭県に逃れ降伏を請うた。高祖は仮散騎常侍段確を派遣し慰労させたが、確が酔って「人を食う味は」と侮辱、粲は「酒好きな者を食えば糟漬け豚肉のようだ」と答え、確に「狂賊、入朝すれば奴隷同然」と罵られたため確とその従者数十人を殺し王世充に投降し龍驤大将軍となった。東都平定後に捕えられ洛水で斬られ、士庶はその屍に瓦礫を投げつけ塚のようになった。
林士弘
- 林士弘は饒州鄱陽の人。大業十二年(616年)、郷人の操師乞と共に群盗を起こした。師乞は元興王を自称し豫章郡を陥落させ、士弘を大将軍とした。隋の持書侍御史劉子翊の討伐で師乞は矢に当たり戦死、士弘が代わって統率し彭蠡湖で子翊を撃破し戦死させた。
- 兵十余万に達し大業十三年(617年)虔州に拠り皇帝を自称、国号「楚」建元「太平」、その党王戎を司空とした。臨川・廬陵・南康・宜春等を陥落させ北は九江、南は番禺まで領有した。党の張善安は南康郡に拠り士弘に背き豫章を撃破、士弘は南昌・虔・循・潮数州を残すのみとなった。
- 蕭銑滅亡後に散兵が帰属し再び振るう。荊州総管趙王孝恭の招慰に循・潮二州が降伏した。武徳五年(622年)、弟の鄱陽王薬師に循州を攻めさせるが刺史楊略に大敗し士弘は逃れ安成の山洞に潜んだ。王戎は南昌州で降伏し刺史となるが密かに士弘を匿い再起を図った。洪州総管張善安がこれを知り討伐、士弘は死去し王戎は捕えられた。
張善安
- 張善安は兗州方与の人。十七歳で盗賊となり淮南を転掠し衆百余人。孟譲が王世充に破れた散卒を得て八百人となった。廬江郡を破り江を渡り豫章の林士弘に帰属するが疑われたため士弘を襲撃し郛郭を焼いた。士弘退去後、善安が豫章を占拠し帰順、洪州総管となった。
- 輔公祏の反乱に呼応し西南道大行台に。安撫使李大亮が討伐、大亮の単身説得に善安は降伏を約すが、大亮の陣に入った際に捕縛された。長安に送られ公祏との無関係を主張し高祖は当初厚遇したが、公祏敗北後に往復書簡が発見され誅殺された。
羅藝――出自と挙兵
- 羅藝は字を子延といい、本は襄陽の人で京兆雲陽に寓居した。父の榮は隋の監門将軍。性は桀黠剛愎不仁、勇にして戦を好み善射・弄槊であった。大業中に軍功で虎賁郎将となり、煬帝の命で右武衛大将軍李景の指揮下、北平に駐屯。景にしばしば凌辱され深く恨みを抱いた。
- 天下大乱後、涿郡の物資豊富で伐遼器仗と倉粟が積まれ、留守官の趙什住・賀蘭誼・晋文衍らが賊を防げない中、藝独り出戦し破賊を重ね威勢を強めた。什住らの猜忌を察し衆に「討賊に功ありながら倉庫を独占され恤まれぬ」と扇動し衆怨を煽り、郡丞を捕らえ陳兵、什住らを従わせた。庫物を戦士に賜い倉を開いて窮乏を救い民心を得た。
- 異心の渤海太守唐禕らを殺し威を辺朔に振るい、柳城・懐遠が帰服した。営州総管を自称し、宇文化及の招きを拒み使者を斬り煬帝の喪を発した。竇建德・高開道の誘いも「劇賊」として拒絶し唐に帰順を決断、武徳三年(620年)奉表し燕王・李姓を賜り宗正属籍に入った。
羅藝――唐への帰順と反乱・最期
- 太宗の劉黒闥討伐で黒闥の弟什善を徐河で破り八千を捕斬した。翌年、黒闥が突厥と共に侵寇すると隠太子建成と洺州で会し、入朝を請い高祖に厚遇され左翊衛大将軍となった。功高を恃み太宗の従者を故なく殴打し高祖の怒りを買うも赦された。突厥の脅威に備え天節軍将として涇州鎮守を命ぜられた。
- 太宗即位後、開府儀同三司を拝すが藝は不安を覚え、涇州で閲兵を偽装し密詔を矯称して豳州へ進軍した。治中趙慈皓は事情を知らず出迎え、藝は豳州を占拠した。太宗は長孫無忌・尉遲敬德に討伐させた。慈皓・統軍楊岌の反撃計画が漏れ慈皓は投獄されたが、岌が城外から攻撃し藝は大潰、妻子を捨て数百騎で突厥に逃亡した。寧州境の烏氏駅で従者が散り、左右の者に斬られ首を京師に送られ晒された。羅氏の本姓に復された。弟の壽(利州都督)も連座で誅殺された。
- 以前、曹州の女子李氏が妖術で人気を得て藝の妻孟氏に「妃の骨相は貴く天下の母となる」等と讒言、孟氏はこれを信じ反乱を勧め、孟氏・李氏共に斬られた。
梁師都――出自と挙兵
- 梁師都は夏州朔方の人。代々本郡の豪族で、隋の鷹揚郎将であった。大業末に罷免帰郷、盗賊蜂起の中数千の徒党を結び郡丞唐宗を殺して郡を占拠、大丞相を自称し北の突厥と結んだ。隋将張世隆の討伐を撃破した。
- 雕陰・弘化・延安等を掠め皇帝を僭称、国号「梁」建元「永隆」。突厥始畢可汗より狼頭纛を贈られ「大度毗伽可汗」と号された。突厥を引き入れ河南の地を攻め鹽川郡を破った。
梁師都――突厥との連携と滅亡
- 武徳二年(619年)、延州総管段德操の討伐を受け野猪嶺で対峙、德操は待機の後不意を突き大破、二百余里追撃し男女二百余口を虜にした。数ヶ月後に再攻するも撃破された。
- 劉武周滅亡後、大将張挙・劉旻が相次いで降伏、師都は恐れ尚書陸季覧を派遣し処羅可汗に南侵を促した。莫賀咄設・泥步設・処羅・突利可汗が竇建德と合流して晋・絳に進む計画は処羅の死により中止となった。德操は東城を抜き師都は西城に退き頡利可汗に救援を求めた。稽胡大帥劉仚成が投降するも師都は讒言を信じ殺害し人心を失った。
- 頡利の下に朝し侵寇を計り、渭橋の変も師都の計であった。太宗は書で諭すが従わず、夏州長史劉旻・司馬劉蘭が離間工作を行い投降者が相次いだ。李正寶・辛獠兒が師都捕縛を謀るも露見、正寶は降伏した。
- 貞観二年(628年)、右衛大将軍柴紹・殿中少監薛萬均、劉旻・劉蘭が朔方東城を占拠し包囲、頡利の援軍を柴紹が撃破した。師都の従弟洛仁が師都を斬り柴紹に降伏、右驍衛将軍・朔方郡公に封ぜられた。師都は挙兵から滅亡まで十二年、その地は夏州とされた。
劉季真
- 劉季真は離石の胡人。父の龍兒は隋末数万の兵を擁し劉王を自称、季真を太子とした。龍兒は虎賁郎将梁德に斬られ衆は離散した。
- 義師蜂起後、季真は弟の六兒と共に挙兵し劉武周の兵を率いて石州を陥落させた。突厥と結び突利可汗を自称、六兒を拓定王とし辺患となった。西河公張綸・真郷公李仲文の圧迫を受け降伏、石州総管・李姓・彭城郡王に封ぜられた。
- 宋金剛が澮州で官軍と対峙中、季真は密かに武周に投じ合流した。金剛敗北後、季真は高満政の下に逃れたが殺された。
李子和
- 李子和は同州蒲城の人、本姓は郭氏。大業末、左翊衛だったが罪により榆林に流された。郡内の大飢饉を見て決死の士十八人と共に郡門を攻め、郡丞王才を捕え民を恤まぬ罪で斬り、倉を開いて窮民を救った。永楽王を自称、建元「正平」、父を太公と尊び弟子の政を尚書令、子端・子升を左右僕射とした。
- 兵二千余騎、南は梁師都、北は突厥始畢可汗と結び質子を送った。始畢は劉武周を「定楊天子」、梁師都を「解事天子」、子和を「平楊天子」に署したが子和は固辞し、始畢は「屋利設」に改めた。
- 武徳元年(618年)帰順し榆林郡守、のち雲州総管・金河郡公。二年(619年)郕国公に進封。師都の強暴を恐れ寧朔城を襲撃し克した。突厥との関係を絶ち処羅可汗の候騎に発見され弟の子升が囚われた。
- 武徳四年(621年)、戸口を南に移し延州故城に居住を許された。五年(622年)、太宗の劉黒闥討伐に従い陥陣の功をあげた。李姓を賜り右武衛将軍。貞観元年(627年)実封三百戸、十一年(637年)婺州刺史に転じ夷国公に改封。顕慶元年(656年)幾度かの転任を経て黔州都督となる。老年により致仕を願い出て許され、金紫光禄大夫を加えられた。麟德九年に卒した(麟德は二年までの年号のため誤りか)。
史論
- 史臣曰く、蕭銑は烏合の衆を集め、鹿を逐う時勢に乗じて起ちながら、兵を放って将権を奪い旧臣を殺して地位を固めたため、大軍が到来すると束手して降伏したのは当然のことである。杜伏威は勇に頼り徒衆を集めたが機を見て唐に帰し、一時高祖には疑われたが太宗の代にその冤は雪がれた。輔公祏は兵を盗んで反したが、王雄誕は節を守って屈せず、子孫に忠貞を訓え士庶を感涙させた。李子通は仁を修め衆を御したが終には二心を抱いて誅に伏し、羅藝は唐に帰して功を立てながら妖言を信じて叛いた。善始善終を全うできた者は稀である。沈法興・梁師都はいずれも凶人であり、共に滅亡し悔い改めることがなかった。隋の統一が絶えて天下が分裂すると、小なる者は鼠窃狗偸のごとく、大なる者は鯨呑虎拠のごとく割拠した。大唐が義兵を挙げると万民が帰服し、高祖は瑤図に応じ、太宗は神武の資をもって群凶を席巻して天下を平定した。その功は後代に宣り伝えられ、謚を神堯・文武と称された。
- 賛に曰く、失政は盗を招き、王を図って号を僭称した。真主が勃興すると、風の如く駆り、電の如く掃討した。