舊唐書卷五十九 薛舉・李軌・劉武周・高開道・劉黑闥

薛舉――出自と挙兵

  • 薛舉は河東汾陰の人。父の汪の代に金城へ移り住んだ。容貌魁偉で凶暴、弓と武勇に優れ、家産は巨万、豪猾と交わり辺境で勢威を張った。
  • 大業末、金城府の校尉であった舉は、県令郝瑗が募った討賊の兵数千人を率いる立場を利用し、子の仁杲ら十三人と共謀して郝瑗を捕らえ、郡県の官を囚え倉を開いて民に施した。
  • 西秦覇王を自称し、年号を秦興と建てた。仁杲を斉公、末子仁越を晋公に、群盗の首領宗羅睺を義興公に封じるなど、配下を次々に封拝した。
  • 隋将皇甫綰の一万の兵を赤岸で撃破し(風向きの急変に助けられた)、枹罕を陥落させた。羌の首領鐘利俗が二万の兵を率いて降ると勢力は一気に拡大し、鄯・廓二州も攻略、隴西の地をほぼ制圧して兵力は十三万に達した。

薛舉――西秦覇王の僭号と唐との攻防

  • 十三年(大業十三年)秋七月、蘭州で皇帝を僭称し、妻鞠氏を皇后、母を皇太后とし、陵墓・宗廟を営んだ。
  • 仁杲は秦州を包囲して攻略、舉は都を蘭州から秦州へ移した。将常仲興を派して李軌の将李贇と昌松で戦わせたが敗れ、全軍が李軌に降った。
  • 仁杲は扶風郡侵攻の途中、汧源の賊帥唐弼の軍(隴西李弘芝を天子に擁立していた)を懐柔したのち、その油断に乗じて併呑した。
  • 舉は勢いに乗じ三十万と号して長安を狙ったが、義兵(唐)が関中を平定したため矛先を扶風に転じた。太宗自ら討ってこれを破り、隴坻まで追撃した。
  • 舉は太宗の追撃を恐れ群臣に降伏の可否を問うたところ、黄門侍郎褚亮は趙佗・劉禅・蕭琮の先例を挙げて降伏もありうると答えたが、衛尉卿郝瑗は漢祖・蜀先主の逆境を例に強く諫めた。舉は自らの発言を試しにすぎぬと言い繕い、郝瑗を厚遇して謀主とした。
  • 郝瑗の献策で梁師都・突厥と結び長安進撃を図ったが、唐の都水監宇文歆が突厥莫賀咄設を説いて出兵を止めさせたため、この計画は頓挫した。

薛舉――病死

  • 武徳元年、豊州総管張長遜が宗羅睺を攻めると、舉は全軍で高墌に出て応戦し豳・岐の地まで略奪した。太宗が迎撃したが、太宗の病により行軍長史劉文靜・殷開山が油断して敗れ、慕容羅睺・李安遠・劉弘基らが陥没する大敗を喫した。
  • 郝瑗は勝機に乗じて長安を衝くよう進言し舉も同意したが、出発直前に舉が発病し、まもなく死去した。
  • 舉は捕虜を殺すのを常とし、舌を断ち鼻を削ぐなど残虐を極めた。妻もまた酷薄で下僕を鞭打ち苦しめたため、人心は離反していた。仁杲がその後を継ぎ、舉を武皇帝と諡したが、葬る前に仁杲自身も滅んだ。

薛仁杲――暴虐と滅亡(附伝)

  • 仁杲は舉の長子で剛勇、軍中で万人敵と称された。しかし行く先々で殺戮を重ね、庾信の子を惨殺するなど残虐で、富人を倒懸し財を強奪した。舉は生前その苛虐を戒めていた。
  • 舉の死後、折墌城で即位したが、諸将との不和と郝瑗の病没により軍勢は日増しに衰えた。
  • 高祖は太宗に討伐を命じ、太宗は高墌に布陣して守りを固め、敵の疲弊を待った。仁杲配下の翟長孫・鐘俱仇が相次いで唐に降ったのを見て、太宗は龐玉を派し宗羅睺を淺水原で破り、続いて折墌城に迫った。仁杲は窮して降伏し、太宗はこれを長安に護送、首謀者数十人と共に斬られた。
  • 薛氏父子の僭位は五年に及び、隴西はここに平定された。

李軌――出自と河西の割拠

  • 李軌、字は処則、武威姑臧の人。弁舌に長け書を好み、家は富み窮民を救済して評判があった。大業末、鷹揚府司馬であった軌は、薛舉の乱に備えて曹珍・関謹・梁碩・李贇・安修仁らと河右割拠を謀った。
  • 「李氏当王」の讖言をもとに曹珍らに推され盟主となった軌は、安修仁に胡人を率いさせて内苑城を占拠、隋の虎賁郎将謝統師・郡丞韋士政を捕らえ、河西大涼王を自称し年号を安楽と建てた。
  • 突厥の曷娑那可汗の弟闕達度闕設が会寧川の部落二千余騎を率いて可汗を自称し軌に帰順した。

李軌――涼王受封と内紛

  • 武徳元年冬、軌は皇帝を僭称し、子伯玉を皇太子、曹珍を左僕射とした。降将の処遇では殺戮・略奪を戒め、統師・士政を官職に留めた。
  • 薛舉の侵攻を李贇が昌松で撃破し二千級を斬り全軍を捕虜としたが、軌は李贇の進言(皆殺しにすべし)を退け、天命によって主を捕らえられれば士卒は自ずと己のものになるとして解放した。まもなく張掖・燉煌・西平・枹罕を陥落させ河西五郡を制圧した。
  • 吏部尚書梁碩は謀主として重用されていたが、諸胡の警戒を進言したことから戸部尚書安修仁と対立、軌の子仲琰の恨みも絡んで讒言され、鴆殺された。これにより人心が離れ始めた。
  • 高祖は使者を送り軌を従弟と呼んで懐柔、涼州総管・涼王に冊封した。軌は群臣に帝号を去るか諮り、曹珍は蕭詧の故事(梁帝を称しつつ周に臣従)に倣うよう進言、軌もこれに従った。

李軌――安興貴の謀略と滅亡

  • 二年、軌は尚書左丞鄧曉を入朝させ「皇従弟大涼皇帝臣軌」と称して官職は受けなかった。胡巫の妄言により玉女降臨の台を築くなど浪費が重なり、折しも飢饉で人が人を食う惨状となった。
  • 軌は私財を尽くして賑恤したが行き渡らず、倉を開いて粟を給すべきかを議した。曹珍らは開倉を主張したが、隋の旧官謝統師らは胡人と結んで反対し、曹珍を誹謗した。軌はこれに従い、士庶の怨みを買った。
  • 安修仁の兄興貴が高祖の命で涼州に入り、軌に自安の策と称して唐への帰順を説いたが、軌は呉濞の「東帝」の故事を引いて西帝を称する意志を変えなかった。
  • 興貴は修仁らと謀り、薛舉の旧将奚道宜(軌の処遇に不満を抱いていた)らと共に挙兵、軌は城に籠もったが、興貴が「唐が李軌誅殺のために遣わした、従わぬ者は三族を誅す」と布告すると城中の老幼はことごとく修仁の側についた。
  • 軌は「人心すでに去れり、天が我を滅ぼすのか」と嘆き、妻子と玉女台に登り訣別の宴を開いたところを修仁に捕らえられた。長安にいた鄧曉が軌の敗報を喜んだため、高祖はその不忠を叱責し官を廃した。軌は誅殺され、興起から三年で河西は平定された。興貴は涼国公、修仁は申国公に封じられた。

劉武周――出自と挙兵

  • 劉武周、河間景城の人。父匡の代に馬邑へ移った。驍勇で弓を善くし豪侠と交わった。楊義臣の下で戦功を挙げ、鷹揚府校尉となり太守王仁恭に重用された。
  • 仁恭の侍児と密通したことが露見するのを恐れ、また天下の乱れに乗じ、飢饉の窮状を訴えて人心を煽動、張万歳らと謀り仁恭を斬殺、倉を開いて窮民を賑わせ、境内の諸城を糾合して一万余の兵を得た。

劉武周――定楊可汗と晋陽攻略

  • 太守を自称し突厥に通じた武周は、隋の陳孝意・王智辯の軍を突厥の援軍を得て撃破、樓煩郡・汾陽宮を攻略し、突厥始畢可汗から馬を贈られ勢威を強めた。突厥から定楊可汗に立てられ、皇帝を僭称、年号を天興と建てた。
  • 群盗の首領宋金剛が敗残の兵四千を率いて帰順すると武周は大いに喜び、宋王と号し軍事を委ね、家産を分け与えた。金剛の進言で晋陽攻略を図り、突厥の兵も合わせて并州を侵し、太原を陥落させた。
  • 続いて晋州・澮州も攻略、夏県では呂崇茂が魏王を称して呼応、関中は震撼した。

劉武周――太宗の反撃と敗亡

  • 高祖は太宗に討伐を命じ、柏壁で対陣。永安王孝基らの軍は呂崇茂・尉遲敬德に敗れたが、太宗は敬德を美良川で破り、蒲州でも再度撃破した。
  • 宋金剛の絳州包囲は太宗の帰還により解かれ、糧道の断絶で金剛軍は退却、太宗は雀鼠谷で追撃し一日八戦してことごとく破った。介州での決戦でも金剛は敗走、尉遲敬德・尋相・張万歳らは相次いで唐に降った。
  • 武周は五百騎で并州を捨て突厥へ亡命、後に馬邑帰還を図るも露見し突厥に殺された。挙兵から死まで六年であった。
  • 武周の南侵に際し、苑君璋は「唐の勢いは天命であり、深入りは危険。突厥と結び自立するのが上策」と諫めたが武周は聞かず、敗北後にその言を用いなかったことを悔いた。

苑君璋――劉武周没後の去就(附伝)

  • 武周の死後、突厥は君璋を大行台として旧衆を統べさせた。部将高滿政は突厥を殺して唐に帰すよう説いたが君璋は従わず、滿政は君璋を追放し朔州総管として唐に降った。
  • 翌年、君璋は突厥と共に馬邑を攻め滿政を討ったが、次第に勢力が衰え、高祖に降ることを願い出た。突厥頡利可汗の召還に迷ったが、子孝政・恆安人郭子威の進言で恆安に拠ったのち、頡利の政乱を見て結局唐に帰順、安州都督・芮国公に封じられた。

高開道――出自と燕王僭号

  • 高開道、滄州陽信の人。塩を煮て生計を立て、勇力に優れた。豆子で挙兵した格謙に従い、その滅亡後は自ら軍を興し滄州を掠め漁陽郡を陥落させ、燕王を自称した。
  • 懐戎の沙門高曇晟が反乱を起こし大乗皇帝を称した一件では、開道は招かれて義兄弟の契りを結んだが、後に曇晟を殺してその軍を併呑した。

高開道――唐への帰順と離反

  • 武徳三年、再び燕王を称した開道は羅藝の求めに応じ竇建德の囲みを解かせ、これを機に唐に降り北平郡王・李姓を賜り蔚州総管となった。
  • 幽州の飢饉に乗じ羅藝の粟の依頼を利用してこれを留め置き、突厥と結んで再び燕国を称し離反した。以後、劉黑闥と結んで易州を攻めるなど、恆・定・幽・易の諸州を悩ませた。

高開道――張金樹の謀反と自殺

  • 天下大定に及び降伏も考えたが再三の離反を恐れ、突厥に頼り続けた。将士の多くは望郷の念で人心が離れ、劉黑闥の亡将張君立が張金樹と結んで謀反を図った。
  • 金樹は開道の親兵「義児」の弓弦を密かに断ち武器を隠したうえで襲撃、義児は戦えず金樹に降った。開道は逃れられぬと悟り、妻妾・子を先に縊り自らも自殺した。金樹の軍は義児を捕らえて斬り、張君立も殺された。開道の興起から滅亡まで八年、その地は媯州とされた。

劉黑闥――出自と竇建德との関係

  • 劉黑闥、貝州漳南の人。無頼で酒と博打を好み家業を顧みなかった。竇建德と親しく、隋末は郝孝德・李密・王世充の下を転々とし、密の裨将・世充の騎将を経て建德に帰し、漢東郡公に封じられ奇兵を率いた。
  • 敵情偵察を得意とし軍中で神勇と称された。建德敗死後は漳南に隠れていたが、高祖が建德の旧将を長安に招集したのを機に、范願・董康買・曹湛・高雅賢らが復讐の挙兵を謀り、劉氏を主に立てるべしとの占いにより黑闥を推戴した。
  • 黑闥は挙兵し漳南県を破り、貝州刺史戴元詳・魏州刺史権威を撃破してその兵器・兵を吸収、旧建德配下が次々に帰参し兵は二千に達した。

劉黑闥――挙兵と山東平定

  • 武徳四年七月、漳南に壇を設け建德を祭って大将軍を自称、淮安王神通ら唐軍を相次いで撃破。建德の旧地を糾合し高開道とも連携、黎州総管李世勣を破り洺州を陥落させた。
  • 突厥からも援兵を得て相州を陥し半年で建德の旧地をほぼ回復、兗州の徐圓朗も呼応してその勢力はさらに拡大した。

劉黑闥――太宗による洺水の戦いと敗走

  • 五年正月、相州で漢東王を僭称し年号を天造と建て、建德時代の文武百官をほぼ復した。太宗自ら討伐に赴き衛州に布陣、黑闥はたびたび挑発したが撃退され、洺水の防衛戦でも羅士信を失いつつ籠城した。
  • 太宗は洺水の上流を堰き止めて決戦に備え、黑闥軍が渡河中に堰を切らせて水攻めにし、万余を斬り数千を溺死させる大勝を得た。黑闥は千余騎で突厥に奔り、山東は平定された。

劉黑闥――再挙と滅亡

  • 六月、黑闥は突厥の兵を借りて再び山東に侵攻、旧将曹湛・董康買と合流。淮陽王道玄・史萬寶を下博で破り道玄を戦死させ、河北諸州は再び黑闥に帰した。
  • 高祖は齊王元吉、続いて隱太子建成に討伐を命じ、館陶で大破。永濟渠での戦いに敗れた黑闥は饒陽まで逃れたが従者はわずか百余人となり、配下の葛德威に偽って迎えられたところを捕らえられ、洺州で斬られた。山東は再び平定された。

徐圓朗――挙兵と黒闥への呼応、滅亡(附伝)

  • 徐圓朗、兗州の人。隋末に挙兵し兗州一帯を制し、李密・王世充を経て唐に帰し兗州総管・魯郡公に封じられた。
  • 劉黑闥の挙兵に呼応して魯王を自称、葛国公盛彥師を捕らえ、黑闥から大行台元帥に任じられ兗・鄆・陳・杞・伊・洛・曹・戴の八州が呼応した。
  • 太宗の黑闥討伐後、淮安王神通・李世勣の攻撃を受け、城内の百姓が城を越えて次々投降、圓朗は数騎で城を脱出したが野人に殺され、その地は平定された。

史論

  • 史臣曰く、薛舉父子は勇悍で殺戮を好み、特に仁杲は恩を施さず衆に叛かれて滅んだ。李軌は隋の官を殺さず捕虜を放つなど当初は人心を得たが、謀主を殺し妖巫を信じたことで衆叛親離となり滅んだのは当然である。劉武周は当初小賊にすぎなかったが偶然勢いを得、苑君璋の諫言を用いず突厥に殺された。君璋が頡利の帰順を見て自らも機を見て唐に帰したのは見識があったといえる。劉黑闥・高開道は勇にして謀なく、その用兵はただ狂賊にすぎず、いずれも配下に殺された。将としての人の御し方に誤りがあったのである。
  • 賛に曰く、国に紀綱なければ盗賊が草澤に興る。隋の乱がなければ、どうして唐の徳を知りえようか。