舊唐書卷五十八

(本文冒頭の#+TITLE:が「==王世充==」という見出し文字列に化けており、本文中にも巻頭行「舊唐書卷○○」が見当たらない。書誌情報#+PROPERTY: JUAN 58により巻番号を五十八とし、内容から王世充・竇建德の合伝と判断して見出しを立てる。)

王世充――出自と隋官人としての立身

  • 字は行満、本姓は支氏、西域胡人の出で新豊に寓居した。祖父支頹耨は早世、父は母の再嫁先の霸城王氏の姓を冒し汴州長史となった。世充は経史・兵法・亀策推歩の術に通じ、開皇中に軍功で儀同となり兵部員外郎に進んだ。弁舌に長け法律に明るいが、口先で理を曲げるところがあり、議論で誰も彼を屈服させられなかった。
  • 大業中、江都丞兼江都宮監となり、煬帝の江都行幸のたびに顔色をうかがい阿諛し、池台を飾り珍物を献じて寵愛を得た。隋政の混乱を見越して豪傑と結び、囚人を枉法で釈放して私恩を売った。楊玄感の乱に呼応した江南の朱燮・管崇の乱では偏将として活躍し、戦功を部下に譲って人望を集めた。

王世充――群盗討伐の武功

  • 大業10年、齊郡の賊帥孟譲討伐では都梁山に五柵を築き偽って劣勢を装い油断させたのち奇襲で大破し(斬首1万余、捕虜10万余)、煬帝に将帥の才を認められた。11年、雁門で突厥に包囲された煬帝救援に自ら蓬髪垢面で悲泣し忠誠を示し信任を深めた。12年、江都通守に転じ、格謙・盧明月ら諸賊を破った。
  • 李密が洛口倉を陥落させ東都に迫ると、煬帝の命で洛口で李密と百余戦を交えるが勝敗つかず、渡河しての決戦で大敗(溺死者1万余)し、寒中の撤退でも数万の凍死者を出し、河陽に千余人で辿り着く惨状となった。自ら獄に繋がれ罪を請うたが越王侗の赦しで洛陽に呼び戻され、含嘉倉城で残兵1万余を再編した。

王世充――東都の実権掌握

  • 宇文化及の変後、太府卿元文都・武衛将軍皇甫無逸・右司郎中盧楚が越王侗を擁立し、世充は吏部尚書・鄭国公となった。文都は李密に高位を与え化及と共倒れさせる策(両虎自闘の計)を進言し、李密を太尉・尚書令に任じ化及討伐を命じた。世充は李密が勝てば自分たちが除かれると諸将を煽り、これを察知した文都らは世充暗殺を企てたが、納言段達の裏切りで露見。世充は宮城を包囲し文都らを殺害、越王侗を脅して尚書左僕射・総督内外諸軍事となり朝政を専らにした。兄王世惲を内史令、子弟を諸城に配して軍権を固めた。

王世充――李密の撃破と禅譲の演出

  • 李密が化及を破った直後の疲弊に乗じ、世充は「周公の託宣」を偽装して兵の士気を高め(楚人の兵は妖言を信じやすいことを利用)、偃師北山の李密軍を夜襲で大破し、張童仁・陳智略らを降し洛口を制圧、李密は唐に投降した。世充は太尉となり、上書求賢の三榜(文才・武芸・冤罪救済)を掲げて人気取りを図る一方、道士桓法嗣の『孔子閉房記』『荘子』を用いた符命の捏造、鳥に符命を書いて放つ演出などで簒奪の正当化を進めた。段達・雲定興らに禅譲を求めさせ、越王侗は当初これを拒んだが、脅迫の末、開明元年4月、王世充は帝位に即き国号を「鄭」とし、一族を諸王に封じ、子王玄応を皇太子とした。世充は民情を聞くと称して路傍で聴政する演出を行ったが、実効は伴わなかった。

王世充――内乱と失政

  • 開明元年5月、礼部尚書裴仁基・子裴行儼らが世充誅殺と侗の復位を謀るが露見し三族皆殺しとなった。6月、世惲の勧めで甥王行本に命じ侗を鴆殺し(恭皇帝と諡)、羅士信ら部将の離反も相次いだ。竇建徳との衝突(殷州での報復)も始まった。
  • 開明3年2月以降、世充は逃亡者への厳罰(一家一人逃亡で全員誅殺、五家連座制)、宮城を大獄と化す猜疑統治を敷き、食糧窮乏で城内は人相食む惨状となった(土を淘汰して浮泥を米屑と練り食すなど)。秦王李世民の攻勢が始まると諸城が次々降伏。世充は青城宮で秦王と対峙し「関中と洛陽で分治すればよい」と講和を求めたが、秦王は「四海はみな正朔に服すのに公のみ迷妄」と一蹴した。

王世充――竇建徳との連携と滅亡

  • 竇建徳と修好し兄の子王琬・内史令長孫安世を派遣して援軍を乞うたが、開明4年3月、秦王は虎牢で竇建徳を捕らえ、洛陽城下に示して降伏を促した。世充は襄陽への脱出も断念し、部将段達・楊注・単雄信・楊公卿ら十余人と共に軍門で降伏。黄門侍郎薛徳音(不遜な檄文の作者)は先に誅され、段達ら党与も洛渚で処刑された。
  • 高祖は世充の罪を数え上げたが、秦王の助命の約束により死は免れ、蜀へ徙されることとなったが、道中で仇の定州刺史独孤修徳に殺された。子王玄応・兄王世偉らは道中で謀反を企て誅殺された。世充の簒位からわずか3年での滅亡であった。

竇建德――出自と挙兵の経緯

  • 貝州漳南の人。若くして信義を重んじ、貧しい郷人の葬儀のために耕牛を差し出すなど義侠で知られた。里長の職にあったが法に触れて逃亡し赦免で帰郷、父の葬儀では贈物をすべて辞退した。
  • 大業7年、高麗遠征の徴募で二百人長となった。同県の孫安祖が水害で妻子を失いながら徴発されそうになり県令を殺して建德の下に逃れると、建德は山東の飢饉と圧政を見て「高鶏泊に拠って挙兵すべし」と説き、安祖に数百人の逃亡兵を率いさせた。張金称・高士達らも各地で挙兵し、郡県は建德を賊徒と誤解して家族を皆殺しにしたため、建德は高士達(東海公を自称)の下で司兵となった。安祖没後その兵も建德に帰し、建德は身をもって士卒と労苦を共にし1万余の兵を得た。

竇建德――高士達配下での躍進

  • 大業12年、涿郡通守郭絢の討伐軍に対し、建德は士達との不和を偽装し詐って絢を油断させ、大破して(数千を殺略、馬千余匹を得る)勢威を高めた。太僕卿楊義臣が張金称を破り高鶏泊に迫った際、建德は「義臣は隋の名将、正面衝突は不利」と士達に避戦を進言したが聞かれず、士達は緒戦の小勝に驕り義臣に大敗して戦死した。建德は事前に精鋭を伏せて備えていたため難を逃れ、饒陽を攻略し兵を再編、士達の遺骸を厚く葬り将軍を称した。士人には恩遇を加え(饒陽県長宋正本を上客に迎える等)、勝兵10万余に達した。

竇建德――長楽王・夏王としての国家建設

  • 大業13年正月、河間楽寿で長楽王を称し丁丑の元号を建てた。同年7月、隋の薛世雄の討伐軍3万を偽退却からの奇襲で大破し(万余の死者)、河間城を攻略、隋郡丞王琮が煬帝弑逆の報に降伏を申し出た際は「義士」として礼遇し瀛州刺史に任じた。
  • 武徳元年冬至、金城宮での祥瑞(五大鳥飛来)により「五鳳」と改元、玄珪の献上を受けて国号を「夏」とした。魏刀児(歴山飛)を騙し討ちで併呑し勢力を拡大した。

竇建德――宇文化及討伐と統治

  • 武徳2年、宇文化及の煬帝弑逆を国子祭酒孔徳紹らと討議し「天下の賊」として討伐を決意、連戦の末聊城を陥落させ、化及・その二子を斬り、弑逆の首謀者宇文智及・楊士覧らも処刑した。隋の蕭皇后には臣礼をとって謁見した。
  • 建德は戦利品をすべて将士に分与し自らは粗食を貫き、妻曹氏も質素であった。得た宮人・降兵を大量に放免し、裴矩・崔君粛・何稠ら隋の旧臣を尚書省の要職に登用した。洺州(万春宮)に遷都し、王世充と一時修好したが、世充が越王侗を廃し自立すると絶交、自ら天子の儀仗を用い、煬帝を閔帝と追諡し斉王暕の子楊政道を鄖公に封じるなど独自の権威を演出した。突厥とも結び蕭皇后を送還するなど連携を深めた。

竇建德――河北経略と唐との駆け引き

  • 武徳2年9月、相州・衛州・黎陽を攻略し李世勣・淮安王神通・同安長公主を捕虜としたが、忠義を貫いた滑州刺史王軌の忠臣ぶりに感じ入りその主殺しの奴を斬るなど公正さも見せ、徐円朗ら諸勢力の帰順を促した。武徳3年正月、李世勣が父を残して脱走した際も「本来唐の臣、忠臣である」として父を罰しなかった。高祖との連和では同安長公主を送還し、趙州で捕らえた張昂・陳君賓らも国子祭酒凌敬の諫言で助命するなど寛厚な一面もあった一方、讒言を信じ大将王伏宝や納言宋正本(直諫の臣)を誅殺するなど失策も重ね、政教は次第に衰えた。

竇建德――王世充救援と虎牢の戦い

  • 孟海公討伐(周橋城陥落)の最中、中書舎人劉斌の「唐・鄭・夏の鼎足の勢」論に基づき王世充救援を決意。武徳4年2月、孟海公を破り徐円朗の兵も加え世充救援に向かい滎陽に布陣した。秦王が武牢に入り対峙する中、凌敬は太行を越え上党を衝く迂回策を進言したが、世充の使者長孫安世の賄賂工作で退けられ、妻曹氏の同様の進言も「鄭の懸命を見捨てられぬ」として却下し、正面決戦を選んだ。汜水での決戦で秦王の騎兵突撃を受け大敗、建德自身は牛口渚(「豆入牛口、勢不得久」の童謡通りの地名)で捕らえられた。
  • 妻曹氏と左僕射斉善行は数百騎で洺州に逃れたが、「天命の帰趨は明らか」として財物を将士に分与し軍を解散、伝国璽など八璽を携えて唐に降った。武徳4年7月、竇建德は長安の市で斬られた(享年49)。挙兵から滅亡まで6年、河北は平定されたが、その年のうちに劉黒闥が再び山東で乱を起こした。

史論

  • 史臣は評す。王世充は奸人であり昏主に遇して媚びへつらいで栄名を得、強弁で論を制した末に簒逆に至り、任用した者の多くが叛いたが、秦王への降伏で顕戮を免れたのは幸運というべきである。竇建德は郷里で義侠を貫き河朔に拠って士卒を撫育し賢良を招いたが、王世充を見限らず化及を討ち徐蓋(王軌の話)を殺さず神通を生かして帰した果断さがあった。しかし宋正本・王伏宝を讒言で殺し、凌敬・曹氏の献策を用いなかったことで滅亡を招いた。始めあって終わりなく、天命の帰するところは人智の及ぶところではなかった。
  • 賛にいう。世充は簒逆をなし、建德は諫言に背いた。二凶が誅されて中原の乱は鎮まった。