総序
- 古の聖人は父母として礼を制して敬を崇め、刑を立てて威を明らかにし、未然に防ぎ争いの心が起こるのを恐れた。三典・五刑の軽重の差は時に応じ事に応じて定められた。淳朴が失われると刑は9種・条章3千に増え、漢から隋まで増減があったが折衷を得ることは稀であった。隋の文帝は周・斉の旧政を参考に律令を定め苛酷な法を除いて寛平を務めたが晩年には再び厳しくなり、煬帝の猜忌により法令はいっそう峻厳となり隋は滅んだ。
高祖・武徳の律令制定
- 高祖は太原挙兵の当初から寛大な令を布き、隋の苛政に苦しんだ百姓が競って帰附し、旬月の間に帝業を成した。長安平定後は「約法十二条」(殺人・劫盗・背軍・叛逆のみ死罪、他は除く)を定め、受禅後は納言劉文靜らに開皇律令を基に増損させ、大業の煩峻な法をすべて削り、53条の格を定め寛簡を旨とした。裴寂・蕭瑀・崔善為・王敬業・劉林甫・顔師古・王孝遠・靖延・丁孝烏・房軸・李桐客・徐上機らに律令の撰定を命じ、開皇律を大略の基準としつつ53条の格を新律に組み込み、武徳7年5月に奏上され頒行された(詔の内容は歴代の刑法史を概観し「補千年之墜典」を掲げるもの)。
太宗の律令改正
- 太宗即位後、長孫無忌・房玄齢が学士法官と改訂を進めた。戴冑・魏徴の建言により絞刑50条を右趾切断に減じたが、太宗は肉刑の痛苦を憐れみ、王珪・蕭瑀・陳叔達らとの議論の末、蜀王法曹参軍裴弘献の建言(「古の五刑に刖を含めるのは煩雑」)により、断趾法を廃して加役流(3千里・居作2年)に改めた。
- また旧条では謀反連坐で祖孫まで配没となる規定があったが、同州の房強の事件を機に太宗が「反逆にも興師動衆と悪言犯法の軽重の差があるのに一律連坐死は不当」と述べ、玄齢らが議論の末、祖孫連坐は配没のまま、悪言犯法で害のない兄弟は死を免じ配流とする改正を行い、以後の死刑は旧来のほぼ半分になった。
- 玄齢らは法司とともに律500条・12巻(名例・衛禁・職制・戸婚・厩庫・擅興・賊盗・闘訟・詐偽・雑律・捕亡・断獄)を定めた。刑は笞・杖・徒・流・死の五刑20等(笞5条10〜50、杖5条60〜100、徒5条1年〜3年、流3条2千里〜3千里、死2条=絞・斬)とし、議親・議故・議賢・議能・議功・議貴・議賓・議勤の「八議」による減贖当免の法、贖銅の等級(笞10で銅1斤〜死罪で銅120斤)、官当(五品以上は1官で徒2年に当てる等)、十悪(謀反・謀大逆・謀叛・悪逆・不道・大不敬・不孝・不睦・不義・内乱)の規定を設けた。70歳以上・15歳以下・廃疾者は流罪以下贖を許し、80歳以上・10歳以下・篤疾者は反逆殺人以外は罪に問わず、90歳以上・7歳以下は死罪でも刑を加えないとした。隋の旧律に比べ大辟を減じたもの92条、流を徒に減じたもの71条に及んだ。
- また令1590条・30巻を定め貞観11年正月に頒下、武徳・貞観以来の敕格3千余件から700条を留め格18巻とした。歴代の格・式(『貞観格』18巻・房玄齢等、『永徽留司格』18巻・『散頒格』7巻・長孫無忌等、『永徽留司格後本』・劉仁軌等、『垂拱留司格』6巻・『散頒格』3巻・裴居道、『太極格』10巻・岑羲等、『開元前格』10巻・姚崇等、『開元後格』10巻・宋璟等)が編纂され、式33篇・20巻も同様に整備された(『永徽式』14巻、『垂拱』『神龍』『開元式』各20巻)。
太宗の刑罰運用と死刑慎重化
- 太宗は在京の囚人を刑部に毎月奏させ、立春から秋分までは死刑執行を禁じ、大祭祀・致斎・朔望・上下弦・二十四気・雨天・夜間・断屠日・仮日にも死刑執行を禁じた。赦の日には金鶏・鼓を宮城門外に設け囚徒を集めて赦を宣した。械具(枷・杻・鉗・鎖)や杖・訊囚杖・常行杖・笞杖の規格を定め、拷問は3度・総数200を超えないとし、罪の軽重により類推適用の原則(出罪は重きを挙げて軽きを明らかにし、入罪は軽きを挙げて重きを明らかにする)を定め、断罪の失錯には失入(減3等)・失出(減5等)の罰を課した。
- 太宗は大理丞張蘊古が李好德(風疾の妄言)の無罪を奏したが治書侍御史権万紀の弾劾により処刑した後に後悔し、交州都督盧祖尚の処刑も後悔した経験から、死刑は三覆奏を経る制を定めた。しかし三覆奏が形式的に短時間で終わることを問題視し、二日で五覆奏(決の前日・前々日に覆奏、決の日にさらに三覆奏。悪逆犯のみ一覆奏)に改め、刑執行日は酒肉を断ち教坊・太常の音楽を停止し、律文上は死罪でも情状酌量の余地があれば門下省が録状して奏することとした結果、多くの命が救われた。
高宗の律令整備と『律疏』
- 太宗が張蘊古を誅した後、法官が失入を戒めるあまり失出に甘くなり法網が密になった問題を、大理卿劉徳威が指摘し(失入減3等・失出減5等の不均衡)、太宗はこれを容れて出入の均衡を図らせた。貞観14年、流罪3等を里数に限らず辺悪の州に配する制を定めた。
- 高宗は貞観の故事を遵い恤刑に努め、大理卿唐臨に囚数を問い「見囚50余人のうち死罪はわずか2人」と聞いて喜んだという。永徽初、長孫無忌・李勣・于志寧・高季輔ら16名が律令格式を撰定し、格を留司格(曹司常務)と散頒格(天下共通)に分けた。永徽3年、律学に定疏がないため長孫無忌・李勣・于志寧・唐臨・段宝玄・劉燕客・賈敏行らが『律疏』30巻を撰し永徽4年10月に頒行、以後の断獄はこれに基づいた。永徽5年、高宗は「刑罰の枉濫を避けたい」と侍臣に述べ、長孫無忌は「陛下が寛平を望んでも法吏の弊風は久しく、情に体国の者は愚人と呼ばれ深文の者は好吏とされる」実情を指摘した。永徽6年には条例の煩雑さを問題視し、于志寧が隋律から500条に絞り込んだ経緯を説明した。
龍朔〜儀鳳の格式改訂と『法例』の廃止
- 龍朔2年、官号改称に伴い源直心・李敬玄・李文礼らが曹局の名のみ改めて格式を改訂し麟徳2年に奏上。儀鳳中、官号復旧に伴い劉仁軌・戴至徳・張文瓘ら多数が格式を刪緝し儀鳳2年2月に撰定奏上した。詳刑少卿趙仁本の私撰した『法例』3巻が断獄の折衷に用いられていたが、高宗はこれを煩文として斥け、律令格式こそが天下の通規であり別に「例」を作る必要はないとして『法例』は廃された。
則天武后の御制度と酷吏の弊
- 則天武后は垂拱初年、四面に延恩匭(自薦・封爵)・招諫匭(諫言)・申冤匭(冤罪訴え)・通玄匭(天象兵謀)の四つの銅匭を設け天下の上書を集めた。裴居道・岑長倩・韋方質・袁智弘らに格式を刪改させ計帳・勾帳の式を加え、武徳以来の便宜な詔勅を『新格』2巻(則天自序)に、その他を『垂拱留司格』6巻にまとめた。
- しかし則天は徐敬業の乱・豫州博州の兵乱後、酷吏を用いて深文により獄事を処理させた。長寿年間、司刑評事万国俊が嶺表の流人の謀反を摘発する名目で広州で300余人を一度に殺害し反状を捏造した後、他の道でも劉光業(900人誅殺)・王徳寿(700人)ら「摂監察御史」による大量殺戮が行われた。周興・来俊臣らは麗景門内に「新開獄」を置き、侯思止・王弘義・郭霸・李敬仁・康暐・衛遂忠らと共に密告者を組織して良善を陥れ、『告密羅織経』を著し、酢を鼻に注ぐ、甕に入れて火で炙る、飢餓させるなどの拷問と、10種の大枷(定百脈・喘不得・突地吼など)を用いた。赦令が出る前には重罪囚をあらかじめ処刑してから宣示するなどの非道が行われ、天下は恐怖に沈んだ。
- 麟台正字陳子昂は上書し、王者・覇者・強国の三段階の統治論を説き、酷刑への依存を隋末の煬帝が楊玄感討伐後に樊子蓋の大量誅殺により天下の乱心を招いた先例と重ね、また漢武帝の巫蠱の獄(江充の讒言により太子が兵乱に追い込まれた事件)を引き、天下は久しく安寧を望んでいるとして寛刑を訴えたが、この上疏は容れられなかった。
- 司刑少卿徐有功は酷吏の奏に反駁し廷争を続けて多くの命を救った。来俊臣・王弘義らが誅殺された後、王及善・姚元崇・硃敬則ら宰相が垂拱以来の冤罪を指摘し則天も自覚を深めた。監察御史魏靖は上書し、周興・来俊臣・丘神勣・万国俊・王弘義・侯思止・郭弘霸・李敬仁・彭先覚・王徳寿・張知黙を「四凶」になぞらえ、来俊臣の誅殺理由(良善を羅織し忠賢を陥れた罪)を説き、これらの獄で命を落とした者の再審を求め、これが容れられて三司による重推勘と冤罪の雪免が行われた。
中宗〜開元の法典整備
- 中宗神龍元年、徐有功に越州都督を追贈し一子に官を授ける一方、丘神勣・来子珣・万国俊・周興・来俊臣ら垂拱以来の枉濫殺人者23人の官爵を追奪した。韋安石・祝欽明・蘇瑰・狄光嗣らが『垂拱格』以後の制敕を『散頒格』7巻に、式を20巻に整理し天下に頒布した。景雲初、睿宗は岑羲・陸象先・徐堅ら10人に格式律令を刪定させ、太極元年2月に『太極格』として奏上された。
- 開元初、玄宗は盧懐慎・李乂・蘇頲らに格式令を刪定させ開元3年3月『開元格』を奏上、開元6年には宋璟・蘇頲らに律令格式を刪定させ7年3月『開元後格』を奏上した。開元19年、裴光庭・蕭嵩は格文と実際の制敕の齟齬を是正するため『格後長行敕』6巻を撰し天下に頒布した。開元22年、李林甫(後に牛仙客・王敬従らと)が格式律令および敕を刪緝し、旧7026条のうち1324条を削除・2180条を修正・3594条を存置し、律12巻・律疏30巻・令30巻・式20巻・『開元新格』10巻、および類書『格式律令事類』40巻を編纂、開元25年9月に奏上され尚書都省で50本が写され天下に頒布された。同年の刑部断獄では天下の死罪はわずか58人となり、大理少卿徐嶠は大理獄院の樹に鵲が巣を作ったことを瑞祥として上奏し、玄宗は牛仙客を邠国公、李林甫を晋国公に封じ刑部大理の官に絹2千匹を賜った。
天宝の乱後の三司推鞫(粛宗)
- 顕慶から先天までの60年間、高宗は寛仁で政は後宮に帰し、則天女帝は猜忌深く酷吏を用いて宗室大臣を陥れ李氏の危機を招いた。神龍以後は后族が権を握り、開元の40余年は太平であったが、安禄山の乱で玄宗は巴蜀に逃れ、粛宗が朔方で即位し1年足らずで京邑を回復した。両京の脅従官の処罰を巡り、御史大夫兼京兆尹李峴・呂諲・崔器・韓択木・厳向の五人による三司使が置かれ、崔器は脅従官を裸足で撫膺号泣させて謝罪させる過酷な儀を主導したが、李峴が力争して罪を6等に分け、達奚珣ら11人は子城西で処刑、陳希烈ら7人は大理寺獄で自尽を賜り、達奚摯ら21人は京兆府門で杖死、大理卿張均は流刑に減じられ、達奚珣・韋恆は腰斬に処された。この厳罰は、当初粛宗が慶緒配下の史思明・高秀岩らに復位を許した方針と矛盾し、彼らを再び叛乱に追いやる一因ともなった。三司の推鞫は連年決着せず、王璵が宰相となって未決分を一斉に放免し人望を集めた。魏州から帰国した蕭華は、陳希烈らの処刑が河北の帰順意欲を大きく削いだ経緯を語っている。
- その後も毛若虚・敬羽らが深酷な取り立てで権柄を求め、6、7年間大獄が相次いだ。粛宗は晩年「朕は三司に誤られた、深く恨む」と悔い、臨終に元載を相として天下の流降人を一斉に放免する詔を出した。
代宗〜元和の恤刑と改革
- 代宗宝応元年、回紇が史朝義に勝利し捕らえた妻子480人を、良家の子女として万年県の勝業仏寺に安置し糧料を給し、親族があれば返し、なければ適処させる措置をとった。大暦14年6月、徳宗は大赦を行い律令格式の齟齬を中書門下と刪定官に整理させ、三司使は御史中丞・中書舎人・給事中各1人で構成した。建中2年、刪定格令使・三司使を廃し中書門下がこれを兼ね、後に刑部・御史台・大理寺の三司に復した。元和4年9月、大理寺・刑部の断獄期限(大理寺20日・刑部10日等)を定めた。
- 元和6年9月、富平県人梁悦が父の仇秦果を殺し自首した事件で、「復讐は彝典であるが自首の意志を汲み減死とする(杖100・循州配流)」との勅が出た。職方員外郎韓愈はこの詔に対し議論を献じ、『春秋』『礼記』『周官』に見える復讐の礼と律文の沈黙の意味を説き、復讐の事情は一様でないため、案件ごとに尚書省で集議して処断する制度を提案した。
- 元和13年8月、鄭余慶ら『格後敕』30巻を撰し、許孟容・蒋乂らが刪定して30巻に、劉伯芻らがさらに考定した。長慶元年5月、御史中丞牛僧孺は獄事の遅滞を憂え、大事・中事・小事に分けた断獄期限を提案し許可された。長慶2年4月、刑部員外郎孫革は、父を救うため人を殺した14歳の少年康買得の孝心を酌量し減死1等とする勅を得た。
大和〜大中の法典整理
- 大和7年12月、謝登『新編格後敕』60巻を整理し繁を去り要を挙げて50巻とした。8年4月、軽罪者への鞭背(背への鞭打ち)を太宗の故事に倣い禁じたが、京兆尹韋長の奏により軽重に応じた運用が許された。開成4年、両省が『刑法格』10巻を撰し施行。会昌元年9月、五品以上の贓官が死刑に当たる場合は自宅での死を永格とすることが定められた。大中5年4月、劉彖らが貞観2年から大中5年までの224年間の雑敕646門2165条を『大中刑法総要格後敕』60巻にまとめ、大中7年5月には張戣が『大中刑法統類』12巻を進上し、刑部により施行が命じられた。