舊唐書卷五十三 志第二十九 食貨下

漕運の沿革(武徳〜開元)

  • 武徳8年12月、水部郎中姜行本の請により隴州に五節堰を開いて水運を通じた。永徽元年、滄州刺史薛大鼎は隋末に埋まった無棣河を開削し海の魚塩を通じさせ、百姓は「新河得通舟楫利、直達滄海魚塩至、昔日徒行今騁駟、美哉薛公德滂被」と歌った。咸亨3年、関中飢饉に際し監察御史王師順が晋・絳州の倉粟の輸送を奏請し、河・渭の間を舟が連なって渭南に集まる運漕は師順に始まる。大足元年6月、東都の立徳坊南に新潭を穿ち諸州租船の停泊地とした。神龍3年、滄州刺史姜師度は薊州の北に漲水の溝を築いて奚・契丹の侵寇に備え、また旧渠を利用して海沿いに漕を通す「平虜渠」を開き海路の危険を避けた。
  • 開元2年、河南尹李傑は汴州東の梁公堰の破損による江淮漕運の途絶を奏し、汴・鄭の丁夫を発してこれを浚渫し公私に利をもたらした。15年正月、将作大匠范安及が鄭州河口の斗門を検分し、洛陽の劉宗器の献策(汜水の旧汴河口を塞ぎ滎沢に梁公堰・斗門を開く)が失敗して宗器が左遷されたのを受け、河南府・懐・鄭・汴・滑の3万人を発して旧河口を疏決し10日で完成させた。

裴耀卿の漕運改革(開元18〜22年)

  • 開元18年、宣州刺史裴耀卿は、江南から都への租庸調輸送が水陸の遠隔と汴河・黄河の水量変化により多大な滞留と損耗を生んでいる実情を詳述し、旧制に倣い武牢倉(黄河口)・洛口倉(洛水口)などの中継倉を活用し、江南船は河口までで折り返し所司が転運する方式への改革を上奏したが、当時は採用されなかった。開元21年、京兆尹となった耀卿は、水害による穀価高騰を機に再び陸運から水運(河漕)への転換を進言し、江南の租船が水待ちで停留し盗難が生じている実情、貞観・永徽の頃は年20万石で足りたが今は数倍の漕運でも足りない実情を説き、河口・三門東西に倉を設けて水の可否に応じて運送を止める方式を提案し、玄宗はこれを深く納得した。
  • 開元22年8月、河陰県および河陰倉・河西柏崖倉・三門東集津倉・三門西塩倉を設置し、三門山を18里にわたり開削して急流を避けた(江淮から鴻溝を遡った米はすべて河陰倉へ、そこから含嘉倉、さらに太原倉へ送る「北運」とし、太原倉から渭水を浮かべて関中に運んだ)。耀卿は黄門侍郎・同中書門下平章事、江淮河南転運都使となり、鄭州刺史崔希逸・河南少尹蕭炅を副とし、3年間で700万石を運び陸運の傭費40万貫を省いた(旧制では東都含嘉倉から陝まで300里、2斛あたり傭銭千文を要した)。翌年耀卿は侍中となり蕭炅が代わった。開元25年には米100万石を運び、29年には陝郡太守李斉物が三門山を鑿って山巓を経由する運送路(船を索で引き上げて安流に出す方式)を開いた。

韋堅・第五琦から劉晏へ(天宝〜大暦)

  • 天宝3載、韋堅が蕭炅に代わり滻水に広運潭を築いて船を蓄えた。同年、楊釗(楊国忠)が殿中侍御史として水陸運使となり堅に代わった。開元初、京師に届く米に砂礫・糠殻が混入していないか篩い分ける「揚擲」の検査が始まった。天宝14載8月、水陸運を1年停止する詔が出た。
  • 天宝以来、楊国忠・王鉷が重使を兼ねて天下の財政を握った。粛宗初、第五琦が銭穀の才で見出され江淮に租庸使を分置し軽貨を市して軍食を救い監察御史・使となった。乾元元年、度支郎中・中丞を兼ね塩鉄使となり、山海の井・灶で塩を榷収する制度を大成し監院官吏を置いた。旧業戸・浮人で塩業を望む者は雑役を免じ塩鉄使に隷属させ、常戸は租庸以外の横賦がなく、増税なしに国用が豊かになった。翌年琦は戸部侍郎同平章事となり、兵部侍郎呂諲が代わった。
  • 宝応元年5月、元載が呂諲に代わった。淮河の兵乱で輸送路が絶えると漢水を遡って輸送し、侍御史穆甯が河南道転運租庸塩鉄使となった。通州刺史劉晏が戸部侍郎・京兆尹・度支塩鉄転運使となり、塩鉄と漕運を兼ねたのは晏に始まる。晏は塩利を漕運の傭賃に充て(江淮から渭橋まで10万斛につき7000緡)、丁男を徴発せず郡県を煩わせずに毎年数千万石を運び、淮北に巡院を置いて能吏を選び、牢盆(塩の製造施設)を広めて商賈を招いた。広徳2年正月、第五琦が度支・鋳銭塩鉄を専判し、晏は河南・江淮以来の転運使兼汴河開削を担当。永泰2年、晏は東道転運常平鋳銭塩鉄使、琦は関内・河東・剣南三川の同使となったが、大暦5年に後者は停止され、晏と戸部侍郎韓滉が分掌、大暦14年には天下の財賦がすべて晏の掌握するところとなった。

建中の楊炎の劉晏排斥と劉晏没後の財政官

  • 建中初、宰相楊炎が劉晏を憎み権を奪い、詔により江淮米の転運を庫部郎中崔河図、鹽鉄財貨を江州刺史包佶が権領することとなり、天下の銭穀は金部・倉部に帰した。晏は忠州刺史に左遷され、まもなく韓洄が戸部侍郎判度支、杜佑が江淮水陸運使となり、楊炎は忠州で晏を殺害した。
  • 兵乱以来の凶荒で京師の米は一斛万銭にまで達し官厨にも蓄えがなかったが、晏の掌国計以来、江淮転運の制が復活し年数十万斛で関中を救い、第五琦に代わり塩務を掌ってその法をさらに精密にし、初年60万銭であった収入が晩年には10倍に達した。大暦末、天下の財の総額1200万貫のうち塩利が半ばを超えた。李霊耀の乱で河南が賊に占拠され賦税が減っても晏は余剰で補填し人に増税しなかったため世に称賛された。晏没後20年間、韓洄・元琇・裴腆・包佶・盧徴・李衡らが相次いで財賦を分掌し、晏の門下から出た者ばかりであった。同年、天下の山沢の利は王者に帰すべしとの詔により塩鉄使が総括することとなった。

塩鉄・両税使の変遷(建中〜元和)

  • 建中3年、包佶が汴東水陸運塩鉄租庸使、崔縦が汴西同使となった。4年、度支侍郎趙賛が竹・木・茶・漆に課税する常平の制を議し、茶税の始まりとなった。貞元元年、元琇が御史大夫として塩鉄水陸運使となり、同年7月尚書右僕射韓滉が統括、滉没後は宰相竇参が代わった。5年12月、揚子からの運米を諸院自らが差配するよう改められた。8年、東南両税財賦を河南・江淮・嶺南・山南東道は張滂、河東・剣南・山南西道は班宏が分掌し、以後戸部が三川塩鉄転運を領するのはここに始まる。両者の優劣を巡り宰相趙憬・陸贄が大暦の故事(劉晏・韓滉の分掌)に倣うよう上聞した。
  • 9年、張滂が茶税法を奏立。裴延齢が度支を専判し塩鉄と分立。10年、潤州刺史王緯が代わり硃方で治め、その後李錡が代わると塩院・津堰を私利のために改変し私路の小堰で通行人から重税を取る弊害が始まった。塩鉄転運には上都留後が置かれ副使潘孟陽が主管し、王叔文も権勢により塩鉄副使兼学士として留後となった。
  • 順徳(順宗)即位後、杜佑が塩鉄転運使となり揚州で治めた。元和2年3月、李巽が代わった。李錡が使であった間は榷酤・漕運を私し貢献のみに専心していたが、巽は事を正し、浙西観察使の管轄下にあった堰埭を回復し、河陰敖倉を増設、桂陽監を置き平陽の銅山で鋳銭させた。塩鉄使の煮塩の利が度支に帰属するのは巽の奏請に始まる。程異を揚子留後とした。巽は元和2年4月に没し、劉晏に次ぐ理財の才として評価された。晏の没後は江淮米の輸送目標50万石(河陰10万・渭倉40万)が久しく達成できなかったが、巽の在任3年間は欠くことがなかった。6月、河東節度使李鄘が代わった。
  • 元和5年、李鄘が淮南節度使となり宣州観察使盧坦が代わった。6年、坦は江淮運米の不足を報告し漸次収糴・貯備することを提案し許可された。坦が戸部侍郎に転じると京兆尹王播が代わり、鹽利の実額算定(虚估4倍を実估に改める)を奏請し許可された。同年の詔で揚子鹽鉄留後が江淮以南両税使、江陵留後が荊衡漢沔東界・彭蠡以南両税使、度支山南西道分巡院官が三川両税使となり、峡内の煎塩五監が塩鉄使から度支に移管された。7年、王播はさらに実估による塩利の増加を報告し、商人の三司間での「便換」(飛銭)の制度も記録される。8年、崔倰が揚子留後兼淮嶺以来両税使、崔祝が江陵留後兼荊南以来両税使となった。13年正月、播は劉晏の故事に倣い副使程異を江淮に派遣して州府の会計を実査させ、閏5月に異が185万貫を得て進上した。播はその後礼部尚書となり衛尉卿程異が代わり、14年に異が没すると刑部侍郎柳公綽が代わった。
  • 長慶初、王播が公綽に代わり、4年には王涯が代わった。敬宗初、播が再び塩鉄使から揚州節度使となり、文宗即位後は宰相が使を判した。王涯は再び両使を判し茶山の民に茶樹の移植と旧貯積の焚棄を求め天下の怨みを買った。大和9年、涯は誅殺され、令狐楚が戸部尚書右僕射として代わり、茶法の破綻を州県に委ね租を戸部に納める方式に改め人々を喜ばせた。開成元年、李石が中書侍郎として茶法を復し貞元の制に戻した。3年、戸部尚書同平章事楊嗣復が多くの監院の旧弊を改革。開成3年から大中壬申年まで15年間、崔珙・杜忭・薛元賞・李執方・盧弘正・馬植・敬晦らの重臣が相次いで担当し、馬植は後に宰相となった。

裴休の漕運・茶法改革(大中)

  • 大中5年2月、戸部侍郎裴休が塩鉄転運使となり、翌年8月に平章事を兼ねたまま使を判した。それまで年40万斛の漕米のうち渭倉に達するのは十のうち三四に過ぎず、漕吏の不正や船の沈没が多かった(年70余隻に及ぶこともあった)。休は僚属に監査させ河沿いの県令に監督させ、江津から渭までの傭賃28万緡を漕吏に還元し巡院胥吏の侵漁を禁じ、十カ条の改革を上奏した。6年5月、さらに茶税法12条を上奏し、宣宗は「裴休は興利除害、深く奉公の姿勢が見える」と詔してすべて許可した。これにより3年で渭浜の漕米は120万斛に達し損失がなくなった。

常平倉・義倉の沿革

  • 武徳元年9月4日、社倉を設置。同月22日の詔で常平監官を置き、市価騰貴時は減価放出、豊作時は増価収糴する方針を示したが、5年12月に常平監官は廃止された。貞観2年4月、尚書左丞戴冑は隋の社倉の故事(開皇の制で節級輸粟し文帝末まで飢饉がなかったが、大業中に国用不足で社倉を流用し末期には支給できなくなった)を引き、王公以下すべての墾田の収穫に応じて粟を出させ「義倉」とし凶年に取り出す制度を提案し、太宗はこれを嘉した。戸部尚書韓仲良の奏により王公以下は墾田1畝につき2升を納め州県に貯えることとなり、以後天下の州県に義倉が置かれ飢饉のたびに開倉賑給された。高宗・則天の頃までは雑用を禁じられていたが、その後公私の窮乏により流用されるようになり、中宗神龍以後は義倉の蓄えがほぼ尽きた。
  • 高宗永徽2年6月、義倉の徴収を地税から戸別(上上戸5石など等差)出粟に改めた。6年、京の東西二市に常平倉を設置。顕慶2年12月、京の常平倉に常平署官員を置いた。開元2年9月、豊作による米価下落で農民が損をしないよう常平の法(時価より2、3銭高く買い上げ、蚕麦の熟する頃に減価放出)を諸州に施行させた。4年5月、義倉米を京へ変造輸送する制度(百姓に脚銭を負担させていた)を廃止。7年6月、関内・隴右・河南・河北等の道と荊・揚・襄など諸州に常平倉を置き、上州3000貫・中州2000貫・下州1000貫の本銭を配した。16年10月、豊作時に加価収糴して倉廩を実らせる措置を令した。
  • 天宝6載3月、太府少卿張瑄が賒糶(後払い)の運用細則を奏上。広徳2年正月、第五琦は常平倉の本銭により時価に応じ収糴・糶売する方針を奏上。建中元年7月、米価高騰時に官米10万石・麦10万石を市に放出する制。3年9月、戸部侍郎趙賛は常平の制の廃絶を憂え、両都・江陵・成都・揚・汴・蘇・洪等に常平を置き本銭百万貫〜数十万貫を配し物価安定に用いることを奏上し許可された。あわせて津要の商人財貨に課税(貫あたり20文、竹木茶漆は11分の1税)し常平本銭に充てたが、実際には常平本銭として蓄積されずに費消された。
  • 貞元8年10月、諸軍鎮の和糴貯備(33万石)を度支の管理下に置く勅。14年6月、米価高騰で官米10万石を両街で放出、同年9月には太倉粟30万石、河南府には含嘉倉粟7万石を放出。15年2月、旱魃飢饉により太倉粟18万石を諸県で放出。元和元年正月、地税の2割を常平倉・義倉に充てる制。6年2月、京畿の常平・義倉粟24万石を百姓に貸与、諸道にも同様の措置。9年4月、太倉粟70万石を放出し賑貸。12年4月、粟25万石を放出、また水害諸州(河中・沢潞・河東・幽州・江陵府等)に義倉粟で賑給。13年正月、戸部侍郎孟簡の奏により常平・義倉の会計を簡略化し州県の権限を強めた。
  • 長慶4年2月、太倉陳粟30万石を両街で放出。同年3月、義倉の私用横領を戒め録事参軍に専管させる制。大和4年8月、関内七州府・鳳翔府での和糴100万石。大中6年4月、戸部の奏により被災州府への迅速な賑貸を可能にする措置がとられた。

建中の間架税・除陌銭

  • 建中4年6月、戸部侍郎趙賛は大田制(田1割の官収と公桑の設置)を提案したが自ら不便として撤回し、代わりに常平税茶法と、間架税・除陌銭を提案した。間架法は屋2架を1間とし上価2000文・中価1000文・下価500文の税を課し、隠匿1間ごとに杖60・密告者に賞銭5万文(隠匿者の家財から)とする過酷なもので、士族でも家屋のみ多く持つ者は数十万文を課され、人々は苦しんだ。除陌法は公私の売買に貫あたり従来20文の税を50文に増やし、隠匿すれば没入・杖60・密告者に賞1万文とするもので、実施後は市牙や家主が私利を貪り公家の収入は半分にも満たず、恨みの声が天下に満ちた。興元元年正月一日の赦でこれらは廃止された。

茶税の創始と改革

  • 貞元9年正月、塩鉄使張滂の奏により初めて茶税が始まった(出茶州県・要路で3等の時価により10分の1税、両税減免分に充当し、余剰は水旱の代替財源として貯蔵)。年40万貫の税収となったが、実際には水旱被災地への転用はほとんどなかった。
  • 大和7年、御史台は諸道の擅置雑榷(嶺南道の竹綀場等)の禁止を奏請し許可された。9年12月、左僕射令狐楚は王涯の榷茶使設置(茶樹の移植・官場での製茶強制)が過酷で天下の怨みを買ったと批判し、旧法への復帰を求める長文の上奏を行い、これが許可された。
  • 開成2年12月、武寧軍節度使薛元賞は泗口税場での雑税(金銀・羊馬・穀物・見銭・茶塩・綾絹等への課税)の廃止を奏請し許可された。大中6年正月、塩鉄転運使裴休は節度観察使による茶商への横税(搨地銭等)の是正と、私販茶人による正税茶商の不利益を解消するための半税優遇(陳首帖子の発給)を奏請し許可された。同年4月、淮南・天平軍・浙西の節度観察使が財政窮乏を理由に旧来の茶税継続を求めたが、裴休の茶法(正月26日の勅)に従うよう命じられた。

酒の榷酤

  • 建中3年、初めて酒を榷し天下に官醸を命じた(斛につき3000文、米が安くとも2000文を下回らせない)。京師のみ免除された。元和6年6月、京兆府の奏により榷酒銭を両税青苗に組み込み貫数に応じて均等徴収することとなった。会昌6年9月の勅では、揚州等8道州府に榷麹(酒麹の専売)・官店沽酒を置いて百姓の榷酒銭負担に代え軍用に充てる一方、密告連座による過酷な取り締まりを戒め、私酒・私麹の罪は本人一身に限り家産没収も禁じることとされた。