総序
- 先王の制は土地に応じて人を住まわせ、肥瘦を均し貢賦に差をつけた。周には井田の制、秦には阡陌の法があったが、秦二世が閭左を徴発して天下は崩れ、漢の武帝が舟車に税をかけて国用は尽きた。隋の文帝は北斉平定後の充実した府庫を背景に倹約を尽くし開皇初年には粟が積み重なって腐るほどであったが、煬帝は奢侈を極め、東西への行幸・四夷への遠征を重ね、西は沙漠で軍律を失い東は遼水・碣石で敗れ、数年で財力が尽きて隋は滅んだ。
- 高祖は太原で挙兵し、晋陽宮留守の蓄えを軍用に充て、長安平定後は府庫を封じて賞賜を節制し、徴斂を寛簡に努めて一年足らずで帝業を成した。財賦を掌る官は開元以前は尚書省が統括したが、開元以後は他官に権が移り、転運使・租庸使・塩鉄使・度支塩鉄転運使・常平鋳銭塩鉄使・租庸青苗使・水陸運塩鉄租庸使・両税使など、事に応じて名を立て沿革が一様でなかった。裴耀卿・劉晏・李巽らは時宜に応じ民を利して富国安民を成し世の模範となったが、宇文融・楊慎矜・韋堅・王鉷・楊国忠らは苛斂誅求で民を苦しめた(内容は次項参照)。
財政官の得失(開元〜貞元)
- 開元中、御史宇文融は籍外の余剰田・偽濫の色役・逃戸の自首免税を献策し、丁ごとに1500銭を課して隠田を検括し、戸80余万・田も同様、銭数百万貫を得たことで玄宗に重用され御史中丞・戸部侍郎に抜擢されたが、河北の王莽河開拓事業が果たせぬまま失脚した。太府卿楊崇礼は苛烈な出納検査で知られ、致仕後は子の慎矜が御史として太府出納を、弟の慎名が京倉を専掌し、いずれも苛刻をもって民を害した。韋堅は江淮の租米転運・義倉粟の転売・広運潭の開鑿により年400万石の漕運を実現し重用された。王鉷は戸口色役使として毎年百億銭を進上し百宝大盈庫に納めて玄宗の私用に供し、御史大夫・京兆尹・20余の使を兼帯するに至った。楊国忠も外戚の恩により40余の使を帯び寵愛を得た。安禄山の乱に際しては楊国忠が正庫を温存するため度僧尼道士の売牒で百万銭を得る策を講じ、粛宗即位後は鄭叔清が江淮の豪族商人に貸付・売官爵を行い国用を助けた。徳宗朝、河朔・李希烈討伐で財力が枯渇すると趙賛が「間架税」(居宅への課税)、陳京が商賈資産への借用を提案し実行され、民の怨嗟を招いた。その後も張滂・裴延齢・王涯らが下を剥いで上に媚びたことは世の戒めとなった。
節度使・観察使の進奉
- 興元の京師克復後、府蔵が空になったため諸道が進奉を始め、韋皋(剣南、日進)・李兼(江西、月進)・杜亞(揚州)・劉贊(宣州)・王緯・李錡(浙西)らが競って進奉し恩寵を求めた。表向き正税外の「羨余」と称したが、実際は十のうち二三しか献上されず残りは着服され、節度観察の交代に際しても前倒しで税を進奉に充てるなど乱脈を極めた。常州刺史裴粛が薪炭案牘まで売って財を作り進奉して浙東観察使に栄転した先例から、天下の刺史が進奉を始め、宣州の劉贊没後は判官厳綬が軍府の財を挙げて進奉し刑部員外郎に抜擢されたことから、天下の判官も進奉を始めた。
田制・租庸調(武徳七年令)
- 武徳七年、律令が定められた。度田の制は5尺を歩、240歩を畝、100畝を頃とし、丁男・中男に1頃、篤疾・廃疾に40畝、寡妻妾に30畝を給し、戸主にはさらに20畝を加えた。授田の10分の2を世業田(死亡時に承戸者へ継承)、8を口分田(死亡時に官へ収め他人へ再授与)とした。
- 賦役の法:丁ごとに年に租粟2石、調は郷土の産物により綾・絹・絁各2丈(布はその5分の1増)、これに綿3両または麻3斤を加える。丁は年20日の力役があり、代わりに納める場合は日ごと3尺の傭を収める。加役の場合は15日で調を、30日で租調ともに免除し、通常の正役と合わせて50日を超えないものとした。嶺南諸州は米を税とし上戸1石2斗・次戸8斗・下戸6斗、夷獠の戸は半減、内附の蕃胡は丁税銭(上戸10文・次戸5文・下戸免除)、附籍2年以上は羊(上戸2口・次戸1口・下3戸で1口)とした。水旱虫霜の災害では損失4割以上で租免除、6割以上で調免除、7割以上で課役すべて免除とした。
戸籍・度量衡の制度
- 天下の戸は資産により9等に分け、3年ごとに県が定め州が覆審した。100戸で里、5里で郷、4家で隣、5家で保とし、邑居を坊、田野を村とした。士農工商は各々の業を守り、食禄の家は下民と利を争わず、工商雑類は士の列に入れなかった。男女は生後を黄、4歳を小、16歳を中、21歳を丁、60歳を老とし、毎年計帳、3年ごとに戸籍を作った。神龍元年、韋皇后が媚びを求めて丁を22歳・老を58歳とする上表をしたが韋氏誅殺後に旧に復し、天宝3年には18歳を中男・22歳を丁と改めた。天下の戸籍は4本作り、京師・東京の尚書省・戸部にそれぞれ1本を貯え行幸時の運搬費用を省いた。
- 度量衡の制:度は北方の秬黍中等の粒の広さを分とし10分を寸、10寸を尺、10尺を丈とした。量は秬黍1200粒を龠、2龠を合、10合を升、10升を斗(3升を大升、3斗を大斗、10大斗を斛)とした。権衡は秬黍100粒の重さを銖、24銖を両、3両を大両、16両を斤とした。鐘律の調律・晷影の測定・湯薬の調合・冠冕の制作には小升小両を用い、他は公私とも大升大両を用いた。山東諸州では1尺2寸を大尺として民間で使用した。
開元・天宝の税制関連詔勅
- 天宝9載2月の勅:車軸長7尺2寸、面3斤4両、塩斗の規格、除陌銭は貫あたり20文と定めた。開元8年正月の勅では庸調の布帛の丈尺が過大にならないよう定め(幅1尺8寸・長4丈が基準)、超過があれば奏聞させた。
- 開元22年5月の勅:郭外居宅・丁牛は資産算入せず、蕃役免除の雑匠等は一戸4丁以上で2人まで、3丁以上で1人までとした。同年7月、庸調・資課の徴収期限を10月30日までとし、天宝3載には農繁期を考慮し9月30日まで延長した。天宝25年(実際は天宝14載頃)3月の勅では、関輔の庸調を時価で粟から米に換算するなど、遠隔地の運搬負担を軽減する措置がとられた。
大暦〜貞元の両税・戸等
- 天宝元年正月の赦文で、戸高丁多で別籍異居して税役を逃れる不正を戒め、一戸に10丁以上あれば2丁、5丁以上あれば1丁を征行賦役から放免し同籍共居を促した。広徳元年7月の詔で3丁につき1丁の庸調を免じ、地税は毎畝2升のまま、成丁を23歳・老を58歳とした。永泰元年5月、京兆尹第五琦が10畝につき1畝を官税とする什一税を奏請し許可され、翌年5月には諸道税地銭使の徴収で490万貫を得た。
- 大暦4年正月18日の勅では天下の百姓・王公以下の税銭を9等(上上戸4000文〜下下戸500文)に分け、官品に応じた等級も定めた。同年12月には京兆府の田税を上等畝1斗・下等畝6升とし、翌5年3月にはさらに夏税・秋税の等級を細分した。8年正月、青苗地頭銭を全国一律畝15文とした。
- 建中元年2月、黜陟使を天下に派遣し「戸に主客の別なく現住地で登録し、人に丁中の別なく貧富で差をつけ、行商は郡県で30分の1を税し、居人は夏秋両税とする」という両税法の詔が発せられ、大暦14年の墾田数を基準とした。3年5月には淮南節度使陳少游の請により両税銭を千文につき200文増額し他州もこれに倣った。8年4月には剣南西川観察使韋皋が官吏増給のため2割増税を奏請し許可された。
- 元和15年8月、中書門下は両税・榷塩酒利をすべて布帛絲綿などの現物で徴収し銭建てをやめる案を審議し、物価安定と農民保護を図る旨を奏上し許可された。大和4年5月、剣南西川宣撫使崔戎は税銭の3分の2を現銭、3分の1を匹段で納めさせ、賊禍のあった州県ではさらに減免する措置を報告した。
銭貨の沿革(武徳〜開元)
- 高祖即位当初は隋の五銖銭を用いたが、武徳4年7月これを廃し開元通宝銭(径8分、重2銖4絫、10文で1両、1000文で6斤4両)を鋳造し、洛・並・幽・益等州に銭監を置いた。秦王・斉王には各3炉、右僕射裴寂には1炉を賜い、盗鋳者は死罪・家族没官とした。開元銭の字は給事中欧陽詢の書で名高い。乾封元年、封嶽ののち「乾封泉宝」(径1寸、重2銖6分、旧銭の10倍の価値)を鋳造したが、字体の誤り(「乾」字を上に「封」字を左に配置し流俗の慣例に反した)により商賈が混乱し、乾封2年正月には旧銭(開元通宝)に復し「万代の法」とすることが詔された。
- その後も私鋳が絶えず、高宗は荊・潭・宣・衡での悪銭犯罪の多発を戒めた。儀鳳4年には悪銭と米粟の交換制度を試行、則天武后長安中には銭の見本を市に懸けるなどしたが盗鋳は江淮の湖沼や山中で横行し、神龍・先天の頃には両京の銭がとくに濫れた。開元5〜6年、宋璟が悪銭を一切禁断し二銖四絫銭を施行させたが、監察御史蕭隠之による江淮での強制的な取り締まりが混乱を招き、隠之は左遷、宋璟も罷相となり張嘉貞が禁を緩めて事態を収拾した。
- 開元22年、中書侍郎張九齢が私鋳解禁を奏請したが、裴耀卿・李林甫・蕭炅らは反対し、左監門録事参軍劉秩は「銭は下幣であり君主の権柄である」との長文の議論(管仲の説を引き、私鋳解禁は五つの弊害があると論じた)により反対を主張し、結局解禁は行われず州県に悪銭の厳禁のみが命じられた。
乾元・上元・宝応・大暦の重宝銭政策
- 天宝の初め両京の銭は良好であったが数年後には再び濫悪となり、富商が良銭を江淮の南に運んで私鋳の悪銭と交換し京師に持ち込むなどの弊害が生じた。天宝11載2月、悪銭を官が交換する措置がとられた。
- 乾元元年7月、御史中丞第五琦の奏請により「乾元重宝」(1文で旧銭10文に相当)を鋳造、乾元2年3月にはさらに「重輪乾元銭」(1文で50文相当)が鋳造され、旧銭・乾元銭・重輪銭の三種が並行したが、米価が急騰し餓死者が道に相枕ぐ事態となった。以後、旧開元銭を1当10、乾元銭を1当30に減価し、盗鋳が横行、京兆尹鄭叔清の取り締まりで数百人が獄死した。
- 上元元年6月、重棱五十価銭を三十文に、旧開元銭を1当10、乾元十当銭は旧のまま行用する詔が出され、宝応元年4月には乾元銭・重棱小銭を1当2、重棱大銭を1当3とし、まもなくすべて1当1に改められた。大暦4年正月、関内道鋳銭使第五琦が絳州汾陽・銅原両監に5炉を増設することを上言し許可された。
建中〜会昌の銭貨政策
- 建中元年9月、戸部侍郎韓洄が商州の紅崖冶と洛源監の再興による銅採掘・鋳銭の増産(江淮七監の廃止と引き換え)を上言し許可された。貞元9年正月、張滂は銅器製造への流用による銭荒を戒め鏡製造以外の銅器鋳造を禁断するよう奏請した。元和3年5月、塩鉄使李巽は郴州の銅坑での新規鋳銭を提案し許可され、同年6月の詔では見銭の退蔵を戒め通流を促す方針と、五嶺以北の銀坑の採掘禁止(銅の増産のため)が示された。
- 元和6年2月、公私交易10貫以上は匹段を併用させ茶商の便換銭を禁断する制、7年5月には商人による三司での便換を認め見銭の滞留を戒める奏、8年4月には内庫銭50万貫を放出し布帛収買で物価を調整する措置がとられた。12年正月には見銭50万貫の放出、および文武官・公主から士庶・商旅・寺観に至るまで私貯銭を5000貫以下に制限する厳格な法令(違反者は決杖処死、密告者には褒賞)が出されたが、王鍔・韓弘・李惟簡ら方鎮の蓄銭は50万貫を下らず、実際には法は行われなかった。14年6月、除陌欠銭・鉛錫銭犯罪への処罰強化、15年8月には諸道の私有銅器を節度使等に納めさせ軍府用に鋳銭させる案が審議された。
- 長慶元年9月、除陌の統一(貫あたり80文を除き920文を1貫とする)が定められた。大和3年6月、鉛錫銭の売買・使用への厳罰(決杖・徒刑・集衆決殺)と密告褒賞の制が定められ、4年11月には私貯銭の処分期限(1万〜10万貫は1年、10万〜20万貫は2年)が定められたが実行されなかった。5年2月、湖南・江西・鄂岳・桂管での私鋳悪銭の禁絶が命じられた。会昌6年2月、仏像・鐘磬を溶かした新銭の流布を進め、百官の俸料を見銭で支給する詔、および旧銭の一時停止(新銭のみ通用とし違反者は鉛錫悪銭と同罪)を命じる詔が出されたが、これも実行されなかった。
塩池・塩政(開元〜大中)
- 開元元年11月、河中尹姜師度は涸れつつあった安邑塩池を開拓し疏水して塩屯とし、公私大いに利を得た。同月、左拾遺劉彤は上表し、漢武帝の時代は財政支出が多くとも山沢の利を取ったため国は富み、当代は貧民から取るため国が貧しいと論じ、塩・鉄・木の官営による利益で農民の負担を軽減すべきと説いた。玄宗はこれを容れ、姜師度・強循を御史中丞に摂させ諸道按察使とともに海内の塩鉄を検責させた。
- 貞元16年12月、史牟の奏により澤・潞・鄭等州の末塩を禁断。元和5年正月、鄜州・邠州・涇原の将士に烏池・白池の塩を百姓と同様に支給。6年閏12月、盧坦の奏により河中両池の顆塩の販売範囲(京畿・鳳翔・陝・虢・河中・澤潞・河南・許汝等15州)を興・鳳・文・成等6州にも拡大。10年7月、皇甫鎛の奏により峡内四監・剣南東西川・山南西道の塩の値上げ。13年、程異の奏により兵乱時に設けられた諸州の茶塩店・課税を停止。
- 14年3月、鄆・青・兗三州に榷塩院を設置。長慶元年3月、河朔平定を受け河北の榷塩法を一時停止(皇甫鎛の元和年間の税塩院設置以来の弊を戎鎮が訴えていたため)。同月、塩鉄使王播は揚州・白沙の榷場を院とし塩の売価を引き上げる措置を奏請、応管煎塩戸・塩商への不当な差役を禁じることも奏請し許可された。2年5月、淄青・兗・鄆三道での小鋪塩の販売を停止し節度使自らの財源とし両税を減免する詔が出された。
- 安邑・解県両池には榷塩使が置かれ、元和3年7月に留後を榷塩使とした。貞元16年、史牟が金部郎中として池務を主管し使額を奏置。大和3年4月、両池の榷課を実銭100万貫と定額化し、大中2年正月には匹段中心の徴収に改められ、大中年間の度支の納榷利は121万5千余貫であった。女塩池(解県)・朝邑小池(同州)・鹵池(京兆府奉先県)は禁断とし榷せず。烏池(塩州)は長慶元年3月、糴塩による博糴米を年15万石と定額化。温池は大中4年3月、河隴収復により度支管轄となり、6年3月には威州に割属し榷税使を置いた。胡落池(豊州)は河東供軍使が管轄し年約1万4千石を採取し振武・天徳両軍等に供したが、大中4年の党項の叛乱で輸送が途絶え河東白池の塩を代用した。玄宗以前にも塩池使が置かれており、景雲4年3月には蒲州刺史が関内塩池使を兼ね、先天2年9月には強循が豳州刺史として鹽州池を管掌する塩池使を兼ね、開元15年5月には兵部尚書蕭嵩が関内塩池使を兼ねた(以後は朔方節度使が常に鹽池使を帯びた)。