太廟の恒例祭祀
- 四時それぞれ孟月に太廟で享し、各室に太牢を用いる。季冬の蜡祭の後、辰日に太廟で臘享し、時祭と同様の牲を用いる。三年に一度孟冬に祫、五年に一度孟夏に禘を行う。時享の日には太廟西門内の道南で七祀(司命、戸、灶、門、厲、行、中溜。中溜は季夏の迎気日に祀る)を修める。新物が進上できる場合は太常が尚食と選び、太廟に薦める。仲春には氷を薦める。
太廟の創建(武徳・貞観)
- 武徳元年(618年)5月、法駕を備えて宣簡公・懿王・景皇帝・元皇帝の神主を迎え太廟に祔し、四室とした。
- 貞観9年(635年)、高祖崩御に伴う遷祔の議で、諫議大夫の朱子奢は漢の韋玄成(五廟説)・劉歆(七廟説)・鄭玄・王粛らの異説を整理し、「天子は七廟、諸侯は五廟」とすべきと建議した(親尽となれば太祖の位を虚位として遞遷を待つ案)。八座(尚書省の長官ら)も王粛の七廟説を支持する奏を上げ、晋・宋・斉・梁の親廟六の故事に倣うことを決定した。弘農府君と高祖神主を加え、旧四室を六室とした。
太宗以降の遷廟
- 貞観23年(649年)、太宗崩御に際し、礼部尚書の許敬宗は弘農府君廟を毀す代わりに西夾室に神主を遷すことを提案し、採用された(漢の瘞埋説・晋の別立廟説はいずれも退けた)。8月庚子、太宗文皇帝を太廟に祔した。
- 文明元年(684年)8月、高宗を祔し宣皇帝神主を夾室に遷した。垂拱4年(688年)正月、東都にも高祖・太宗・高宗の三廟を建立し、別に武氏祖考を祀る崇先廟を設立した。則天は崇先廟を七室、皇室太廟を五室に減じようとしたが、春官侍郎の賈大隠が「天子七廟・諸侯五廟は百王不易の義」と反対し、いったん見送られた。
- 天授2年(691年)、則天は東都太廟を七廟室に改め武氏七代の神主を祔し、西京太廟を「享徳廟」(高祖以下三室のみ祭祀、他四室は閉鎖)に格下げし、西京崇先廟を「崇尊廟」に改称した。万歳登封元年(696年)臘月、嵩山に封じた帰途、親しく太廟に謁した。聖暦2年(699年)4月、再び太廟に親祀。
中宗以降の廟制回復と太祖論争
- 神龍元年(705年)、中宗即位により享徳廟を「京太廟」に復し、武氏七廟の神主を崇尊廟に遷した。東都に太廟を新設。太常博士の張斉賢は、太祖は始封の君(殷の玄王・周の后稷)に限られ、皇家の太祖は景皇帝(始封唐公)であり、弘農府君・宣・光二帝は太祖より尊いため昭穆合食の対象外とすべきと論じ、始祖として涼武昭王を立てる案(後主が国を失っている)や周文王を始祖とする説(『白虎通義』『鄭玄注』の誤読とする)を退けた。
- 太常博士の劉承慶・尹知章は「太祖は代数近く六室にとどめるべき」とし対立する議を提出した。宰相の裁定により、太祖は張斉賢説(景皇帝)を、廟室数は劉承慶説(六室)を採用することで妥協した。孝敬皇帝を「義宗」として太廟に祔す制も設けられた。同年8月、光皇帝・太祖景皇帝・代祖元皇帝・高祖神堯皇帝・太宗文武聖皇帝・皇考高宗天皇大帝・皇兄義宗孝敬皇帝を東都太廟に祔した。
- 景龍2年(708年)、駕が京師に還り太廟は七室となり、武氏崇尊廟を「崇恩廟」に改称した。武三思の意向で崇恩廟の斎郎を五品子とする詔が出たが、太常博士の楊孚が「太廟より崇恩廟の待遇が高いのは君臣の名分を乱す」と諫め、沙汰止みとなった。崇恩廟は睿宗の代に廃された。
景雲・開元の廟制整備
- 景雲元年(710年)冬、中宗の埋葬に際し、姚元之・宋璟は、義宗(孝敬皇帝)が即位前に崩じたため昭穆に列すべきでないとし、東都に別に義宗廟を立てて遷すことを建議し、採用された。昭成・粛明二皇后のための儀坤廟も設置された。
- 開元4年(716年)、睿宗崩御に伴う祔廟で、太常博士の陳貞節・蘇献らは、兄弟継承(中宗・睿宗)の扱いについて賀循の議(殷の盤庚・漢の光武の先例)を引き、中宗を別廟(儀坤廟を改めた中宗廟)とし、太廟には高宗の後に睿宗を直接続けることとした。粛明皇后は昭成皇后と並んで睿宗に配食できないとして別廟とした。
- 太常卿の姜皎は「太廟の則天皇后の題を『天后聖帝武氏』とするのは不当」として「則天皇后武氏」への改称を建議し、採用された。将作大匠の韋湊は義宗廟の「宗」の号(孝敬皇帝は皇太子のまま没しており帝位になかった)を批判し、「孝敬」の本諡に戻すことになった。
- 開元5年(717年)、太廟が損壊し、神主を太極殿に移して玄宗が自ら謁したのち修復。開元6年、修復完了し親祔の礼を行った。玄宗は宋璟・蘇頲に「祭には先に斎を行い心を斉える必要がある。儀注どおりでは質明の礼に間に合わない」と述べ、廟所に斎宮を設けて赴宿する儀に改めさせた。当日、玄宗は自ら斎宮から東門より太廟に入り、拝献の礼を行い、睿宗の室では伏して鳴咽し、侍臣も皆涙を流した。
- 河南府人の孫平子は「中宗は正統の皇帝であり別廟にすべきでない」と上言したが、太常博士の蘇献らに退けられ、平子は康州都城尉に左遷された(世論は平子の言を是とした)。開元10年(722年)正月、玄宗は詔で祧室を正室に列し、九室制を新設した。宣皇帝を「献祖」、光皇帝を「懿祖」として正室に復し、中宗も太廟に戻した。
- 開元11年(723年)、京師の中宗旧廟を毀し、東都旧廟に孝敬神主を遷した。開元21年(733年)、粛明皇后の神主を睿宗の室に合祀し、旧儀坤廟を粛明観とした。
代宗以降の祧遷
- 大暦14年(779年)10月、代宗の祔廟に際し、礼儀使の顔真卿は「代祖元皇帝は七廟の外にあり祧遷すべき」と建議した(漢・魏以降の祖宗号の乱用を批判し、太宗・高祖・太祖は不毀の典に、代祖元皇帝は親尽により祧遷すべきとする)。元皇帝は西夾室に遷され、代宗神主が祔された。
- 永貞元年(805年)11月、徳宗の祔廟で、礼儀使の杜黄裳・礼官の王涇らは高宗神主を西夾室に遷すことを建議した(太祖景皇帝=周の后稷、高祖=周の文王、太宗=周の武王に准える)。高宗神主が西夾室に遷され、徳宗神主が祔された。
- 元和元年(806年)7月、順宗の祔廟で、太常博士の王涇は中宗神主の祧遷を建議した(夏・殷・周の太祖の例を引き、代宗祔で代祖を、徳宗祔で高宗を遷した先例に倣う)。中興の君であるため遷すべきでないとの異論に対し、史官の蒋武は「中宗は自ら失い自ら復した点で光武・元帝の中興とは異なり、晋の恵帝・安帝の型に当たる」と論じた。中宗神主は西夾室に遷され、順宗神主が祔された。
- 元和15年(820年)4月、憲宗の諡・廟号を巡り、河南節度使の李夷簡は「祖」を称すべきと主張したが、太常博士の王彦威の「宗」とすべきとの議が採用された。夾室の空きが尽きたため、『江都集礼』に基づき夾室北壁に石室を置いて睿宗皇帝神主を安置する措置がとられた。
- 長慶4年(824年)正月、礼儀使の議により玄宗明皇帝が親尽の祖として祧遷された。開成5年(840年)、文宗の祔廟に伴い代宗が親尽の祖として祧遷された。
- 会昌元年(841年)6月、太皇太后の意向により宣懿皇太后(穆宗の生母)を穆宗の室に祔す詔が出た。
- 会昌6年(846年)5月、武宗の祔廟に際し、敬宗・文宗・武宗の兄弟相続が三代続いたための昭穆の混乱(兄弟は同位で相続とならない、既に祧った神主が再び廟に入る、廟数に限りがある、昭穆の位取りが定まらないの四つの疑問)が礼儀使から提起された。晋の元帝・簡文帝が豫章・潁川の神主を廟に戻した先例や、中宗が一度別廟に出た後に太廟に復した国朝の先例を引き、代宗神主を太廟に復し、敬宗・文宗・武宗を一代として太廟東間に室を二つ増設し、九代十一室とする案が建議された。尚書左丞の鄭涯らの議を経て採用された。
献祖・懿祖の昭穆順序の誤り
- 会昌6年(846年)11月、太常博士の任疇は、徳明廟・興聖廟における献祖・懿祖の室の配置が入れ替わっている(懿祖室が献祖室より上位に置かれている)ことを指摘した。系図に照らせば献祖は懿祖の昭、懿祖は献祖の穆にあたるとし、是正を求めた。修撰の朱儔・検討官の王皞らの調査により、貞元19年(803年)の措置以来の誤りと確認され、正された。
大中・光啓期の混乱と復旧
- 大中3年(849年)11月、憲宗・順宗の追諡に伴う神主改題の可否が議論され(太常博士の李稠は別造を、右司郎中の楊発・都官員外郎の劉彦模らは故事なしとして改題のみを支持)、宰臣の裁定で神主の改題により処理された。
- 黄巣の乱により僖宗が成都に避難した中和元年(881年)夏、太祖以下十一室を饗する儀を巡り、行廟(幄幕に十一室を仮設)の可否が議論された(太常卿の牛叢、将作監の王儇、太子賓客の李匡乂、虞部員外郎の袁皓ら)。神主を作らず神版位に題して行事したが、識者に批判され、翌年に至って正式に神主が新造された。
- 光啓元年(885年)12月、僖宗の鳳翔再幸の際、太廟十一室・祧廟八室・孝明太皇太后等の別廟三室の神主が鄠県で賊に奪われ失われた。光啓3年(887年)2月、宗廟修奉の議が起こり、宰相の鄭延昌・博士の殷盈孫らが修復方法・費用を検討し、少府監大廰を仮太廟とする案(五間を接続して十一間とし十一室に充てる)が採用された。
- 大順元年(890年)、三太后(孝明太皇太后鄭氏=宣宗母、恭僖皇太后王氏=敬宗母、貞献皇太后蕭氏=文宗母)を禘祫で太廟に合祭すべきかが議論された。博士の殷盈孫は「別廟の太后を太廟の禘祫に合祭するのは五つの点で不可」と『曲台礼』の誤用を詳論して反対したが、既に勅が下っていたため、宰相の孔緯の裁定でそのまま実施され、識者に誤りと批判された。
籩豆の数と酒爵の制度改定
- 開元22年(734年)正月、玄宗は籩豆の薦物が備わっていないとして礼官・学士に詳議を命じた。太常卿の韋絛は各室の籩豆をそれぞれ十二に増やし、酒爵も一合に満たない小ささを改めて広げることを建議した。
- 兵部侍郎の張均・職方郎中の韋述らは『礼記・祭統』『周礼』『左伝』『楚語』(屈到が芰=ひしの実を供物とするよう遺言したが、子の屈建が国典に反するとして用いなかった故事)等を引き、祭祀は質素を旨とすべきと反対した。礼部員外郎の楊仲昌も鄭玄注・『春秋』『易』を引いて同旨で反対。太子賓客の崔沔・戸部郎中の楊伯成・左衛兵曹の劉秩も旧制維持を支持した。
- 玄宗は「非芳潔なものは用いず、量を増やす」との折衷案を示し、韋絛は室ごとに籩豆各六を加えて四時の新物を薦めることを建議し、可とされた。酒爵は龠升一升を用いる古制に合わせることとし、以後常例となった。
陵墓拝謁の礼
- 貞観13年(639年)正月、太宗が高祖の献陵を親拝した。陵に入ると悲号哽咽し、大雪の中で百官も哀慟し、風雪が止み天が晴れたことが孝感の瑞と評された。三原県への大赦、免租、高齢者・孝子順孫・鰥寡孤独への賜物、宿衛陵邑の官への賜爵が行われた。
- 開元17年(729年)11月、玄宗が橋陵・定陵・献陵・昭陵・乾陵を巡拝した。奉先県を赤県並に、供陵寢の戸数増加、大赦、貶降官の移動など。橋陵では甘露・祥煙の瑞、昭陵では陪葬功臣が来饗するかのような鳳吹・歎息の声が聞こえたと伝えられ、至孝の感応とされた。天宝2年(743年)8月、毎年9月1日に陵寝へ衣を薦める制。天宝13載(754年)、献・昭・乾・定・橋の五陵署を台に格上げした。