舊唐書卷二十八 郊祀・藉田・釋奠

五方帝の郊祀と諸方岳・社稷等の恒例祭祀(武徳・貞観の制)

  • 立春に青帝(宓羲配、勾芒・歳星・三辰七宿従祀)を東郊で、立夏に赤帝(神農配、祝融・熒惑・三辰七宿従祀)を南郊で、季夏土王日に黄帝(軒轅配、后土・鎮星従祀)を南郊で、立秋に白帝(少昊配、蓐収・太白・三辰七宿従祀)を西郊で、立冬に黒帝(顓頊配、玄冥・辰星・三辰七宿従祀)を北郊で祀る。各郊帝及び配座は方色犢一・籩豆各四・簠簋各二・鉶俎各一、勾芒以下五星及び三辰七宿は少牢を用いる。
  • 孟夏、龍星が現れると雩五方上帝を雩壇で行い、五帝を上に、五官を下に従祀する。牲は方色犢十。
  • 帝嚳を頓丘、唐堯(契配)を平陽、虞舜(咎繇配)を河東、夏禹(伯益配)を安邑、殷湯(伊尹配)を偃師、周文王(太公配)を邠、周武王(周公・召公配)を鎬、漢高祖(蕭何配)を長陵で、三年に一度仲春に太牢で祭る。
  • 五嶽・四鎮・四海・四瀆は年一度、五郊迎気の日に太牢で祭る(東嶽岱山は袞州、東鎮沂山は沂州、東海は萊州、東瀆大淮は唐州、南嶽衡山は衡州、南鎮会稽は越州、南海は広州、南瀆大江は益州、中嶽嵩山は洛州、西嶽華山は華州、西鎮呉山は隴州、西海・西瀆大河は同州、北嶽恒山は定州、北鎮医無閭山は営州、北海・北瀆大済は洛州で祀る)。
  • 仲春・仲秋の戊日に太社・太稷(社は勾龍配、稷は后稷配)、春分に朝日、秋分に夕月、孟春吉亥に藉田で帝社(天子親耕)、季春吉巳に公桑で先蚕(皇后親桑)。立春後の醜日に風師、立夏後の申日に雨師、立秋後の辰日に霊星、立冬後の亥日に司中・司命・司人・司禄を祀る。季冬晦に大儺を堂で行い牲を宮門・城四門で磔く。仲春に馬祖、仲夏に先牧、仲秋に馬社、仲冬に馬歩を祀る。季冬に蔵氷、仲春に開氷し司寒の神を祭る。
  • 季冬の寅日、蜡祭を南郊で百神に行う(大明・夜明・神農氏・伊耆氏・后稷・五方十二次五官・田畯・五嶽四鎮四海四瀆以下、井泉、卯日祭社稷・辰日臘享太廟、二十八宿、五方の山林川沢・丘陵墳衍原隰、鱗羽臝毛介、水墉坊郵表畷、猫於菟及び龍麟朱鳥白虎玄武まで、総計一百八十七座を祭る)。
  • 顕慶年間、大祀・中祀・小祀の籩豆数をそれぞれ十二・十・八に統一した。
  • 京師で孟夏以後に旱があれば、まず冤獄を審理し窮乏を賑恤した上で祈雨を行う。順序は嶽鎮海瀆→社稷→宗廟で七日ごとに祈り、甚だしければ大雩を行う。初祈後一旬雨がなければ市を徙し屠殺を禁じ土龍を造る。霖雨が止まなければ京城諸門で禜祭を行い、なお止まなければ山川・嶽鎮・海瀆、さらに社稷・宗廟へと祈りを広げる。

藉田・先農の礼

  • 貞観3年(629年)正月、太宗が初めて先農を親祭し藉田を行った(南北朝以来久しく廃れていた礼の復興で、観る者が皆驚き喜んだ)。秘書郎の岑文本が『藉田頌』を献じた。給事中の孔穎達は方角(東郊か南郊か)について異論を唱えたが、太宗は「虞書に東作とある」として東郊を選んだ。
  • 則天朝、藉田壇を「先農」に改称した。神龍元年(705年)、礼部尚書の祝欽明らは「先農の名は経典に見えず、本来は王社である」として「帝社壇」への改称を建議し、採用された(帝稷壇も併設)。睿宗の太極元年(712年)、親祀・親耕。
  • 開元22年(734年)冬、礼部員外郎の王仲丘が藉田の実施を建議。開元23年(735年)正月、玄宗が神農を親祭(勾芒配)し、天子三推・公卿九推・庶人終畝の制のところ玄宗は自ら五十余歩耕した。開元26年(738年)、迎気の祭壇を隘狭であった春明門外から滻水東岸に移転した。
  • 粛宗の乾元2年(759年)正月、九宮の神を祭ると同時に藉田礼を実施。耒耜に文飾があったのを見て「農具は質朴であるべき」と撤去を命じた。冕にて自ら九推し、三推の礼を超えたことを問われると「率先垂範のため、千畝を終えられないのが恨みだ」と答えた。

春令・拝礼の作法論争

  • 貞観14年(640年)正月、太宗は百官に春令を読ませた。開元26年(738年)、太常卿の韋絛に月令を進読させる制を設けたが1年余で廃止。乾元元年(758年)、太常卿の於休烈が春令を読んだ。
  • 証聖元年(695年)、五嶽・四瀆に対する天子の再拝の礼について、有司が「天子は公侯に拝礼しない」と指摘し、日月以下は旧儀通り拝礼、五嶽以下は署名のみで拝礼せずと定めた。

前代帝王への祭祀

  • 貞観の礼には前代帝王を祭る規定がなかったが、顕慶2年(657年)6月、礼部尚書の許敬宗らが『礼記・祭法』を引き、隋以来の慣例に倣い、三年に一度仲春に堯(平陽、契配)・舜(河東、咎繇配)・禹(安邑、伯益配)・湯(偃師、伊尹配)・文王(邠、太公配)・武王(鎬、周公召公配)・漢高祖(長陵、蕭何配)を祭ることを建議し、採用された。
  • 玄宗以降、聖帝明王・岳瀆海鎮は牲牢、他は酒脯とする詔(開元22年)、明衣絹布の事前支給(開元23年)、大祭の代行制度、三皇五帝・歴代帝王廟の設置、忠臣義士・孝婦烈女の祠、周・漢の後継としての三王后(魏・周・隋の後裔の韓公・介公・酅公等)の制度が定められた。

学校・釈奠の礼(孔子廟)

  • 武徳2年(619年)、国子で周公・孔子廟を建立。武徳7年(624年)、地方への学校設置と選挙制度の詔、高祖自ら国子学に幸し釈奠に臨席した。
  • 貞観14年(640年)3月、太宗が国子学で釈奠に臨み、祭酒の孔穎達が『孝経』を講じた際、曽子・閔子騫の孝の優劣を問うやりとりがあった(『家語』の曽晳が曽参を杖で打った記述を引いた太宗の反論)。太宗は「孝とは家を治め国に及ぼし、君に忠、戦陣に勇、朋友に信、揚名顕親であり、諸儒の異説は本旨から外れている」と説いた。貞観21年(647年)、左丘明・卜子夏・公羊高・谷梁赤・伏勝・高堂生・戴聖・毛萇・孔安国・劉向・鄭衆・杜子春・馬融・盧植・鄭玄・服虔・何休・王粛・王弼・杜預・范甯・賈逵の22人の先儒を釈奠の対象に加える詔が出された。
  • 顕慶2年(657年)、許敬宗らの議により周公を先聖・孔子を先師とする従来の制を改め、周公は武王に配し孔子を先聖とすることになった。書学・算学・律学の廃止・復置。乾封元年(666年)、高宗が孔子廟で宣父に太師の号を追贈。総章元年(668年)、皇太子弘が国学で釈奠し顔回・曽参に追贈。儀鳳3年(678年)、『道徳経』を上経とする詔。則天朝、周公を「褒徳王」、孔子を「隆道公」に追封し、諡を「文宣」とした。
  • 開元7年(719年)、皇太子の斉冑の礼。開元19年(731年)、州県の社・釈奠での牲牢を停止し酒脯のみとした。開元24-26年、科挙制度の変遷(明経・進士の試験内容改定)があった。
  • 開元8年(720年)、国子司業の李元瓘の建議により顔子ら十哲を坐像とし従祀に加え、七十子・二十二賢を廟壁に図画した。開元27年(739年)、孔子に「文宣王」の号を追贈し南面させる制へ改め、顔子を「兗公」、閔子騫を「費侯」、冉伯牛を「鄆侯」、冉仲弓を「薛侯」、冉子有を「徐侯」、仲子路を「衛侯」、宰子我を「斉侯」、端木子貢を「黎侯」、言子游を「呉侯」、卜子夏を「魏侯」に、曽参・顓孫師ら67人を「伯」に追贈した。

制挙・秀才孝廉の変遷

  • 天宝元年(742年)、明経・進士に『爾雅』を課す。開元19年(731年)以降の変遷を経て、宝応2年(763年)、楊綰の建議により秀才孝廉の察挙制導入と明経・進士の停止が図られたが、議論が紛糾し実施されなかった。
  • 永泰2年(766年)、国子祭酒の蕭昕の上言により国学の再興が図られ、諸道節度使・観察使らの子弟を国子生に補す詔が出た。軍容使の魚朝恩が国子監事を知る職に就いた経緯も含まれる。

則天の瑞祥政治(洛水受図・嵩山改称)

  • 垂拱4年(688年)、雍州の唐同泰が洛水に偽造した瑞石を献上した(文「聖母臨人、永昌帝業」)。則天は「宝図」と号し、自ら「聖母神皇」を号して大赦、洛水を「永昌」と改称し神を「顕聖侯」に封じた。嵩山を「神岳」と改め「天中王」の号を授けた。同年12月、洛水で親しく図を受け取る大典を行った。開元5年(717年)、左補闕の盧履冰の上言により碑壇は撤去された。

道教(玄元皇帝廟)の隆盛

  • 開元29年(741年)正月、両京・諸州に玄元皇帝廟と崇玄学を設置。天宝元年(742年)正月、田同秀が玄元皇帝の顕現と霊宝符の発見を上奏し、玄元廟を設置した。莊子・文子・列子・庚桑子に真人号を追贈し著作を真経と改称。隴西李氏諸房を宗正寺に隷属させる等の措置も行われた。
  • 天宝2年(743年)、玄元皇帝に「大聖祖」の号を追加、聖祖母を「先天太后」、皋繇を「徳明皇帝」、涼武昭王を「興聖皇帝」と追尊した。西京の玄元廟を太清宮、東京を太微宮、諸州を紫極宮と改称。
  • 天宝3載-9載、太白山の仙人出現譚などを機に瑞祥政治が続き、玄元皇帝と歴代皇帝への尊号加上が繰り返された。

汾陰后土祠の祭祀

  • 開元10年(722年)、玄宗は太原巡幸の帰途、漢の甘泉・汾陰后土の故事に倣い祠を営むことを詔した。旧祠には婦人の塑像があったが、梁山神像を別室に移し、新たに錦繍の衣を着せて装飾した。開元11年(723年)2月、方丘の儀に准じて親祀し、宝鼎3枚が出土した。汾陰を「宝鼎」と改称。開元20年(732年)、蕭嵩の建議で再度親祀し賽謝の礼を行った。

九宮貴神の祭祀

  • 開元24年(736年)7月、寿星壇を新設し老人星・角亢等七宿を祭る。天宝3載(744年)、術士の蘇嘉慶の建議により九宮貴神壇を設置した(招揺・軒轅・太陰・天一・天符・太一・摂提・咸池・青竜の九神で、遁甲の理に基づく配置)。四孟月に祭り、昊天上帝に次ぐ格式とされた。
  • 太和2年(828年)、監察御史の舒元輿は「祝版に天子が九宮の神に対して臣と称するのは礼に反する」と指摘し、中祀に格下げされた。会昌元年(841年)・会昌2年(842年)、水旱への対応として再び重視され、太常卿の王起・広文博士の盧就らの議を経て大祀の礼に復した。

その他の祭祀・年中行事

  • 岳鎮海瀆への封号(先天2年に華岳を金天王、開元13年に泰山を天斉王、天宝5載に中嶽・南嶽・北嶽をそれぞれ中天王・司天王・安天王、天宝6載に四瀆を各霊源公等、天宝10載に四海を王に封じ、それぞれの祭祀を国子祭酒嗣呉王祗・秘書監崔秀ら担当官に割り当てた)。
  • 玄宗の神仙志向(大同殿の真仙像への焼香、道士・中官による諸山での醮祭)。粛宗の至徳2載(757年)、呉山を西嶽に改称する等の緊急措置(上元2年、宝応元年に旧に復す)。
  • 太公尚父廟の設置(開元19年、張良配)と武挙制度、天宝6載の武挙人による太公廟参拝の制、上元元年(760年)「武成王」への追封と十哲の選定。
  • 高宗・玄宗・粛宗各朝の皇后(武氏・王氏・張氏)による先蚕の礼の実施記録。
  • 安史の乱後の祭祀の衰退と縮小(旧儀と比較した楽制・省事・省牲の変化、上元2年の詔による太牢の簡素化と明火・棧飼の礼の廃止)。