舊唐書卷二十四 哀帝

哀帝、諱は柷、初名は祚。昭宗の第9子で、母は積善太后何氏(892年–905年)。昭宗弑逆の翌日、13歳で柩前即位したが、実権はことごとく朱全忠が握った。在位中に「白馬の禍」で旧臣が皆殺しにされ、兄弟9王も殺され、母何太后も殺害された。天祐4年(907年)に朱全忠へ禅譲し、翌年殺された。唐最後の皇帝である。

年表(7件)
  • 景福元年892年大内で生まれる
  • 天祐元年904年昭宗が弑逆された翌日、皇太子に立てられ名を柷と改め柩前で即位。時に13歳
  • 天祐2年905年枢密使蔣玄暉が徳王裕以下9王を宴に招いて絞殺する
  • 天祐2年905年「白馬の禍」で裴樞ら旧臣7人が配所で自尽させられ、屍が黄河に投げ込まれる
  • 天祐2年905年蔣玄暉が処刑され、母何太后も王殷により積善宮で殺害される
  • 天祐4年907年朱全忠に禅譲する詔を発する
  • 天祐5年908年済陰王として曹州に幽閉されていたところ、朱全忠に害される。時に17歳

出自と生い立ち

  • 哀帝、諱は柷、昭宗の第9子。母は積善太后何氏。景福元年(892年)9月3日、大内で生まれる。乾寧4年(897年)2月、輝王に封じられる(名は祚)。天復3年(903年)2月、開府儀同三司・諸道兵馬元帥を拝す。

天祐元年(904年)

  • 8月12日、昭宗が弑逆される。翌日、蔣玄暉が矯って遺詔を宣し、輝王祚を皇太子に立て名を柷と改め監軍国事とする旨を布告する(昭儀李漸栄・河東夫人裴貞一が逆節を懐き謀った末に昭宗を害したという体裁を装った)。この日、神柩を西宮へ遷し文武百僚が延和門外で哭す。同日午刻、矯って皇太后令を宣し皇太子柩前即位を布告。帝は時に13歳。乞われて監国とし柩前で即位、太常卿王溥を礼儀使に、太子家令李能に十六宅への告哀を命じる。丙午、大行皇帝(昭宗)の大殮、皇太子が柩前で即位。己酉、矯制して「昭儀李漸栄・河東夫人裴貞一が11日夜に刃を持ち謀逆したため罪を懼れ投井死した、悖逆庶人に追削する」と布告(実際は蔣玄暉が弑逆した夜、翌朝「帝は昭儀と博打をし酔って昭儀に害された」と宣伝し宮人に罪を着せて弑逆の跡を隠したが、龍武軍の兵士が二夫人の言を市中に伝えた。まもなく史太を棣州刺史とし弑逆の功に報いた)。
  • 庚戌、群臣が聴政を請う上表。甲寅、皇帝の誕生日(9月3日)を乾和節とする中書の奏、許可。乙丑、百僚が西宮に赴き殮を終え釈服。皇帝が崇勳殿西廊下で群臣に見える。丙辰、内庫の銀2172両を文武常参官の救済に充てる敕。丁巳、乾和節の内道場を停止する敕。戊午、刑部尚書張禕を河中へ遣わし全忠に告哀(全忠は号哭して哀を尽くす)。庚申、乾和節の斎の形式(宰殺せず酒果脯醢のみ)を定める敕。辛酉、嘉会節(3月23日)を停止する敕(大行皇帝の崩御に伴い)。
  • 9月壬戌朔、百官が素服で西内に赴き奉慰。戊辰、大行皇帝の大祥、百官が素服で臨む。己巳、裴樞(右僕射・門下侍郎・礼部尚書・平章事)を山陵礼儀使、独孤損(門下侍郎・平章事)を山陵使、李燕(兵部侍郎)を鹵簿使、韋震(権知河南尹)を橋道使、李克勤(宗正卿)を按行使とする。庚午、皇帝が釈服し従吉。中書門下の奏により昭宗の皇后(帝の母)に尊号「皇太后」を上る。輝王府の官属を廃す。辛巳、山陵橋道使を張廷範(権河南尹)に交代させ陵下の頓遞応接も兼任させる。庚寅、太常寺の鼓の名「敔」の字が御名を犯すため「肇」に改める中書の奏、許可。
  • 10月辛卯朔、日食。壬辰、全忠が河中から来朝し西内で臨祭、崇勳殿で対面。甲午、朱友恭(検校太保・左龍武統軍)を本姓名李彦威に戻した上で崖州司戸同正に、氏叔琮(検校司徒・右龍武統軍)を貝州司戸同正に貶す敕(禁兵を主管しながら妄りに扇動した罪を問う)。さらに両名を配所で自尽させる敕。河南尹張廷範がこれを殺害。臨刑の際、李彦威は「私の命を売って世の非難を塞ごうとしても神理はどうにもならぬ、そのような心根で子孫が長く続くと思うか」と大声で叫び、廷範に「あなたもいずれこうなる、覚悟しておけ」と言った。この日、全忠は大梁へ帰る。丙申、張全義(天平軍節度使・検校太師・中書令・東平王)に本官のまま河南尹・許州刺史・忠武軍節度観察等使・判六軍諸衛事を兼ねさせる。即位行事に携わった楊涉・趙光逢らに開国爵と食邑を、竇回・孫続・封舜卿らに勲階を加える。礼儀使王溥・書宝冊官陸扆・張禕に恩賞。太子太保盧紹卒。魏博羅紹威が百官救済のため絹千匹・綿3千両を献上。
  • 11月辛酉朔、癸酉午時、日に黄白の暈、傍らに青赤の紉。楊行密が光州を攻め鄂州も急攻、杜洪が援を求め全忠が5万の師で潁州から淮を渡り霍丘に至り大掠して急を緩和、行密は兵を分けて拒む。乙酉、皇太后冊礼を山陵後に延期する敕。己丑、嶺南東道辨州を勲州に改称。
  • 12月辛卯朔、癸卯、張廷範(権知河南府尹・和王傅)を本官に復す。韋震(山陵副使・権知河南尹・天平軍節度副使)に鄆州軍州事を権知させる。

天祐二年(905年)

  • 春正月庚申朔、楊行密が鄂州を陥し節度使杜洪を捕らえ揚州市で斬る。鄂州・岳州・蘄州・黄州等が行密の手に落ちる。全忠が霍丘から大梁へ戻る。甲子、王溥が昭宗の諡号・廟号を上り、裴樞に諡冊、柳璨に哀冊の撰を命じる敕。辛未、帝が山陵発引の日に太后と共に陵所へ赴きたい旨の敕を出すが、群臣の3度の諫言で取りやめとなる。
  • 2月庚寅朔、壬辰、劉鄩(前知鄜州軍州事・検校尚書左僕射)を右金吾衛大将軍・右街使、朱漢賓(検校左僕射)を右羽林統軍とする。丙申、群臣が西宮で諡を告げる。己亥、大行皇帝の攢宮開棺(坊市の音楽禁止規定)に関する敕。庚子、攢宮を開き文武百僚が夕方西宮に臨む。丁未、霊駕発引、濮王以下が従い、皇帝・太后は長楽門外で祭を終え内に帰る。己酉、昭宗を和陵に葬る。庚戌、王溥を工部尚書とする。壬子、裴迪(汝州刺史)を刑部尚書とする。葛従周(泰寧軍節度・検校司空・兗州刺史・御史大夫)が中風のため検校司徒・右金吾上将軍致仕。盧彦威(左金吾上将軍)を左威衛上将軍とする。この月の社日、枢密使蔣玄暉が徳王裕以下9王を九曲池に宴に招き、酔わせた末に全員を絞殺し、埋葬地は不明のままとなった(昭宗の子ら9王の惨殺)。丙辰、裴贄らの議により順宗の一室を遷廟することに決す。己未、昭宗の神主を太廟に祔し、廟楽は「咸寧之舞」とされる。
  • 3月庚申朔、壬戌、王師範(前平盧軍節度使・検校太傅・同平章事・琅邪郡公)を孟州刺史・河陽三城懐孟節度観察等使とする(全忠の奏請)。甲子、裴樞を守尚書左僕射、独孤損を検校尚書左僕射・同平章事・安南都護・静海軍節度・安南管内観察処置等使、崔遠を守尚書右僕射、柳璨を門下侍郎兼戸部尚書・同平章事・太清宮使・弘文館大学士・延資庫使・諸道鹽鉄転運等使、張文蔚を中書侍郎・同平章事・監修国史・判度支、楊涉を中書侍郎・同平章事・集賢殿大学士・判戸部事とする。庚午、宰臣・学士・百僚に遊観の機会を与える敕。壬申、張廷範(検校司徒・和王傅)を太常卿とする。丁亥、翰林学士楊注(宰臣楊涉の実弟)を内職から外し本官守とする敕。
  • 4月己丑朔、壬辰、河南府緱氏県令に和陵台令を兼ねさせ赤県に昇格させる敕。癸巳、文武百官の料銭を均等支給とする改革の敕(近年、文班が武班を軽んじる風潮を戒め太宗以来の文武参用の理念に立ち返る趣旨)。和王傅張廷範は全忠の将吏で音律に長け太常卿の職を求めて全忠が推挙したものだったが、宰相裴樞が廷範を楽卿の器でないとして反対したため全忠が激怒し裴樞の相位を罷免、柳璨が全忠の意を迎えてこの詔を発したことが、後の「白馬の禍」の遠因となった。丙午、劉仁遇(前棣州刺史)を検校司空・兗州刺史・御史大夫・泰寧軍節度使とする。乙未、山陵の労に対し裴樞・独孤損・張全義・王溥・裴贄・張禕に恩賞。旱天のため正殿を避け常膳を減らす敕。辛丑、山陵の労のあった官員多数に賜物。壬寅、皇太后冊礼の延期(宮殿の工事未完のため)。癸卯、上清宮の修復完了により太清宮に改称する柳璨の奏、許可。甲辰夜、彗星が北河から文昌を貫き長さ3丈、西北方に現れる。丁未、州府令録の除授を吏部三銓に一任し中書の関与を減らす敕(4月11日以降)。辛亥、彗星出現による恩赦(京畿軍鎮諸司の系囚の減刑)。壬子、彗星の出現を機に正殿を避け常膳を減らす敕。丙辰、銭の陌の基準(85文を1陌)を統一する敕。戊午、閤門の出入りの慣例(東上閤門を優先)を定める敕。5月1日の朝会を停止する敕。
  • 5月己未朔、星変により視朝せず。太清宮に黄籙道場を設け天変の祈禳を行う敕。壬戌、洛陽の門名を改称する敕(延喜門→宣仁門、重明門→興教門、長楽門→光政門等、長安の門名との重複を避ける趣旨)。乙酉夜、西北に長さ6、70丈の彗星、軒轅・大角・天市西垣にわたり天を横切る。丙寅、皇太后宮の造営完了、中書の奏により宮名を「積善」とする。張廷範に修楽懸使を兼ねさせる。丁卯、荊襄節度使趙匡凝が故成汭のための祠廟建立を奏し許可。己巳、柳璨の奏により玄元皇帝廟の名称を太清宮から太微宮に復す(東京は太微宮、西京は太清宮の従来の区別に戻す)。庚午、10月9日の郊祀の準備を柳璨・張文蔚・楊涉・張廷範に分担させる敕。壬申、独孤損(新任静海軍節度使等)を朝散大夫・棣州刺史に貶す敕。裴樞(左僕射)を登州刺史、崔遠(右僕射)を萊州刺史にそれぞれ貶す敕(宰相としての優遇にもかかわらず流言を放ち国を謗ったとの理由)。韋乾美(兵部郎中)を沂州司戸に貶す。甲戌、封渭・鄭輦・盧協ら中書舎人・補闕級の官員を各地の司戸・尉に貶す敕。乙亥、陸扆(吏部尚書)を濮州司戸、王溥(工部尚書)を淄州司戸に貶す敕。丙子、李仁儉・盧仁烱・盧晏ら官員をさらに貶す敕。丁丑、張全義の奏により忠武軍の牌額を許州に復す。戊寅、崇勳殿で群臣を宴す(全忠・王鎔・羅紹威のための宴)。庚辰、趙崇・王贊をさらに貶す敕。辛巳、裴樞(登州刺史)を隴州司戸、独孤損(棣州刺史)を瓊州司戸、崔遠(萊州刺史)を白州司戸にさらに貶す敕。壬午、韋甄・李光序を貶す敕。甲申、崔仁魯・崔澄ら十数名の官員をそれぞれ地方の司戸・尉に貶す一連の敕。丙戌、潁州汝陰県の彭文の妻が三つ子を産む。丁亥、張策(翰林学士・尚書職方郎中)に史館修撰を兼ねさせ国史を修めさせる。
  • 6月戊子朔、隴州司戸裴樞・瓊州司戸独孤損・白州司戸崔遠・濮州司戸陸扆・淄州司戸王溥・曹州司戸趙崇・濮州司戸王贊ら7人に、御史台を通じ配所で自尽を命じる敕(「白馬の禍」)。この7人は既に滑州に至っていたため白馬駅で命を落とし、全忠はその屍を黄河に投げ込ませた。己丑、裴贄(特進・守司空致仕)を青州司戸、李煦(刑部郎中)を萊州司戸に貶す敕(裴贄が閑職に逃れ責任を果たさなかったとの理由)。辛卯、柳璨(太微宮使)の奏により玄元観・弘道観の太清宮としての扱いを整理し、清化坊に太微宮を新設することに決す。壬辰、地方への赴任督促の敕。癸巳、敬沼(衛尉少卿、裴贄の甥)を徐州蕭県尉に貶す(裴贄の縁座)。丙申、福建の橄欖子貢献を停止し蠟麵茶のみとする敕。戊戌、裴練・崔仁略・陸珣・独孤韜ら(裴樞・崔遠・陸扆の宗党)を地方の尉に貶す敕。壬寅、湖南馬殷の奏により岳州の古祠(黄陵二妃祠・洞庭君祠・青草祠・三閭大夫祠)に名号を賜う。丙午、全忠の奏により柳璨の記事に基づき玄元観を都内に移し太微宮を建設する工事を張全義に指揮させたことを嘉す優詔。丁未、柳遜(太子賓客)を本官致仕とする敕(張浚・王溥・裴樞・趙崇らとの縁による処分)。戊申、李延古(前司勳員外郎)を衛尉寺主簿に貶す敕。
  • 7月戊午朔、辛酉、全忠に「迎鑾記功碑文」を賜い都内に建てる。全忠が郊礼の助成として銭3万貫を献上。癸亥、柳遜を再び曹州司馬に貶す。辛巳、全忠の請いにより河中・晋州・絳州の県印から「城」字を除く敕(自身の家諱を避けるため)。壬午、柳璨・蘇循を皇太后冊礼使とする。この日、積善宮で礼を行い帝は輦で太后宮へ赴き祝賀。丙戌、皇帝の毎月朔望の積善宮参礼の制を定める太常礼院の奏、許可。
  • 8月丁亥朔、戊子、姚洎(中書舎人)を尚書戸部侍郎・元帥府判官とする(全忠の奏請)。洛苑使が谷水屯地の嘉禾の瑞祥を奏す。乙未、官職を偽称した泉州の陳文巨を処刑する敕。庚子、副元帥梁王(全忠)と忠武軍節度使張全義の職掌分担(郊祀・告祀等での摂行の規定)を定める敕(鄧禹・王導の故事を引く)。壬寅、司空図(前太中大夫・尚書兵部侍郎)を中条山へ放還する敕(隠遁の志を理由とするが実質的な排除)。癸卯、張廷範を南郊礼儀使とする。丁未、荊襄節度使趙匡凝の官爵を削奪する制。この月乙未、全忠が大将楊師厚に趙匡凝討伐を命じ唐州・鄧州・復州・郢州・隨州等を収める。全忠自ら親軍を率い赴く。荊襄の軍は漢水の陰に陣す。
  • 9月丁巳朔、辛酉、楊師厚が襄州西60里の陰谷江口で竹木を伐り浮橋を架ける。癸亥、橋が完成し軍を渡す。甲子、趙匡凝が精兵2万で江湄に陣するが師厚に一戦で敗れ、勝ちに乗じて追撃し城下に陣す。この夜、匡凝は妻子を連れ包囲を突破し逃走。乙丑、師厚が襄陽に入る。丙寅、全忠が到着。壬申、匡凝の牙将王建武が荊南を挙げて降り、権知荊南軍府事趙匡明(匡凝の弟)は11日に城を棄て峡を上り蜀へ逃れたと報告。梁王の武功を称える敕。乳母楊氏・王氏への内職叙任の敕が出たが、中書の議論により「安聖君」「福聖君」「康聖君」の称号に改められる。己巳、武成王廟を武明王に改称する敕。乙酉、10月9日の郊祀を11月19日に延期する敕。
  • 10月丙戌朔、朱全忠(梁王)を諸道兵馬元帥とし食邑1万5千戸・実封1500戸に加増。金州馮行襲の管内「昭信軍」の字が全忠の諱と同音のため「戎昭軍」に改称。荊南留後趙匡凝の官爵削奪の制。丁亥、洛陽坊曲の旧朝臣宅地の権利関係を張全義の耕作地として確定させる敕。甲午、起居郎蘇楷が昭宗の諡号を批判する上疏を提出(昭宗は資質は優れていたが国運が振るわず、宦官に幽辱され最後は宮中の乱に斃れた事実を踏まえ「聖穆景文孝皇帝」の諡は過分とし、後漢の和帝・安帝・順帝の例(功徳なきゆえに廟号を改めた)を引き再議を求めるもの。蘇楷は礼部尚書蘇循の子で凡庸無才、乾寧2年の進士及第が世論に不当とされ昭宗の命で覆試を経て落第・永久出仕禁止となった経緯があり怨みを抱いていた。この時、全忠が君を弑し柳璨が朝臣を陥れる情勢に乗じ、起居郎羅袞・起居舍人盧鼎と連署でこの駁議を上げた。蘇楷自身は文字もろくに書けず、文章は羅袞の作であった)。太常卿張廷範が諡を「恭霊莊閔孝皇帝」、廟号を「襄宗」に改める(政は賊臣の手にあり哀帝は制止できなかった。全忠はこの駁議の後、蘇循・蘇楷父子を鄙み後に朝廷から追放した)。丁未、昭宗の神主の題を改める、輟朝1日。癸丑、成徳軍を武順に、管内の県名(槁城→槁平、信都→堯都、欒城→欒氏、阜城→漢阜、臨城→房子)を全忠の祖父・父の諱を避けて改称する敕。
  • 11月乙卯朔、潞州潞城県を潞子に、黎城を黎亭に改称する敕。全忠は荊襄平定後、淮南への進軍を図るが、棗陽で雨に阻まれ光州に至る頃には道が険しく人馬が飢乏、10余日休止し固始へ向かう。壽州まで30里に迫るも城が固く閉ざされ、左右は「軍が疲弊し用いがたい」と諫めた。丙辰、全忠は正陽から北へ淮を渡り汝陰に至り、この行軍が無益だったことを深く悔いる。丁卯、大梁に至る。この頃、哀帝はこの月19日に圜丘の親祠を予定し諸準備が整っていたが、戊辰、裴迪が大梁から戻り「全忠は蔣玄暉・張廷範・柳璨らが唐の国祚を延ばそうと謀り郊天・改元を企てていることに激怒している」と伝え、蔣玄暉・柳璨は大いに恐れる。庚午、郊祀を来年正月上辛に延期する敕。辛巳、朱全忠を相国に任じ21道を「魏国」とし魏王に進封、諸道兵馬元帥・太尉・中書令等を兼ねさせ、入朝不趨・剣履上殿・賛拝不名・九錫の礼を備える制を発す。楊師厚を襄州兵馬留後、張慎思を武寧軍兵馬留後とする。壬午、中書門下の奏により百司の印璽の扱いを整理。甲申、河南告成県など10県の県名を改称する敕。全忠は判官司馬鄴に相国就任の辞退を上奏させる。
  • 12月乙酉朔、戊子、蔣玄暉に詔を持たせ魏国へ赴かせ辞退を許さぬ旨を伝える。辛卯、柳璨を光禄大夫・守司空兼門下侍郎・同平章事等とし魏国冊礼使とする制。全忠の曾祖父朱茂琳・祖父朱信・父朱誠を魏王に追封し諡を贈る制。多数の官員を柳璨に随い魏国での儀式に参列させる。事の背景として、北院宣徽使王殷が壽州行営で蔣玄暉を全忠に讒言し全忠が怒り急遽大梁へ帰った経緯、上(哀帝)が裴迪に慰労させたが全忠の怒りは解けず不遜な言葉を発したため相国百揆の任命でその心を宥めようとしたこと、蔣玄暉自らも大梁へ赴き陳訴したが全忠の怒りは解けなかったことが記される。帝が三宰相に諮ると柳璨は「人望は元帥(全忠)に帰しており、陛下が譲位すべき時が来た」と述べ、帝は「運祚は久しく唐を離れており全忠のおかげで今日まで保たれた、天下は既に我が天下ではない」と応じ、柳璨自ら大梁へ赴かせる。乙未、蔣玄暉の官爵剥奪と処斬、豊徳庫使応頊・尚食使朱建武の処刑を命じる敕。庚子、枢密使・宣徽南院北院の廃止、業務を王殷に権知させる敕(宦官機構の解体)。魏王(全忠)の辞退の意を汲み「諸道兵馬元帥」を「天下兵馬元帥」に改称する敕。辛丑、朝見の頻度(毎月1・5・9日の延英開催)を定める敕。宮嬪の朝政関与を制限する敕。壬寅、戎昭軍(金州)が府治を均州へ移し武定軍と改称することを奏し許可。乙巳、蔣仲伸(汴州別駕、蔣玄暉の叔父)を処刑。蔣玄暉に「凶逆百姓」として屍を焚く極刑を科す敕(爵位売買・蓄財・悖逆の罪を列挙)。蔣玄暉の死後、王殷・趙殷衡らが「玄暉は積善宮(皇太后)に私通し柳璨・張廷範と唐の存続を図る密約を結んでいた」と全忠に讒言。戊申、全忠は知枢密王殷に皇太后何氏を積善宮で殺害させ、宮人阿秋・阿虔も蔣玄暉との連絡役として殺す。己酉、太后の喪により輟朝3日、皇太后の冊宝を回収し庶人に追廃する敕。庚戌、宮闈の乱を理由に来年正月上辛の郊廟親謁を停止する敕。壬子、積善宮安福殿を廃す敕。癸丑、柳璨(光禄大夫・守司空・門下侍郎・平章事等)を朝議郎・守登州刺史に貶す敕。張廷範・裴磵・温鑾・張茂樞ら蔣玄暉の一党とされた官員をそれぞれ司戸・尉に貶す敕。甲寅、柳璨をさらに密州司戸に貶し、長流崖州百姓とした上で御史台に自尽を命じる敕(この日、上東門外で斬られる)。張廷範を除名し都市で車裂きの刑、温鑾・裴磵・張茂樞も除名し自尽、柳璨の弟柳瑀・柳瑊も処刑される敕。

天祐三年(906年)

  • 春正月乙卯朔、全忠が4鎮の師7万で河北諸軍と合し深州楽城に屯す。戊午、柳瑗(右拾遺、柳璨の疏属)を洺州雞澤尉に貶す。乙丑、全忠が汴河から魏州へ赴く。丙寅、銭鏐(鎮海鎮東軍節度使・呉王)への冊命を改めて行う敕。己巳夜、魏博節度使羅紹威がその衙内親軍8千人を殺す(内部粛清)。戊午、全忠が内黄から魏州へ入る。この月、魏博の衙外兵5万が歴亭から戻り紹威の貝州・博州等に分拠、汴軍がこれを包囲攻撃。壬申、相国魏王の冊礼を再度行う敕。辛巳、国子監の貢挙定員を巡る紛議に対する敕(明経科の定員規定を旧例に戻す)。
  • 2月甲申朔、魏博節度使羅紹威に本鎮での三代私廟設置を許可。癸卯、今年の礼部進士合格者を昨年より2人増やす敕。
  • 3月甲寅朔、甲戌、河中・昭義管内に同名の慈州があるため昭義管内を恵州に改称する敕。壬戌、全忠の奏により河中判官劉崇の子劉匡図の高順位での及第を礼部に落第させる。戊寅、梁王(元帥)に諸道鹽鉄転運等使・判度支戸部事・三司都制置使を兼ねさせる制。辛巳、鄭賨(西都留守判官・左諫議大夫)を崖州司戸に貶し、まもなく賜死。
  • 4月甲申朔、日食。戊申、羅紹威の奏により魏博管内5県を天平軍(鄆州)に割隷する。
  • 5月癸酉朔、故成汭・杜洪の官爵を追贈し祠廟を立てる(全忠の奏請)。丙申、金州の戎昭軍額を廃し均州・房州を山南東道に還す敕(馮行襲の功に報いた措置を平常化)。
  • 6月癸未朔、甲申、襄州の忠義軍額を廃し山南東道節度使に戻す敕(趙匡凝の一時的措置を正常化)。己亥、権右唐州事衛審符の奏により泌陽県への治所移転を許可。韓建(京兆尹・佑国軍節度使)を青州節度使、王重師をその代わりに京兆尹とする。壬寅、百官の入閤を貞観殿から崇勳殿に移す敕。裴瑑(左拾遺・史館修撰)が伯母の病により暇を求め許される。
  • 7月壬子朔、己未、全忠が魏州から大梁へ帰り魏博6州が平定。震(検校工部尚書・守宗正卿・嗣邠王)が官を停め襲封を落とされる。辛未、皇妹永明公主薨、輟朝3日。
  • 8月甲辰、全忠が汴州から再び北へ渡り滄州を攻める。乙未、魏博の奏により貝州・相州の6県を魏州に割隷。
  • 9月辛亥朔、丁卯、全忠が軍中で滄州に至り長蘆に屯す。この月、長雨が続き禜祭が行われる。
  • 10月乙未、両浙銭鏐に三代私廟設置を許可。
  • 11月庚戌朔、丙子、牛羊司を廃止、御厨の肉を河南府が供給する敕。
  • 12月己卯朔、淮南の偽宣歙観察使王茂章に検校太保を授ける(銭鏐の奏請、茂章が楊渥を背き宣州を挙げて銭鏐に降ったため)。己丑、朝会の際の百官への廊飧を復活させる敕(全忠の提案)。甲辰、孫乗(河陽節度副使)を崖州司戸に貶し、まもなく自尽させる。閏12月己酉朔、福建の民が節度使王審知の徳政碑建立を請い許可。乙丑、華州の鎮国節度観察処置等使額と興徳府名を廃し華州刺史・防禦使に戻す敕(同州の支郡とする)。西都佑国軍に金州・商州を属郡として編入。京兆府奉先県を同州へ、櫟陽県を華州へ隷属変更。丙寅、王建(西川節度使)の官爵を剥奪。戊辰、李克用が幽州の軍と共に潞州を攻め、全忠の守将丁会が澤州・潞州を挙げて太原に降り、克用は子李嗣昭を留後とする。甲戌、全忠は潞州陥落を聞き長蘆の営を焼いて帰還。乙亥、孫秘(興唐府少尹、孫乗の弟)を愛州へ長流し、まもなく賜死。

天祐四年(907年)

  • 春正月戊寅朔、壬寅、全忠が長蘆から大梁へ至り、天子は御史大夫薛貽矩に詔を持たせ慰労させる。全忠は昭宗弑逆以来、岐・蜀・太原に牽制され関西を日々削られていたが、羅紹威が牙軍を殺し魏博6州を得たことで勢いを盛り返した。まさに簒代を行おうとし河朔に威を示すべく幽州・滄州へ再び出兵し劉仁恭父子との盟を図りつつ王鎔・羅紹威の心をつなぎとめようとしたが、秋から冬にかけ滄州攻めは功を奏さず、丁会の失陥を聞くと営を焼いて急ぎ引き返した。魏州を通る際、羅紹威は勢いの衰えを察し全忠の襲撃を恐れ、篡奪の謀りを深く後押しし、いずれ全忠が禅を受ける日には6州の軍賦を尽く大礼に充てると約したため全忠は深く感謝した。大梁に至った折、薛貽矩が来て禅代の謀りを密かに伝えると全忠はこれを喜んだ。貽矩は帰って「元帥(全忠)には受禅の意がある、陛下は時局を深く体察しこの重荷を去られよ」と奏し、帝は「これは私がかねて望んでいたことだ」と応じ、詔を発し2月に禅譲の礼を行うことを定めたが、全忠は偽って辞退した。
  • 2月壬子、文武百官にこの月7日に元帥府へ集まるよう命じる詔。癸丑、宰相百官が辞去、全忠は表がまだ整っていないことを理由とする。
  • 3月戊寅朔、全忠が大将李思安に兵3万で魏博の衆と合し幽州を攻めさせるが、劉仁恭の子守光の援軍により思安は退く。庚寅、薛貽矩を再び大梁へ遣わし伝位の意を伝える。甲辰、伝位の詔を発する(堯舜の禅譲の故事を引き、梁王の20年の功業と衆望を称え、天命に従い禅譲する旨を布告)。乙酉、張文蔚(中書侍郎・平章事)を冊使、蘇循(礼部尚書)を副とする。楊涉(中書侍郎・平章事)を伝国宝押使、張策(翰林学士・中書舎人)を副とする。薛貽矩(御史大夫)を押金宝使、趙光逢(左丞)を副とする。甲午、張文蔚が文武百僚を率い大梁へ赴く。甲子、儀式を執り行う。冊文では、堯舜の禅譲の故事、唐の懿祖以来の宦官の乱と国政の衰退、梁王(全忠)の20年に及ぶ武功と統治の実績を称え、天命に従い帝位を譲る旨が述べられた。
  • 全忠が建国し、帝を済陰王として曹州に遷し、前刺史氏叔琮の邸宅に住まわせた。この時、太原・幽州・鳳翔・西川はなお天祐の正朔を奉じ続けていた。天祐5年(908年)2月21日、帝は全忠に害され、時に17歳。諡は哀皇帝、王の礼で済陰県定陶郷に葬られた。後唐(中興)の初め、改葬の礼を整えようとしたが国喪と重なり中止された。明宗の代、旧陵に園邑を置き、有司は諡「昭宣光烈孝皇帝」・廟号「景宗」を請うたが、中書は「少帝(廃位された皇帝)の事跡は宗を称するに相応しくない」と覆奏し、諡のみが残された。礼を知る者も「宣」「景」の諡が不適切と考え、本来の諡のみを本紀に記す。

史論

  • 史臣曰く、悲しいことである。唐の国運が尽きようとする時、五常はほとんど失われ、様々な怪異が現れ、天下は瓜のように分かれ、皇図は瓦解した。昭宗皇帝は英気を奮い起こし国の衰えを憤り、広く奇傑の才を求めて崩れゆく国運を支えようとしたが、世は道を外れ忠義は失われていた。爵位を尽くして賢豪を待遇し珍宝を尽くして腹心に託しても、真に国士として孤を託せる賢者は稀であった。豢養された犬豚は猛々しくなり、肉に飽いた虎狼はますます凶暴になった。五侯九伯は皆天下を窺う徒であり、四岳十連は皆主君を軽んじる者であった。宮中の忠臣が扼腕し朝廷の輔弼が痛心しても、国の滅亡を空しく嘆くばかりで、国を失う禍を救うことはできなかった。鳳翔から西へ、洛陽へ東へと遷る様は、盗跖の門に珠を寄せ、尾閭の上に水を蓄えるようなもので、去って戻ることはなかった。何を言うべきだろうか。
  • 山河が枯れ崩れるのは古今変わらぬ嘆きであり、虎が争い龍が戦うように興亡は常ならぬものである。だが箱を盗む不仁も、金を掴む道理はあるという。曹操が椒壺で刑を求めたのは陰謀に迫られたゆえであり、司馬昭が凌雲で命に抗ったのは討たれることを恐れたゆえであった。醜い跡があっても言い訳の余地はあったが、朱全忠の所業は残忍の極みであった。鳳翔から洛陽への遷都の後、天子は孤立無援で六軍は秦の人々を悉く排され、四方を汴の兵に囲まれた。冕旒は仮初めのものとなり些細な事にも疑いをかけられ、迎鑾からいくばくもせずに刃が及んだと聞く。南面する新帝を立てながら中宮で母后を殺し、宦官と禁軍は皆殲滅され、宗室と冠を戴く者たちも共に斃された。さらに鐘を盗み耳を掩うように罪を人に嫁した。九六の数(陽の窮まる数)が尽き、天と人の道がともに尽きたとしか言いようがない。この乱を目の当たりにすると心が痛む。哀帝の時代、政は凶族の手にあった。禅譲の形式は山陽公(漢の献帝)の例に似ているが、その凌逼の激しさは侯景をも凌いだ。人の道が衰え天の摂理も測りがたいものであるが、このようにして国を終えることが、どうして長く続くだろうか。

賛曰く、堯舜が天命を受け、禅譲によって終わりを告げた。逆によって取り順によって守る道もあるが、仁の道は既に窮まっていた。暴によれば国運は短く、義によれば長く続く。虞賓(滅んだ王朝の末裔)の禍は、一つの王朝に限ったことではない。