舊唐書卷二十一 懿宗

懿宗、諱は漼、初名は温。宣宗の長子で、母は元昭皇太后晁氏(?–859年)。大中十三年(859年)に27歳で即位し、咸通と改元。仏教を尊崇する一方で南蛮・安南への出兵と徐州の龐勲の乱に苦しめられ、財政は窮乏した。咸通十四年(873年)、41歳で没した。

年表(14件)

出自と生い立ち

  • 懿宗、諱は漼、宣宗の長子。母は元昭皇太后晁氏。大和7年(833年)11月14日、藩邸で生まれる。会昌6年(846年)10月、鄆王に封じられる(本名は温)。

大中十三年(859年)

  • 8月7日、遺詔により皇太子監国に立てられ、名を漼と改める。13日、柩前で帝位に即く。時に27歳。帝は姿貌雄傑で人並み外れていた。藩邸時代に重病を患った際、郭淑妃が看病し、黄竜が寝所に出入りするのを見たと告げると、帝は「決して二度と言うな」と応じた。またある大雪の際、帝の寝室の屋根だけ雪が積もらず人々が異とした。宣宗作の「泰辺陲楽曲詞」に「海岳晏咸通」の句があり、大中末年に京城の子供の間で布を水に浸し日に向けて紐る「抜暈」という遊びが流行っていたが、果たして鄆王が即位し「咸通」を年号としたという逸話が伝わる。
  • 9月、釈服。母后晁氏を太后に追尊、諡は元昭。
  • 10月癸未、令狐綯(門下侍郎・左僕射・同平章事)を守司空、蕭鄴(門下侍郎・兵部尚書・同平章事)に尚書右僕射、夏侯孜(中書侍郎・礼部尚書・平章事)に兵部尚書、蒋伸(中書侍郎・平章事)に工部尚書をそれぞれ兼ねさせ、いずれも従前どおり知政事とする。鄭顥(兵部侍郎)を河南尹とする。裴休(昭義軍節度使)を太原尹・北都留守・河東節度観察処置等使とする。畢諴(河中節度使)を汴州刺史・宣武軍節度・宋亳観察等使とする。裴坦(中書舎人)に礼部貢挙を権知させる。
  • 12月、杜審権(戸部侍郎・翰林学士)を検校礼部尚書・河中晋絳節度等使とする。

咸通元年(860年)

  • 春正月、紫宸殿で朝を受け、室韋の使者に対面。
  • 2月、宣宗を貞陵に葬る。劉鄴(右拾遺)を翰林学士とする。杜審権(河中節度使)を兵部侍郎・判度支としまもなく同平章事、令狐綯(門下侍郎・守司徒・同平章事)を検校司徒・同平章事のまま河中へ出鎮させ、杜忭(尚書左僕射・諸道鹽鉄転運使)を同平章事とする。浙東観察使王式が草賊仇甫を斬り、浙東の郡邑が平定される。
  • 8月、裴休(河東節度使)を鳳翔尹・鳳翔隴右節度使、盧簡求(鳳翔隴右節度使)を太原尹・北都留守・河東節度使とする。
  • 11月丙午朔、丁未、郊廟の礼を行い丹鳳門で大赦・改元。薛耽(中書舎人)に貢挙を権知させる。

咸通二年(861年)

  • 春2月、蕭鄴(吏部尚書)を検校尚書右僕射・太原尹・北都留守・河東節度観察等使とする。鄭滑節度使李福が管内潁州の大水害(沈丘・汝陰・潁上等県で平地水深1丈、田稼・屋宇の水没)を奏し租賦免除を請い、許可される。蒋伸(中書侍郎兼工部尚書)に刑部尚書を兼ねさせ、杜忭(右僕射・門下侍郎)を左僕射とする。
  • 4月、裴閔(前婺州刺史)を潁州刺史・本州団練鎮遏等使とする。王鐸(駕部郎中)に知制誥を兼ねさせる。
  • 8月、衛洙(中書舎人)を工部侍郎とし、まもなく検校礼部尚書・滑州刺史・御史大夫・駙馬都尉・義成軍節度・鄭滑潁観察処置等使とする。衛洙は「滑州刺史の官号内の一字が臣の家諱と音が同じ」として改授を求めたが、「嫌名は避けないのが礼」として却下された。曹確(兵部侍郎)に判度支を、楊知遠・穆仁裕に吏部宏詞選人の試験官を命じる。
  • 9月、畢諴(前兵部侍郎・判度支)を工部尚書・同平章事とする。蒋伸が知政事を罷める。林邑の蛮が安南府に侵寇、神策将軍康承訓に禁軍及び江西・湖南の兵を率いて赴援させる。

咸通三年(862年)

  • 春正月、杜忭(左僕射・門下侍郎・平章事)が百僚を率い徽号「睿文明聖孝徳皇帝」を上る。
  • 5月、嶺南を広州を治所とする嶺南東道と邕州を治所とする嶺南西道の二節度観察処置使に分割する敕を発す(邕州は南蛮に接し統治が手薄で軍威振るわず、境を接する内地と海南とを分けて統治強化を図る趣旨。桂州管内の龔州・象州、容州管内の藤州・岩州を嶺南西道に編入)。宰臣杜忭に司空を、畢諴に兵部尚書を兼ねさせる。王鐸(駕部郎中・知制誥)を中書舎人とする。鄭愚(邕管経略使)を広州刺史・嶺南東道節度観察処置等使、宋戎(将軍)を嶺南西道節度使とする。
  • 夏、淮南・河南で蝗害と旱魃、民が飢える。南蛮が交阯を陥し、諸道の兵を嶺南へ征発。湖南水運を湘江から澪渠経由で、江西では切麦粥を作って行営に届けるよう詔す。湘江・漓江の遡上輸送は難航し広州駐屯軍が食糧不足に陥った。潤州人陳磻石が上書し、弟陳聴思(前雷州刺史)の福建大船(1隻千石積)を用いた海路輸送(福建から広州まで1月以内)を提案、劉裕の海路進軍で盧循を破った故事も引いた。朝廷はこれを容れ、陳磻石を鹽鉄巡官として揚子院で海運を督させ、康承訓の軍の供給が滞らなくなった。
  • 7月、徐州で軍乱、浙東観察使王式を検校工部尚書・徐州刺史・御史大夫・武寧軍節度・徐泗濠観察等使とする。かねて王智興が徐州を治めた際に募った凶暴な兵2千(銀刀・雕旗・門槍・挾馬等の軍号)が驕り、歴代の節度使も姑息な扱いに終始してきた。田牟が徐州にいた頃には驕卒と酒を酌み交わし歌に興じるほど彼らを費消し、宴では飲食を先取りしなお喧噪して帥を逐う謀りを重ねてきた。前任の壽州刺史温璋も驕卒を懐柔しようとしたが結局逐われた。帝は王式に代えさせ、忠武・義成の兵3千を率いて淮を渡らせた。徐州の兵は勢いを恐れて大彭館まで出迎え、王式は両鎮の兵を犒って帰した後、鎧兵を整え驕卒を包囲して誅殺、3千余人がこの日尽く誅され凶徒は根絶やしにされた。
  • 9月、李晦(戸部侍郎)を検校工部尚書・興元尹・山南西道節度使とする。
  • 11月、将軍蔡襲に禁軍3千を率いさせ諸道の師と合流し安南へ赴援させる。鄭処誨・蕭仿・楊儼・崔彦昭らに宏詞選人の試験官を命じる。12月、蕭仿(吏部侍郎)に礼部貢挙を権知させる。

咸通四年(863年)

  • 春正月甲子朔、庚午、圜丘の礼を行い丹鳳楼で大赦。中外の官は建中元年敕に準じ授官後3日以内に自代を一人挙げる、州牧県令上佐官は在任3考を満たすことを定める。盧簡求(河東節度使)が病により罷免を求め、太子少師致仕として東都に帰らせる。劉潼(昭義節度使)を太原尹・北都留守・御史大夫・河東節度観察処置等使とする。
  • 2月、李荀(左散騎常侍)を検校工部尚書・滑州刺史・義成軍節度・鄭滑観察等使とする。
  • 3月、楊収(兵部侍郎・判度支)を同平章事、曹汾(刑部侍郎)を河南尹、李蠙(戸部侍郎)を検校礼部尚書・潞州大都督府長史・昭義節度観察処置等使とする。
  • 4月、徐州の防禦使を廃し支郡として兗州に隷させる敕。
  • 7月朔、安南陥落に伴う流民救済(宋戎・李良瑍に人数調査と救済を命じる)、蛮賊に駆り立てられた戸の両税・丁銭を2年分猶予、安南溪洞の首領の忠節を認め嶺北からの茶薬商販を禁じないこと、廉州の珠池採取を民に開放すること、徐州銀刀軍の逃亡兵の追捕停止、4月18日に草賊の首魁が処刑され残党は追捕しないこと等を敕す。この月、東都・許州・汝州・徐州・泗州等で大水、稼を傷める。大中末年、安南都護李琢の貪暴が獠民を刻し、群獠が林邑蛮を引き入れ安南府を攻めたのが発端で、咸通3年に大規模な出兵をしたが、この年の冬、蛮がついに交州を陥し、安南への諸軍を撤収させ嶺南東西道に分けて守らせた経緯が記される。
  • 11月、令狐滈(長安県尉・集賢校理)を左拾遺とする。これに対し左拾遺劉蛻・起居郎張雲が、父令狐綯の権勢による賄賂受納(李琢からの受贈で安南都護に任じ蛮寇を招いた)を理由に令狐滈の諫諍職不適を上疏したが、令狐綯が淮南から上表して弁明したため、逆に張雲は興元少尹、劉蛻は華陰令に貶され、令狐滈は詹事司直に改められた。王鐸(中書舎人)に礼部貢挙を権知させる。曹確(兵部侍郎・判度支)を同平章事、畢諴(中書侍郎・平章事)を検校吏部尚書・河中尹・晋絳慈隰節度使とする。張允伸(幽州)に検校司徒を加える。高璩(兵部侍郎)を同平章事、裴寅(戸部侍郎)に本司事を判せさせる。

咸通五年(864年)

  • 春正月戊午朔、用兵のため元会を廃す。諫議大夫裴坦が、財賦困窮の折に仏寺興隆を過度に行うべきでないと上疏、優詔で応える。
  • 2月、牛叢(兵部尚書)を検校兵部尚書・成都尹・剣南西川節度副大使・知節度事とする。徐州は処置観察防禦使とする。杜審権(門下侍郎・兵部尚書・平章事)を潤州刺史・浙江西道節度使とする。
  • 3月、高湜・于懐に吏部の平判選人の試験官を命じる。
  • 4月、夏侯孜(右僕射・平章事)に爵500戸を加える。王鐸(中書舎人)を礼部侍郎、孟球(晋州刺史)を検校工部尚書・徐州刺史とする。南蛮が邕管に侵寇、秦州経略使高駢に禁軍5千を率いさせ諸道の師と合わせ防禦させる。
  • 5月丁酉、制を発す。即位以来6年、遊猟・声色・刑戮・邪佞を戒めてきたが、西戎・北狄は懐柔できたものの南蛮のみが服さず交阯・朗寧・雋州へ侵犯し士卒を労し百姓を騒がせていることを憂い、湖南・桂州(嶺路の要衝)への賦役負担軽減として潭州・桂州に各銭3万貫を賜い軍銭・館駅の資本に充てさせ、江陵・江西・鄂州の三道にも同様の措置を検討させる旨、邕州以西・黎州・雋州境での戦没者を埋葬・祭祀させる旨を布告。また、徐州の兵は雄勁で歴代の統制に難があったが再置の節度使のもとで人心が落ち着いたとし、逃亡罪の不問方針を再確認しつつ、徐泗団練使に官健3千を選び邕管防戍に赴かせ嶺外平定後は交代帰還させること、淮南・両浙の海運の混乱(虜による通行阻害、商人の荷が水辺に放置され散逸する弊)を正すため鹽鉄巡院を通じた雇船制を整備することを命じた。壬寅、楊収(中書侍郎・平章事)を門下侍郎兼刑部尚書、曹確(中書侍郎・平章事)に工部尚書を兼ねさせ、高璩(兵部侍郎・平章事)を中書侍郎・知政事とする。
  • 秋7月壬子、延資庫使夏侯孜が、鹽鉄・戸部から延資庫への未納額(咸通4年以前で369万余貫匹、うち戸部分は大中12年から咸通4年9月までで150万5714貫匹欠損)の実態と、除陌銭の一部(80文中15文)を延資庫に直接収管させる従来の敕の運用を巡る戸部との調整案を奏し、許可される。
  • 10月丙辰、李蔚(中書舎人)に礼部貢挙を権知させる。
  • 11月乙酉、盧簡方(大同軍防禦使)を検校工部尚書・滄州刺史・御史大夫・義昌軍節度・滄済徳観察等使とする。乙未、蕭寘(兵部侍郎)を同中書門下平章事とする。

咸通六年(865年)

  • 正月癸未朔、丁亥、孔温裕(河東節度使)を鄆州刺史・天平軍節度・鄆曹棣観察処置等使とする。
  • 2月、徐商(御史中丞)を兵部侍郎・同平章事とする。高璩が知政事を罷める。崔慎由・鄭従讜・王鐸・崔謹・張彦遠らに宏詞選人の考官を、張乂思・董賡に抜萃選人の試験官を命じる。楊厳(給事中)を工部侍郎、まもなく翰林学士とする。
  • 4月、西川節度使牛叢が蛮界に新城・安城・遏戎州の築城完了を奏す(南詔蛮が姚州・雋州に侵寇した際、陳許の大将顔復が雋州で新城2つを守り、秋に六姓蛮が遏戎州を攻めたが顔復に敗退した経緯)。徐商・蕭寘(兵部侍郎・平章事)が中書侍郎・知政事に転ずる。
  • 5月、楊知温(左丞)を河南尹、馬挙(神策大将軍)を秦州経略招討使、李宴元(右金吾大将軍)を夏州刺史・朔方節度等使とする。安南都護高駢が邕管で林邑蛮を大破したと奏す。
  • 7月、薛綰(右衛大将軍)を検校工部尚書・徐州刺史・徐泗団練観察防禦等使とする。
  • 9月、趙騭(中書舎人)に礼部貢挙を権知させる。蕭仿(吏部侍郎)を検校礼部尚書・滑州刺史・御史大夫・義成軍節度・判滑潁観察等使とする。
  • 12月、太皇太后鄭氏崩、諡は孝明。この年の秋、高駢が海門から進軍し蛮軍を破り安南府を収復。李琢の失政以来10年に渡り交阯が陥没し蛮軍が邕容境を侵していたが、ここに故地を回復した。

咸通七年(866年)

  • 春正月戊寅朔、太皇太后の喪により元会を廃す。
  • 3月、王紹懿(成徳軍節度・鎮冀深趙等州観察処置等使)卒、贈司徒(王紹鼎の弟、共に壽安公主の子)。三軍は紹鼎の子景崇を兵馬留後に推す。張允伸(幽州)に太保・平章事を加え燕国公に進封。鄭従讜(吏部侍郎)を検校礼部尚書・太原尹・北都留守・河東節度管内観察処置等使とする。
  • 4月、壽安公主が入朝を上表するが、母孝明太后の陵墓造営を理由に祔廟の礼が済んでから許可する旨の詔が下る。
  • 7月、沙州節度使張義潮が甘峻山青鷹4聯・延慶節馬2匹・吐蕃女子2人を進める。僧曇延が「大乗百法門明論」等を進める。
  • 8月、鎮州王景崇が忠武将軍・左金吾衛将軍同正・検校右散騎常侍・鎮州大都督府左司馬・知府事・御史中丞・成徳軍節度観察留後に起復。徐商(中書侍郎・平章事)に工部尚書を兼ねさせる。
  • 10月、沙州張義潮が、回鶻首領僕固俊を差し向け吐蕃大将尚恐熱と交戦させ大破・斬首、首を京師に伝えたと奏す。夏侯孜(右僕射・門下侍郎・平章事)を検校司空・平章事・成都尹・剣南西川節度副大使・知節度使とする。安南高駢が蛮寇を悉く平定したと奏す。
  • 11月10日、宣政殿で大赦(安南回復による)。路岩(翰林学士承旨・戸部侍郎)を兵部侍郎・同平章事とする。義成軍節度蕭仿に検校兵部尚書を加える(善政を褒める趣旨)。李景温・高湘に抜萃選人の試験官を命じる。

咸通八年(867年)

  • 春正月壬寅朔、丁未、河中・晋州・絳州で大地震、家屋倒壊で死傷者。
  • 3月、安南高駢が邕管への水路の巨石を開鑿し漕船の滞りをなくしたと奏し、褒詔を下す。楊収(門下侍郎兼戸部尚書・平章事)を検校兵部尚書・浙江西道観察使、杜審権(浙西観察使)を尚書左僕射、于忭(兵部侍郎)を同平章事とする。
  • 9月丁酉、延資庫使曹確が、戸部からの延資庫送銭絹の積年未納問題(大中8年以降咸通4年までに150万5700余貫匹、咸通6年から8年でさらに36万5507貫匹の未納)とその対応策(除陌銭の直接管理等)を奏し、許可される。
  • 10月丙寅、戸部侍郎・判度支崔彦昭が、江淮諸道の両税・榷酒等の商人による便換(為替決済)が供軍使の名目で滞っている弊を正すよう奏し、許可される。曹確(門下侍郎・戸部尚書)に吏部尚書を、路岩(門下侍郎・礼部尚書)に戸部尚書を、徐商(中書侍郎・工部尚書)に刑部尚書を兼ねさせ、于忭(兵部侍郎・平章事)を中書侍郎とする。劉允章(中書舎人)に礼部貢挙を権知させ、盧匡・李蔚・薛崇・崔殷夢に吏部宏詞選人の考官を命じる。

咸通九年(868年)

  • 春正月丙申、李蔚(吏部侍郎)を検校刑部尚書・汴州刺史・御史大夫・宣武節度・汴宋亳観察処置等使とする。張允伸(幽州節度使)に検校太傅を加える。焦瀆・李岳に宏詞選人の考官を命じる。
  • 7月戊戌、白虹が西方に横たわる。この月、徐州から桂林戍に赴く戍卒500人のうち官健許佶・趙可立がその将王仲甫を殺し、糧料判官龐勲を都頭に立て、湘潭・衡山両県を掠奪し衆1千を擁して勝手に本鎮へ引き返す(龐勲の乱の発端)。
  • 9月辛卯朔、甲午、龐勲が宿州を陥し、知州判官焦潞が徐州へ逃げ帰る。乙未、龐勲が徐州を陥し、節度使崔彦曾、判官焦潞・李稅・温延皓・崔蘊・韋廷乂を殺す(監軍張道謹のみ免れる)。徐州・宿州の官庫の銭帛を放出して凶徒を募集し、10日足らずで衆5万に達した。龐勲は表を奉じて罪を請いつつ節鉞を要求、帝は中使を遣わし撫んだ。賊は別将梁伾を宿州守将、姚周を柳子寨主とし、劉行及・丁景琮・呉迥を泗州包囲に向かわせた。10月、河南・河東・山南諸道の師を徴発する詔。楊収(浙西観察使)を端州司馬同正、弟楊厳(前浙東観察使・越州刺史・御史中丞)を韶州刺史、楊厳(検校工部尚書・洪州刺史・鎮南節度・江南西道観察処置等使、同名別人)を嶺南へ長流。淮南節度使令狐綯は泗口が賊に突かれるのを恐れ大将李湘を派遣したが賊に誘われ油断したところを襲われ全軍が壊滅、李湘と都監郭厚本は賊に捕らえられ徐州へ送られた。
  • 11月庚寅朔、丁酉戌時、妖星が匹練のように空を横切り雲に化して楚の分野に没す。呉迥は李湘を捕らえたのち、小将張行簡・呉約に滁州を攻めさせ、守備の乏しい城が陥落、張行簡は刺史高錫望を斬り城を屠って去る。さらに和州を攻め、刺史崔雍は城楼から呉迥に「城中の財と女子は惜しまぬが天子の城池だけは取るな」と乞い賊はこれを容れて掠奪にとどめたが、濠を浚った判官張琢を殺した。龐勲はまた将劉贄に濠州を攻めさせ陥落、刺史盧望回を捕らえ憤死させ、僕妾数人は賊に蒸し食われた。
  • 12月庚辰朔、将軍戴可師が沙陀・吐渾部落2万を率い淮南で賊と転戦、賊は屢々敗れ淮南の守りを放棄した。この歳、江淮で蝗害と大旱。龐勲が嶺南への戍兵護送の準備を奏したが、鄂岳観察使劉允章は龐勲の10万の徒衆が戍卒と合流する危険を上書、詔で龐勲の動きを制止し江淮諸道に捕縛を命じる。

咸通十年(869年)

  • 春正月己未朔、徐州での用兵により元会を廃す。癸亥、韋保衡(右拾遺)を銀青光禄大夫・守起居郎・駙馬都尉とし、皇女同昌公主に降嫁(婚儀は盛大を極めた)。王晏権(神武大将軍、王智興の従子)を検校工部尚書・徐州刺史・武寧軍節度・徐泗濠観察・徐州北路行営招討等使、硃克誠を北路招討都虞候、王宥を北路招討前軍使とする。劉瞻(翰林学士・戸部侍郎)を同平章事とする。蒋伸(中書侍郎兼戸部尚書・平章事)が病により太子太保に、徐商(門下侍郎兼刑部尚書・同平章事)を検校兵部尚書・江陵尹・荊南節度使とする。康承訓(右神策大将軍・知軍使)を金紫光禄大夫・検校刑部尚書・徐泗行営都招討使とする。あわせて李邵・史忠用・馬澹・董濤・戴可師・硃邪赤心・王建・曹翔・馬挙・高羅銳・秦匡謨・李播ら計18人の将を各道の招討使に任じ、諸道の兵7万3015人を分統させ、正月1日に徐州攻めを進軍。魏博何弘敬は当道の兵1万3千を行営へ送る。賊将劉行及・丁景琮・呉迥が泗州を包囲していたが、戴可師がこれを救援し石梁駅に屯し賊を退けて追撃、劉行及を生擒、賊は都梁城に籠るも指を断たれて示された劉行及の姿に降伏を申し出た。しかし夜中に賊が水を渡って遁走、翌日重霧の中で賊が反撃し戴可師は虹県人郭真に殺され一軍が壊滅(忠武・太原・沙陀の騎兵のみ全うして退く)。副将王健は捕らえられ、劉行及は賊将呉迥に奪還され、呉迥はさらに泗州を包囲、内外が遮断された。龐勳は勝ちに恃んで不遜な上表と康承訓への挑発文を送る。王晏権による招懐策も徐人の恨みを解けず(王式による誅殺の怨みが根深い)、康承訓の宿州攻めで賊将梁伾は敗れ続け、康承訓に検校尚書右僕射・靈滑州刺史・義成軍節度使を加える。楊収(端州司馬)は驩州へ長流の上、楊厳とともに賜死。関係者(楊公慶・厳季実・楊全益・史明・廉遂・何師玄・李孟勳・馬全祐・李羽・王彦復ら)は儋州・崖州・播州等へ長流、判官硃偘・常濆・閻均らは嶺南へ配流。夏侯孜(河中節度使)は西川で南詔の失政を問われ太子少保・分司東都に降される。
  • 2月己丑、龐勳が急遽泗州を攻め、牙将李員を遣わし刺史杜慆に降伏を勧めるが、杜慆はこれを斬る。薛瓊(司農卿)を淮南に遣わし郷兵を集めさせる。
  • 4月、康承訓が柳子寨の賊を大破したと奏す。監軍楊玄価と康承訓に汴河の水を宿州へ引き込んで攻めるよう指示。
  • 6月丁亥朔、戊戌、制を発す。即位11年、内は奢靡を戒め外は遊猟を廃してきたが、旱魃・虫害と蛮夷・盗賊の乱が続いていることを憂い、獄囚のうち十悪忤逆・官典犯贓・故意殺人・毒薬製造・放火持仗・盗掘・徐州逆党関連以外は減刑・速決とし、旱天の間は坊市の屠殺を停止するよう命じ、蝗旱の被害地への配慮と徐州の反乱平定に際しては脅従者を巻き込まぬよう戒める旨を布告した。賊将鄭鎰が壽州を急攻、南面招討使馬挙が救援し賊は囲みを解く。康承訓は賊の小睢寨攻めに失敗し退く。
  • 7月、康承訓が柳子寨を攻め落とし寸前で賊将王弘立の援軍に大敗、宋州に退く。龐勳は勝ちに乗じ自ら徐州の精兵を率いて泗州を攻め、都将許佶に徐州を守らせる。馬挙が行営都招討使として康承訓に代わり泗州救援に赴く。
  • 8月、和州防虞行官石侔ら130人が刺史崔雍を訴える。賊が烏江県を襲った際、崔雍は探知の報を信じず、賊が城に迫ってからも賊将呉約と酒宴し城を明け渡す約束をし、判官李譙・張立を身内と偽って助命を乞い、他の官健800余人が斬られたにもかかわらず自らは家財ごと潤州へ逃れたという内容。敕により崔雍は宣州で拘禁の上、審理される。この月、馬挙が泗州の囲みを解き、賊は逃げ去る。敕により、崔雍は最終的に自尽を命じられ陵陽館で死し、子の党児・帰僧は康州へ配流。崔雍に連座した司勲郎中崔原ら5人も各地の司戸に貶される。
  • 9月、賊の宿州守将張玄稔が城を挙げて降り兵1万を得て、馬挙がこれと合流。龐勳はこれを聞き徐州を包囲、許佶は3日籠城の末に敗走。張玄稔が徐州を収復、龐勳は濠州へ逃れようとしたが馬挙が渙河で追撃し撃破、龐勳は溺死。蕭県の主将も許佶を斬り献じ、徐州の賊は悉く平定された。龐勳の乱では徐州に貯蓄がなく、揚・楚・盧・壽・滁・和・兗・海・沂・密・曹・濮等州で牛馬糧食を略奪し続け、衆20万(男女15歳以上を悉く動員、「霍錐」と呼ぶ自作の武器を持たせた)に膨れ上がり、周年にわたり10余郡の民が甚大な被害を受けたが、ここに悉く平定された。張玄稔には銀青光禄大夫・検校右散騎常侍・右驍衛大将軍・御史大夫を授け、絹5千匹・金榼1枚・蓋碗1具・金腰帯1条を賜う。制文では11年間の治世を振り返り、南蛮の戦乱がようやく終わったところに徐州の乱が起きたが平定できたのは将士の協力によるとし、平定後の行営将士への恩賞・帰郷・戦死者への手厚い抚恤(贈官・遺族への配慮・墓の改葬)、脅従者の不問、徐・宿・濠・泗等州の両税・差科の10年免除(以後3年蠲免)、被災民の田宅産業の返還、荒廃した先賢墓の修復等の善後策を布告し、右散騎常侍劉異・兵部郎中薛崇らを宣撫に遣わした。馬挙を検校司空・揚州大都督府長史・淮南節度副大使・知節度事、曹翔を検校兵部尚書・徐州刺史・徐泗濠団練防禦等使、令狐綯(前淮南節度使)を太子太保・分司東都とする。何弘敬(魏博節度使)卒、三軍がその子全皞を兵馬留後に立てる。
  • 11月、南詔蛮の驃信坦綽酋竜が衆2万を率い雋州に侵寇。定辺軍節度都頭安再栄は清渓関を守るも攻められ大渡河まで退き、9日8夜隔水で対峙。定辺軍節度使竇滂が兵を率いて拒む。
  • 12月、驃信が清平官10余人を遣わし偽りの和議を持ちかけ、蛮軍が渡河、忠武・武寧の兵が抗戦し午から申刻まで戦い蛮軍がやや退く。竇滂は帳中で首を吊ろうとしたが徐州将苗全緒に解かれ、苗全緒・安再栄・弘節らが夜襲を敢行し蛮軍を撹乱、竇滂は単騎で夜逃げした。蛮軍は勝ちに乗じ西川を包囲、朝廷は顔慶復を大渡河制置・剣南応接等使、宋威を行営都知兵馬使とし忠武・武寧の師と合わせ漢州毗橋で蛮軍と戦い大勝、西川の囲みを解く。翌日蛮軍は敗走し西川は平定。蜀王佶を成都尹・剣南西川節度副大使・知節度事(不出閣)とし、盧耽に知節度事を委ねる。鄭従(河東節度使)を召還。康承訓(義成軍節度使)に太原尹・北都留守・河東軍節度使を兼ねさせる。楊知温・于徳孫・李玄らに考官を、盧蕘・楊戴に宏詞選人の試験官を、宋震・胡徳融に科目挙人の試験官を命じる。用兵停止に伴い礼部貢挙を1年停止する詔。杜忭(荊南節度使)に司天奏の異変(外夷兵水の患)を踏まえた辺境防備強化を命じる敕。何全皞(魏博節度使)に起復検校司空・同平章事を加える。

咸通十一年(870年)

  • 春正月甲寅朔、杜審権(尚書右僕射)を検校司徒・河中尹・絳慈隰節度観察処置等使とする。丙午、曹確(門下侍郎・吏部尚書)に尚書左僕射を、路岩(門下侍郎・戸部尚書)に右僕射を兼ねさせ、于忭(中書侍郎)に戸部尚書を兼ねさせ、劉瞻(平章事)を中書侍郎・知政事とする。己酉、康承訓(河東節度使)を「将門の凡才、用兵に暗く重禄を汚した」と厳しく非難する制を発し、徐州平定の功を横取りしながら求貨に走った罪により蜀王傅・分司東都に、さらに恩州司馬同正に貶す。杜慆(検校左散騎常侍・泗州刺史)を検校工部尚書・滑州刺史・義成軍節度・鄭滑観察等使とする。硃邪赤心(河東行営沙陀三部落羌渾諸部招討使)を検校工部尚書・単于大都護・御史大夫・振武節度・麟勝等州観察等使とし、李国昌の姓名を賜う。蕭鄴・于徳孫・楊知温らに考官を、李耀・崔澹らに宏詞選人の試験官を命じる。崔彦昭(河陽三城節度・孟懷澤観察使)を金紫光禄大夫・検校刑部尚書・太原尹・北都留守・河東節度観察等使とする。韋保衡(兵部侍郎・翰林学士承旨・駙馬都尉)を同平章事とする。劉鄴(兵部侍郎)に判度支を命じる。曹確(左僕射・門下侍郎・同平章事)が病により免を求め、検校司空・同平章事・潤州刺史・浙江西道観察等使となる。何全皞(魏博節度使)は酷政のため衙軍に殺され、大将韓君雄が留後に推される。
  • 4月癸未朔、戊子、用兵中の停止を解き貢挙を復す。来年は進士10人・明経20人の計30人を及第させると敕す(以後は先例としない)。
  • 8月辛巳朔、己酉、同昌公主薨、衛国公主を追贈、諡は文懿(郭淑妃所生、大中3年7月3日生、咸通9年2月2日降嫁)。帝は殊のほか悲しみ、医薬が効かなかった待詔韓宗紹らを殺し、その一族300余人を捕らえ京兆府に拘禁した。宰相劉瞻・京兆尹温璋が処罰の行き過ぎを諫めたが、帝は激怒して二人を叱り出した。
  • 9月丙辰、劉瞻(中書侍郎兼刑部尚書・同平章事・集賢殿大学士)を検校刑部尚書・同平章事・江陵尹・荊南節度等使とし左遷。翰林学士鄭畋を梧州刺史、孫瑝を汀州刺史、高湘を高州刺史、楊知至を瓊州司馬、魏簹を春州司馬、張顏を播州司戸、崔顏融を雷州司戸にそれぞれ貶す(劉瞻と親しかったため韋保衡に逐われたもの)。京兆尹温璋は振州司馬に貶され、貶令が出た夜に服毒死した。劉瞻はさらに康州刺史に貶される。
  • 10月、薛能(給事中)を京兆尹、高湜(中書舎人)に礼部貢挙を権知させる。
  • 11月己酉朔、辛亥、王鐸(礼部尚書)を同平章事とする。丁卯、桂林の反乱以来困窮していた徐州の軍額を復活させ、宣徽庫の綾絹10万匹を賜って犒宴に充てる敕。徐州都団練使を感化軍節度・徐宿濠泗等州観察処置等使に改称。鄭従讜(吏部侍郎)を検校戸部尚書・汴州刺史・御史大夫・宣武軍節度使とし李蔚に代え、李蔚を検校吏部尚書・揚州大都督府長史・淮南節度副大使・知節度事とする。

咸通十二年(871年)

  • 春正月戊申、宰相路岩が文武百僚を率い徽号「睿文英武明徳至仁大聖広孝皇帝」を上り、含元殿で冊礼、大赦。辛酉、衛国公主を少陵原に葬る。百僚に輓歌詞を作らせ、韋保衡自ら神道碑を撰し、京兆尹薛能が外監護、楊復璟が内監護を務め、儀礼は盛大を極め、帝は郭淑妃とともに延興門で哭送した。張允伸(幽州節度使)が病のため子簡会を節度副大使・権知兵馬事とするよう請い、許可される。
  • 3月、蕭鄴・帰仁晦・李当らに宏詞選人の考官を、鄭紹業・陸勲らに試験官を命じる。
  • 4月、路岩(左僕射・門下侍郎・同平章事)を検校司徒・成都尹・剣南西川節度等使とする。
  • 5月庚申、獄訟の慎重な処理を求める敕(十悪忤逆・故意殺人・毒薬製造・持仗行劫・盗掘以外は疏理釈放)。帝は安国寺に行幸し講経僧に沈香の高座を賜う。
  • 7月辛丑、中書門下が地方官の奏請・章服授与に関する規定を整理して奏し、許可される(州県官の奏請人数制限等の詳細)。
  • 12月、鄭従讜(検校戸部尚書・汴州刺史・宣武軍節度使)を広州刺史・嶺南東道節度観察処置等使とする。

咸通十三年(872年)

  • 春正月壬寅朔、甲戌、劉鄴(兵部侍郎・判度支)を同平章事とする。張允伸(幽州盧龍等軍節度使)卒、贈太尉、諡は忠烈(幽州鎮守23年)。
  • 2月、幽州牙将張公素が留後張簡会の軍政を奪い自ら留後を称す。丁巳、于琮(尚書右僕射・門下侍郎・同平章事)を検校司空・襄州刺史・山南東道節度観察処置等使とする。趙隠(御史中丞)を戸部侍郎・同平章事とする。
  • 3月、蕭鄴・独孤雲らに宏詞選人の考官を、趙蒙・李超に試験官を命じる(試験当日、蕭鄴が交代し孔温裕が権判)。
  • 5月庚午朔、辛未、張直方(検校尚書左僕射・守左羽林軍統軍・御史大夫)を康州司馬同正に貶す(部下の盗みによる)。乙亥、国子司業韋殷裕が閣門で淑妃の弟郭敬述の陰事を訴えると帝は激怒し即日殷裕を決殺、家を籍没。殷裕の妻崔氏、音声人鄭羽客・王燕客、婢微娘・紅子ら9人は掖庭に配され、閣門使田献銛は紫を奪われ橋陵配、閣門司閻敬直は決十五・南衙配(殷裕の文状を受けた罪)。給事中杜裔休は端州司馬に、中書舎人崔沆(殷裕の妻兄)は循州司戸に、太僕少卿崔元応(殷裕の妻父)は韶州司戸に、前河陰院官韋君卿(殷裕の季父)は愛州崇平尉にそれぞれ貶される。万俟鎔を国子司業、馮彭を普州刺史、陽琯を昌州刺史とする。丙子、於琮を守普王傅・分司東都とする。辛巳、李当・王珮・李郁・封彦卿・張裼・楊塾・厳祁・李貺・張鐸・李敬伸らが各地に貶され、于涓・于瑰(於琮の兄)も左遷、于藹・於蔇も配流(於琮の親党として韋保衡に逐われたもの)。段文楚(天徳防禦使)を雲州刺史・大同軍防禦使とする。
  • 6月、義成軍節度使杜慆の奏により潁州刺史宗回の留任が認められる。中書門下が、逃亡戸口の税賦を現存の人戸へ転嫁しない方針の徹底を奏し、許可される。
  • 7月、盧簡方(前義昌軍節度使)を太僕卿とする。
  • 12月、李国昌(振武節度)を検校右僕射・雲州刺史・大同軍防禦等使とする(功を恃んで長吏を専殺するなど専横が過ぎたため雲中へ移す)。国昌は病と称し軍務を辞したため、盧簡方を検校刑部尚書・雲州刺史・大同軍防禦等使とし、帝は思政殿で盧簡方に懐柔を託した。この月、李国昌の小男克用が雲中防禦使段文楚を殺し雲州を占拠、自ら防禦留後を称す。宣宗に元聖至明成武献文睿智章仁神聡懿道大孝皇帝の諡を追加する制。

咸通十四年(873年)

  • 春正月丙寅朔、御史中丞韋蟾が刺史の除授手続きの厳格化を奏し、許可される。辛未、雲州・朔州の動乱を受け、盧簡方に李克用への対応を託す詔を発す(段文楚殺害を「忠烈の家門にあるまじき横暴」と非難しつつ、克用が兵権を朝廷に返せば穏便に済むが大同軍を専有しようとすれば長期の患いとなるとし、盧簡方に説得を託す)。盧簡方は詔諭したが李国昌は応じず、太原節度使崔彦昭・幽州節度使張公素に討伐を命じる。
  • 3月、盧簡方(新任大同軍使)を単于大都護・振武節度・麟勝等州観察等使とするが、嵐州に至って卒す。以後、沙陀は代北諸軍鎮を侵掠する。庚午、両街の僧に鳳翔法門寺で仏骨を迎えさせる詔、この日、黄土の雨が降る。
  • 4月8日、仏骨が京師に到着、開遠門から安福門まで彩棚が連なり念仏の声が地を震わせた。帝は安福門で迎礼し内道場に3日間安置後、京城の諸寺に出す。空前の盛儀となった。制文では14年の治世の中で仏教を尊崇し万民のために祈福した旨を述べ、獄囚の減刑(十悪忤逆・故意殺人・官典犯贓・毒薬製造・放火持仗・盗掘以外は罪一等減)を命じた。蕭仿(吏部侍郎)を兵部侍郎・同平章事とする。
  • 6月、帝、不予。
  • 秋7月癸亥朔、戊寅、病が篤くなる。庚午、普王儼を皇太子に立て軍国政事を権勾当させる制。辛巳、遺詔を発し、政治の要諦を求め続けた14年の治世を振り返り、皇太子儼の資質(寛和・忠孝・叡哲)を称え柩前での即位を命じ、韋保衡(司空・門下侍郎・平章事)に冢宰を摂させ、皇帝は3日で聴政、27日で釈服とし、諸道の節度・観察・団練・防禦使や監軍・刺史は任地を離れて哭礼に赴かないこと、薄葬(山陵は倹約し金銀錦繍で飾らない)を命じた。この日、咸寧殿で崩じる。聖寿41。百僚は諡「睿文昭聖恭恵孝皇帝」、廟号懿宗を上る。15年2月、簡陵に葬る。

史論

  • 史臣曰く、咸通の耆老に接して恭恵皇帝(懿宗)の故事を聞くに、大中の代は四海が承平し百官の職務が整い、国庫にも余裕があり豊作が続き辺境も静穏であった。恭恵は即位当初、大中の治を継ぎ励精し諫言を容れ耆徳を尊んだため数年は頌声が満ちたが、その器量は凡庸で近習に流され、親しんだのは宦官と僧徒であった。蠱惑の甘言に振り回され、驕淫の心を制御できなかった。
  • やがて南蛮の辺境で釁が結ばれ戍卒の中から奸が生じ、五嶺への転輸で天下が動揺し、二蜀の防備で民が疲弊した。徐州の龐勲の乱は平定したものの河南は荒廃した。それでもなお軍費を削って伽藍を飾り、民財を困窮させて浄業を修め、諛佞を愛し忠諫を妖言とみなした。険しい出世の道を争う者は多く、貞正を貫く節士は少なかった。取るに足らぬ寵臣が異例の昇進を遂げる一方、忠実な輔臣が理由なく追放された。干戈が野に満ち虫害・旱魃が続く中、仏骨が都に入った直後に帝の柩が野辺で泣かれることになったのは、まさに応報というべきであろう。唐の国運の衰えはここに端を発した。漢の文帝・景帝のような英主が続いたとしても興すのは難しかったろう。国の宝器(帝統)がその後振るわなくなったのも当然である。白髪の老人はこれを語りつつ涙を流す。

賛曰く、国家の治乱は君主の判断にかかる。恭恵は驕奢に流れ、賢良は貶められ追放された。凶悪な宦官が国政を握り、佞人が朝廷に満ちた。奸雄が隙に乗じ、後の禍の種を残した。