舊唐書卷十五 本紀第十五 憲宗上(承前)
憲宗聖神章武孝皇帝(778–820年)在位後半の記録。淮西・淄青など長年自立していた藩鎮を武力で相次いで平定し、元和中興と称される中央集権の回復を成し遂げた。晩年は仏骨を迎える熱狂や不老長生の丹薬への傾倒が目立ち、最後は大明宮で急死、宦官による弑逆を疑う噂も伝わった。
年表(12件)
- 元和七年812年魏博の田興(田弘正)が擁立され朝廷に帰順
- 元和九年814年彰義軍節度使呉少陽が死去、子の元済が喪を匿し兵権を奪う(淮西の乱の発端)
- 元和十年815年呉元済の官爵を剥奪し討伐を開始
- 元和十年815年鎮州の刺客が宰相武元衡を暗殺、裴度も襲われ負傷
- 元和十一年816年淮西・河北両面での用兵に罷兵論が出るも上は討伐継続を決断
- 元和十二年817年裴度を彰義軍節度使・淮西宣慰処置使とし親征を命じる
- 元和十二年817年李愬が雪夜に蔡州へ入り呉元済を擒え、淮西平定(李愬雪夜入蔡州)
- 元和十三年818年王承宗が徳棣二州とその租税を献じ帰順
- 元和十三年818年淄青の李師道の官爵を剥奪し討伐を命じる
- 元和十四年819年鳳翔法門寺の仏骨を京師に迎え、これを諫めた韓愈が潮州に左遷される
- 元和十四年819年田弘正の奏により淄青の劉悟が李師道父子を斬り降伏、淄青平定
- 元和十五年820年大明宮中和殿で崩御、宦官陳弘志による弑逆を疑う噂が立つも史書は明記せず
(本篇は前ファイル(0014)の続きで、元和六年閏十二月までの記事は0014側に収めた。以下は元和七年正月から憲宗の崩御・史論までを収める。)
元和七年(812年)
- 正月、刑部尚書趙宗儒を検校吏部尚書・興元尹・山南西道節度使とする。兵部尚書王紹に判戸部事を兼ねさせる。京兆尹元義方を鄜州刺史・鄜坊丹延観察使、司農卿李銛を京兆尹とする。信州永豊県・越州山陰県・衢州盈川県を廃止。振武で河が溢れ東受降城を毀す。
- 2月、前秋の旱歉により京畿粟30万石を賑恤、元和6年春の貸与百姓粟24万石を免除。尚書省の左右僕射上事儀注を改定。兵部侍郎許孟容を河南尹とする。山南西道節度使裴玢が死去。入蕃使の私覿正員官の規定を改める。銭重物軽の弊害への対策を群臣に諮問する勅。
- 3月、恵昭太子の葬儀のため曲江上巳宴を停止。旱により諸司に系囚の疏決を命じる。
- 4月、天下州府の民戸に田畝ごとに桑2樹を植えさせる勅。塩鉄使王播が元和6年の売塩鉄収入685万9200貫を奏す。
- 5月、上が呉越の水旱について御史の報告に疑問を呈し李絳が反論、上は自らの発言を悔いる。
- 6月、舒州桐城で黄白二龍が陂から風雷に乗り高さ200尺を躍り上がり6里を飛ぶという奇異。司徒・同平章事杜佑が光禄大夫・太保致仕となる(本人の懇請による)。鎮州の甲仗庫13間が火災、王承宗は天罰を恐れ主庫吏100余人を殺す。兵部員外郎王涯に知制誥を命じる。遂王宥を皇太子に立て名を恒と改める。新羅の金彦昇を新羅国王に冊立し妻貞氏を妃とする。
- 8月、新羅の宰相金崇斌ら3人に戟を賜う。魏博節度使田季安が死去。蓬州宕渠県を廃止。宣歙観察使房式が死去。蘇州刺史範伝正を宣歙観察使とする。諸州府五品以上官の推薦制度を整理。左龍武大将軍薛平を滑州刺史・義成軍節度使とする。
- 10月、魏博の軍が衙将田興(後の田弘正)に軍州事を知させる(田季安の死後、子の懐諫11歳が副大使となるも実権は家僮蒋士則が握り軍情不安、田興が推され蒋士則ら十数人を殺すにとどめ懐諫を京師へ送る事件)。田興を魏博節度使とする。澧王寛を惲、深王察を忭、洋王寰を忻、絳王寮を悟、建王審を恪と改名。鄭滑節度使袁滋を戸部尚書とする。
- 11月、田興の請願に応じ司封郎中裴度を魏博宣慰に遣わし三軍に賞銭150万貫を賜う。太保致仕杜佑が死去。東川観察使潘孟陽が龍州の嘉禾瑞祥を奏す。給事中李逢吉・司勲員外郎李巨を皇太子諸王侍読とする。吏部尚書鄭余慶の考官増員案を吏部郎中楊於陵が不便として異論。江西観察使崔芃が死去。前魏博節度副使田懐諌を右監門衛将軍とし宅・芻粟を賜う。同州刺史裴堪を江西観察使とする。12月、吏部尚書鄭余慶を太子少傅とする。左拾遺楊帰厚が私事で礼会院を借用した罪で国子主簿分司に左遷。京兆尹裴向を同州防禦使とする。魏博が管内州県官253員の吏部銓注を請う。
元和八年(813年)
- 正月、大言義を渤海国王に冊す。礼部尚書・平章事権徳輿が知政事を罷免。山南東道節度使李夷簡を検校戸部尚書・成都尹・剣南西川節度使、戸部尚書袁滋を検校兵部尚書・山南東道節度使とする。
- 2月、田興が名を弘正と改める。宰相李吉甫が《元和郡国図》30巻・《六代略》30巻・《十道州郡図》54巻を進める。宰相于頔の子太常丞敏が梁正言の奴を専殺し廁に捨てた事件により、于頔は恩王傅に左遷、子の於敏は雷州に長流、駙馬都尉於季友も官を削られ謹慎、賄賂に絡んだ僧鑑虚らも杖死させる。剣南西川節度使武元衡が中書に復帰し知政事、崇玄館大学士・太清宮使を兼ねる。上が久旱により禁中で自ら雨を求め、その夜澍雨。大風で崇陵寝殿の鴟尾が壊れ門戟6が折れる。
- 4月、邕管経略使房啓を桂管観察使、開州刺史竇群を邕管経略使とする。銭重物軽の対策として庫銭50万貫を出し常平倉に布帛を収市。鄜坊観察使元義方が死去、将作監薛伾が後任。長安西市で豕が三耳八足二尾の奇形で生まれるという奇異。僧鑑虚が高崇文の賄賂4万5千貫を宰相杜黄裳に納めた不正事件が発覚するも黄裳・崇文は既に死去のため不問、関係者杜載は釈放。魏博田弘正に銭20万貫を賜い軍糧を収市。河中尹張弘靖が古舜城の修築を奏す。
- 6月、長雨で延英殿が15日開かれず。工部尚書致仕裴佶が死去。東都留守韓皋を検校吏部尚書・許州刺史・忠武軍節度使とする。京師の大風雨で屋根が飛び圧死者多数。水災により宮人200車を放ち帰す。宰相と旧相に旧作の詩の進呈を命じる。
- 7月、権徳輿を検校吏部尚書・東都留守とする。振武節度使李光進を霊武節度使とする。興唐観の修築(禁城に接続する複道を開く)。新任桂管観察使房啓が不正な官告取得の罪で太僕少卿に降格。安南都護馬総を桂管観察使、江州刺史張勔を安南都護とする。鄜坊観察使薛伾が死去。
- 8月、蘄州刺史裴行立を安南都護とする(張勔の老齢による交代)。司農卿裴武を鄜坊観察使とする。故徐州刺史李洧ら家門を捨て国に尽くした10家の子孫を顕彰する詔。東川節度使潘孟陽を戸部侍郎・判度支、盧坦を梓州刺史・剣南東川節度使とする。天武軍を廃し神策軍に併合。
- 9月、淄青李師道が鶻12羽を進めるが返却。群臣に曲江で宴を賜う。嶺南諸道での良賤売買・骨肉離散を禁じる詔。淮西呉少陽が馬300匹を献じる。辺境配流の規定を整理。給事中竇易直を陝虢防禦使とする。恩王傅于頔を太子賓客とする。将相の任免詔書(白麻)の中書草制を廃す先例が始まる。太常の音楽に大鼓の使用を復す。
- 10月、湖南観察使柳公綽を岳鄂沔蘄安黄観察使とする。涇原節度使朱忠亮が死去。汴州韓弘が《聖朝万歳楽譜》300首を進める。宗正少卿李道古を黔中観察使、蘇州刺史張正甫を湖南観察使とする。大雪で朝会を停止、凍死者・雀鼠の死多数。神策普潤鎮使蘇光栄を涇州刺史・四鎮北庭行軍涇原節度使とする。振武が回紇千騎の来襲を報告。
- 11月、福建観察使裴次元を河南尹とする。塩州を夏州に隷属させ夏州・豊州間に8駅を新設。泗州刺史薛謇を福建観察使とする。右龍武統軍劉昌裔が死去。昭義郗士美が諸軍を臨洺で就食させると奏す。京畿の水旱霜害で3万8千頃の田が損なわれる。
- 12月、京兆尹李銛を鄜坊観察使とする。王公・公主・百官の莊宅等の売買規定を整理。功臣張茂昭の遺族への恩賜(歳絹2千匹)。群臣が徳妃郭氏の立后を請う上表。桂管観察使馬総を広州刺史・嶺南節度使、邕管経略使崔詠を桂管観察使とする。夔州刺史馬平陽を邕管経略使とする。振武軍で反乱、帥李進賢を追放しその家を屠る(夏州節度使張煦が代わり鎮圧に赴く)。金吾衛将軍田進を夏州刺史・夏綏銀節度使とする。河水が滑州羊馬城を浸食した対策として滑州薛平・魏博田弘正が1万人の役夫を動員し黎陽界に古黄河道(長14里、幅60歩、深さ1丈7尺)を開き水勢を分散、滑州の水害が解消。
元和九年(814年)
- 正月、大霧と雪。李吉甫が累度相位を辞すも許されず。張煦が単于都護府に入り反乱軍士蘇国珍ら252人を誅す。
- 2月、戸部侍郎・判度支潘孟陽に京北五城営田使を兼ねさせる。前振武節度使顧進賢を通州刺史に左遷。歳饑により関内の元和8年以前の逋租銭粟を免除し常平義倉粟30万石を賑恤。振武軍に絹2万匹を賜う。宰相李絳が礼部尚書に転じる(累度相位を辞したため)。
- 3月、巂州で地震(昼夜80回、圧死者100余人)。妖人梁叔高が吏部侍郎楊於陵に書を送るが於陵がこれを告発し誅殺。太子少傅鄭余慶を検校右僕射・興元尹・山南西道節度使とする。霜害で桑が枯れる。大理卿裴棠棣の子損、前昭応令杜式方の子忭を麟徳殿前に召し緋を賜い公主の降嫁を許す。
- 4月、亡き咸寧王渾瑊に徳宗廟庭への配享を命じる詔。
- 5月、嶺南節度使鄭絪を工部尚書とする。宥州を経略軍に移し延恩県を置く。この月旱で穀貴、太倉粟70万石を放出し6場で賑糶。桂王綸が薨去。旱により京畿の夏税13万石・青苗銭5万貫を免除。
- 6月、天徳軍経略使周懐乂が死去し廃朝1日(経略使の廃朝はこれに始まる)。義武軍節度副使渾鎬を検校工部尚書・定州長史・義武軍節度使とする。龍武将軍燕重旰を豊州刺史・天徳軍節度使とする。禮賓院を長興里に置く。左丞孔戣を華州刺史・潼関防禦・鎮国軍等使とする。河中晋絳慈隰等州節度使張弘靖を刑部尚書・同中書門下平章事とする。
- 7月、御史大夫趙宗儒を検校尚書右僕射・河中尹・河中晋絳等州節度使とする。太子司議郎杜忭を殿中少監・駙馬都尉とし岐陽公主に尚す。
- 閏8月、河陽節度使烏重胤に汝州刺史を兼ねさせる。中書舎人王涯・屯田郎中韋綬を皇太子諸王侍読とする。田弘正に検校右僕射を加え三軍に銭20万貫を賞す。
- 9月、洺州刺史李光顔を陳州刺史・忠武軍都知兵馬使とする。山南東道節度使袁滋を検校兵部尚書・荊南節度使、荊南節度使厳綬を検校司空・山南東道節度使とする。淮西節度使呉少陽が死去、子の元済が喪を匿し兵権を握り舞陽等4県を焼劫(淮西の乱の発端)、朝廷の吊祭使を拒絶。真臘国が朝貢。河東節度使王鍔に検校司空・同平章事を加える。給事中孟簡を越州刺史・浙東観察使とする。呉少陽に尚書右僕射を追贈。
- 10月、中書侍郎・平章事・趙国公李吉甫が死去。刑部員外郎令狐楚を職方員外郎・知制誥とする。忠武軍節度使韓皋を吏部尚書、忠武軍節度副使李光顔を許州刺史・忠武軍節度使とする。淮西討伐に山南東道節度使厳綬を申光蔡等州招撫使とする制(内常侍崔潭峻を監軍)。尚書左丞呂元膺を検校工部尚書・東都留守とする(留守への旗甲賜与を停止する新例)。
- 11月、吏部尚書韓皋を太子賓客とする。御史中丞胡証を単于大都護・振武麟勝等軍節度使とする。太子太傅範希朝が死去。中書舎人裴度を御史中丞、左金吾大将軍郭釗を邠州刺史・邠寧節度使とする。職方員外郎令狐楚を翰林学士とする。12月、振武節度使張煦、邠寧節度使閻巨源、兵部尚書王紹、右羽林統軍孟元陽、太子少保趙昌らが相次いで死去。中大夫韋貫之を同中書門下平章事とする。
元和十年(815年)
- 正月、宣武軍節度使韓弘に司徒を守らせる(平章事は元のまま)。厳綬が師を蔡州界に進める。呉元済の官爵剥奪の制。桂管が富州の治所を故城に移すと奏す。
- 2月、厳綬の軍が磁丘で賊に襲われ敗れ唐州に退く。田弘正の子布、韓弘の子公武がそれぞれ師を率い李光顔に隷属し討賊。禮部尚書李絳を華州潼関防禦鎮国軍等使とする。河東防秋将劉輔が豊州刺史燕重旰を殺す。羽林将軍李匯を涇原節度使とする。
- 3月、右金吾将軍李奉仙を豊州刺史とする。剣南西川行軍司馬李程を兵部郎中・知制誥とする。八司馬事件で左遷されていた韓泰・柳宗元・韓曄・劉禹錫・陳諫らをそれぞれ漳州・柳州・汀州・播州・封州刺史に転任(御史中丞裴度が劉禹錫の老母への配慮を請い連州刺史に改める)。亡き崔邠に礼部尚書を追贈。李光顔が南頓で賊を破る。盗賊が河陰転運院を焼き銭帛20万貫匹・米2万4800石・倉室55間を焼失、防院兵500人がありながら救わなかったため呂元膺が将を殺す。京師の人心が動揺。長安県令徐俊を邕管経略使とする。
- 5月、御史中丞裴度に刑部侍郎を兼ねさせる(淮西行営宣慰から戻り軍機の言が上意に合致した功による)。李光顔が洄曲で賊党を大破(諸鎮の師が数年環囲しながら戦功なかったところ、裴度が「光顔こそ義を見て勇なる者、必ず功を立てる」と奏していたことが的中し上が裴度の知人を賞賛)。
- 6月、鎮州節度使王承宗の刺客が靖安坊で宰相武元衡を刺殺、通化坊で御史中丞裴度も襲われ頭に傷を負うも一命を取り留める。京城が震撼し厳戒態勢、兵部侍郎許孟容が「国相が路傍に横たわって賊を捕らえられぬとは」と諫言。捕縛に賞銭1万貫を懸ける。神策将士王士則・王士平の密告により張晏ら8人を捕らえ誅す。裴度を刑部侍郎・同中書門下平章事とする。
- 7月、霊武節度使李光進が死去。神策軍長武城使杜叔良を朔方霊塩定遠城節度観察使とする。王承宗討伐の詔(その罪状を列挙し朝貢を絶ち博野楽寿両県を劉総に隷属させ、駙馬都尉王承系ら一族を遠郡に安置)。涇原節度使李匯が死去、将作監王潜が後任。京兆尹裴武を司農卿に左遷(賊の捕縛が緩慢だったため)。
- 8月、日食。訶陵国が僧祗僮・五色鸚鵡・頻伽鳥等の珍品を献じる。淄青節度使李師道が嵩山の僧円浄と謀反、東都進奏院に伏兵した勇士数百人による洛陽襲撃計画が発覚し留守呂元膺が包囲、賊は嵩岳へ逃げるも山棚により全員捕縛(首謀者は僧円浄、処刑に際し「わが事を誤らせた、洛陽を血に染められなかった」と嘆く)。
- 9月、宣武軍節度使韓弘を淮西行営兵馬都統とする。太子賓客韓皋を兵部尚書とする。
- 10月、山南東道を襄復郢均房節度と唐随鄧節度の2節度に分割。刑部尚書権徳輿が刪定《敕格》30巻の施行を奏請。太子賓客于頔を戸部尚書とする。
- 11月、内庫の繒絹55万匹を軍費に供出。山南東道節度使厳綬を太子少保とする。盗賊が献陵寝宮を焼く。振武兵2千を発し義武軍と合流し王承宗討伐。
- 12月、太白が鎮星を犯す。李願が李師道の軍9千を撃破し首2千級を斬る。東都留守呂元膺が三河子弟による宮城衛の募集を請う。越州に山陰県を復置。指南車・記里鼓を新造。宮人72人を京城の寺観に出す(家のある者は帰す)。河東節度使王鍔が死去。この歳、渤海・新羅・奚・契丹・黒水・南詔・牂柯が朝貢。
元和十一年(816年)
- 正月、出征中のため朝賀を受けず。中書侍郎・平章事張弘靖を検校吏部尚書・太原尹・北都留守・河東節度使とする。群臣に用兵の利害についての意見を求める詔。翰林学士銭徽・蕭俯が罷兵を上疏した罪で本官に留められる。王承宗の官爵剥奪、封邑は王武俊の子金吾将軍士平に賜う。河東・河北道諸鎮に増兵進討を命じる。建陵の門戟47竿が盗まれる。李光顔が賊を破ったと奏す。
- 2月、吐蕃の賛普が死去。中書舎人李逢吉を門下侍郎・同平章事とする。内庫絹4万匹を幽魏の将士に賞す。華州刺史李絳を兵部尚書とする。南詔の蛮酋龍蒙盛が死去。
- 3月、皇太后が興慶宮咸寧殿で崩御。宰臣裴度を礼儀使、吏部尚書韓皋を大明宮留守とする。天下に哀を告げる。宰臣李逢吉を大行皇太后山陵使とする。内庫繒帛5万匹を山陵費に供出。
- 4月、西川節度使李夷簡が南詔に哀を告げる。戸部侍郎・判度支楊於陵を郴州刺史に左遷(供軍に欠けあり)。徐宿の飢饉に粟8万石を賑恤。
- 5月、宥州で軍乱、刺史駱怡を追放。李光顔が凌雲柵で賊を破る。
- 6月、高霞寓が鉄城で敗れ新興柵に退保、人心が動揺し宰相が罷兵を進言するが、上は「勝敗は兵家の常、一将の失利で計画を止めるべきではない」と応じる。田弘正の軍が王承宗討伐に向かい南宮に至る。群臣が大行皇太后に謚「荘憲」を上る。
- 7月、随唐節度使高霞寓を歸州刺史に左遷。河南尹鄭権を山南東道節度使、荊南節度使袁滋を彰義軍節度使、華州刺史裴武を荊南節度使とする。随州刺史楊旻を唐州刺史・行営都知兵馬使とする。宣武軍が賊を破る。
- 8月、宰相韋貫之を吏部侍郎とし知政事を罷免(淮西・河北両処の用兵による供餉の労苦を理由に承宗を緩め元済のみ討伐を専らにすべしと裴度と争論したため)。容州で颶風・海水により州城が壊れる。荘憲皇后を豊陵に祔葬。
- 9月、饒州で浮梁・楽平二県の暴雨水害により4700戸が失われ170人が溺死。新除吏部侍郎韋貫之が再び湖南観察使に左遷。吏部侍郎韋顗ら数名が補闕張宿の讒言(韋貫之との朋党とされた)により左遷。蔡州軍前が凌雲柵を抜いたと奏す。
- 10月、刑部尚書権徳輿を検校吏部尚書・山南西道節度使とする。幽州劉総に平章事、鄆州李師道に検校司空を加える(凌雲柵陥落を聞き師道が畏れ偽って恭順を示したため)。司農卿王遂を宣州刺史・宣歙池観察使、京兆尹嫗翛を潤州刺史・浙西観察使とする(供軍のため聚斂に長けた両者を登用)。内庫銭50万貫を軍費に供出。内常侍梁守謙に淮西行営諸軍の監軍を命じ空名告身500通・金帛を付す。
- 12月、易州刺史陳楚を定州刺史・義武軍節度使とする。翰林学士王涯を中書侍郎・同平章事とする。閑廐宮苑使李愬を検校左散騎常侍・鄧州刺史・唐随鄧等州節度使とする。潁水運使を新設(揚子院の米を淮陰から潁州経由で郾城に輸送し年50万石・茭1500万束を得て汴運の費用7万6千貫を節約)。邕管が黄洞賊が巌州を屠ったと奏す。未央宮・飛龍草場で火災。京畿で水害、潤常湖衢陳許で大水。この歳、冬に雷鳴、桃杏が開花する異常気象。回鶻・奚・契丹・牂柯・渤海等が朝貢。
元和十二年(817年)
- 正月、用兵中のため朝賀を受けず。義武軍節度使渾鎬を循州刺史に左遷(討賊の失律による)。唐鄧節度使袁滋を撫州刺史に左遷(罷兵上疏の罪)。夜に星が見え雨。彗星が畢南に現れ長さ丈余、西南を指し3日間見え南下して消える。
- 2月、内庫絹布69万段匹・銀5千両を度支に付し供軍。京城居民の五家相保の制(王承宗・李師道が用兵を妨げようと陵廟の戟を折り芻槁の積みを焼き流言飛書で京師を脅かしたための対策、後に賊平定後に容疑者が実は関吏だったと判明し捜索は無効と分かる)。行郾城を許汝行営近くに置き賊中からの帰降者を処理する。岳鄂団練使李道古が申州を攻め羅城を落とすが賊の反撃で大敗。
- 3月、昭義郗士美の軍が柏郷で敗れ兵士千人が死す。滄州程執恭が名を権と改める。太常が李吉甫に謚「敬憲」を定めるが度支郎中張仲方が異論を唱え遂州司馬に左遷、結局謚は「忠」に改められる。賊将呉秀琳が文城柵の兵3千を率い李愬に降伏。
- 4月、李光顔が郾城で賊3万を破り2〜3割を殺し馬千匹・器甲3万を獲得。駙馬都尉於季友が嫡母の喪中に進士劉師服と夜宴を催した不敬により削官・杖罰・忠州安置、于頔も子を教えられなかった罪で降階。太倉粟25万石を西京で賑糶。蔡州呉房県を遂平県と改称し文城柵南の新城に移す。賊の郾城守将鄧懐金が県令董昌とともに郾城を降す。渭南で雹害、死者あり。河北行営を一時罷め淮蔡討伐に専念する詔。
- 5月、随唐節度使李愬が呉房で賊を破り賊将李祐を獲得。尚書左丞許孟容を東都留守・都畿防禦使とする(東畿民戸の供軍負担が甚だしく、牛が皆軍需に取られ民は驢馬で耕作する惨状)。蓬萊池に周廊400間を造る。
- 6月、衛尉卿程異を塩鉄使とし王播に代える(江南から供軍銭185万を集めた功による)。呉元済が上表し帰順を請うが左右に阻まれ実現せず。京師の大雨で含元殿の柱1本が傾き市中の水深3尺、坊民2千家が壊れる。
- 7月、定州の飢饉により入粟による叙任・減選を募る。河北で水害、邢洺で特に甚だしく平地深さ2丈に及ぶ場所も。戸部尚書于頔が致仕を請うも許されず。嶺南節度使崔詠が死去。左降官の量移規定を整理。国子祭酒孔戣を広州刺史・嶺南節度使とする。中書侍郎・平章事裴度を蔡州刺史・彰義軍節度・淮西宣慰処置使とし親征を命じる制、崔群を中書侍郎・同中書門下平章事とする。刑部侍郎馬総を淮西行営宣慰副使、太子右庶子韓愈を彰義軍行軍司馬、李正封・馮宿・李宗閔らを判官書記とし裴度に従わせる。郾城を行蔡州治所とする。
- 8月、裴度が行営へ出発、上が通化門で慰労し犀帯を賜う。河南尹辛秘を潞府長史・昭義軍節度使とする(郗士美に代わる)。同州刺史張正甫を河南尹とする。裴度が郾城に到着。
- 9月、内庫の羅綺・犀玉・金帯を度支に送り供軍。官員の班位規定を上日基準に改める勅。剣南東川節度使盧坦が死去。京兆尹竇易直を金州刺史に左遷(獄事の不実による)。御史中丞崔元略の登用。門下侍郎・平章事李逢吉を剣南東川節度使とする。撫州刺史袁滋を湖南観察使とする。
- 10月、裴度が沲口で板築を視察中、賊の急襲を受け危うく陥落しかけるも李光顔・田布が退路を扼し賊を大破。《元和辯謗略》3巻を史館に付す。淮南節度使李鄘を門下侍郎・同中書門下平章事、左丞衛次公を淮南節度使とする。随唐節度使李愬が師を率い蔡州に入り呉元済を擒えて献上、淮西平定(李愬雪夜入蔡州)。淮西の功臣を裴度らに条上させ、淮西軍人の罪を一切問わず2年の免除を給う詔。
- 11月、興安門で淮西の俘虜を受ける。呉元済を両市で引き回した後、独柳樹で斬る。妻沈氏は掖庭に没収、弟2人・子3人は配流ののち誅殺、判官劉協ら7人を斬首。淮西平定の論功行賞(李愬を検校尚書左僕射・山南東道節度使、韓弘に侍中、李光顔・烏重胤に検校司空、韓公武を鄜坊丹延節度使、田布を右金吾衛将軍とする)。恩王連が薨去。蔡州郾城を溵州とし上蔡・西平・遂平三県を隷属させる。裴度に上柱国・晋国公・食邑3千戸を賜う。蔡州留後馬総を検校工部尚書・彰義軍節度使とする。右庶子韓愈を刑部侍郎とする。この歳、河南・河北で水害。
元和十三年(818年)
- 正月、含元殿で朝賀を受け丹鳳楼に御し大赦。文宣王38代孫孔惟晊が文宣公を襲う。李師道の献表を受け諫議大夫張宿を宣慰に遣わす。礼部尚書王播を成都尹・剣南西川節度使とする。
- 2月、麟徳殿で群臣を宴し大合楽、3日間に及ぶ。
- 3月、前剣南西川節度使李夷簡を御史大夫とする。同州刺史鄭絪を東都留守とする。御史大夫李夷簡を門下侍郎・同平章事とする。宰相李鄘が戸部尚書に留まり知政事を罷免。太子少師鄭余慶を左僕射とする。百司職田の均等化を命じる詔。王承宗が徳棣二州とその租税を朝廷に献じることを申し出る。前東都留守許孟容が死去。王承宗の官爵を復す詔。華州刺史鄭権を横海軍節度・徳棣滄景等州観察使とする。
- 5月、鳳翔節度使李惟簡が死去。忠武軍節度使李光顔を義成軍節度使、彰義軍節度使馬総を忠武軍節度使とする。山南東道節度使李愬を鳳翔隴右節度使とする。渤海国王大仁秀を冊立。戸部侍郎孟簡を山南東道節度使とする。
- 6月、日食。湖南観察使袁滋が死去。滄景節度使程権を邠寧節度使とする。内庫絹30万匹・銭30万貫を軍費に供出。
- 7月、鳳翔節度使李愬を武寧軍節度使とする。田弘正に検校司空を加える。淄青節度使李師道の官爵剥奪の詔、宣武・魏博・義成・武寧・横海の五鎮に討伐を命じる(淄青討伐の開始)。門下侍郎・平章事李夷簡を淮南節度使とする。諸道節度使の度支営田使兼帯を廃止。左僕射鄭余慶を鳳翔隴右節度使とする。
- 8月、中書侍郎・平章事王涯を兵部侍郎とし知政事を罷免。尚書右丞崔従を山南西道節度使とする。前山南西道節度使権徳輿が死去。
- 9月、左衛将軍高霞寓を単于大都護・振武麟勝節度使とする。戸部侍郎・判度支皇甫鎛、塩鉄転運使程異を同中書門下平章事とする(財政に迫られ聚斂の臣を宰相に用いたことに宰臣裴度・崔群が強く諫めるも容れられず、両人は退任を請う)。内庫絹10万匹を東軍に供出。
- 10月、吐蕃が宥州に侵攻。霊武が吐蕃2万を定遠城で破る。前淮南節度使衛次公が死去。平涼鎮遏兵馬使郝玼が原州を収復し吐蕃2万を破ったと奏す。左金吾衛大将軍薛平を義成軍節度使、義成軍節度使李光顔を忠武軍節度使とする。
- 11月、夏州が吐蕃5万を破る。霊武が吐蕃の長楽州羅城を攻略。山人柳泌を台州刺史とする(上のため天台山で仙薬を採らせるため、諫官の異論も容れられず)。河陽節度使烏重胤を横海軍節度使とする。華州刺史令狐楚を河陽三城節度使とする。
- 12月、左右龍武軍等の納課戸1800人の衣糧を停止。李師道の将夏侯澄ら47人を捕らえ魏博・義成軍に釈放処置。上が「臣たる者は善行に努めるべきで朋党を好んではならない」と諭し裴度が「君子小人はその行いを観れば自ずと区別できる」と応じる問答。この歳、回紇・南詔蛮・渤海・高麗・吐蕃・奚・契丹・訶陵国が朝貢。
元和十四年(819年)
- 正月、出征中のため朝賀を受けず。仗内教坊を延政里に復置。徐州軍が金郷で賊2万を破る。鳳翔法門寺の仏骨を京師に迎え禁中に3日留め寺へ送る(王公士庶が争って施しをする熱狂)、刑部侍郎韓愈がその弊を極言する上疏(論仏骨表)、韓愈は潮州刺史に左遷される。魏博軍が東阿で賊5万を破る。前滄州刺史李宗奭(詔に抗い交代を受け入れず三軍に追放され入朝した罪)を独柳樹で斬る。魏博軍が陽谷で賊1万を破る。
- 2月、商州刺史厳謨を黔中観察使とする。淄青行営諸軍に略奪・焚焼・掘墓等を厳しく禁じる勅。鎮冀の水害に王承宗へ綾絹1万匹を賜う。田弘正が淄青都知兵馬使劉悟が李師道と子2人の首を斬り降伏を請うたと奏し、師道の管する12州が平定。上が宣政殿で朝賀を受け、興安門で田弘正の献じた賊俘を受け群臣が祝賀。劉悟を検校工部尚書・義成軍節度使・彭城郡王とし食邑3千戸・銭2万貫・莊宅を賜う。田弘正に検校司徒・同中書門下平章事を加える。
- 3月、斉魯平定を祝い麟徳殿で群臣を宴す。李師道の旧領12州を華州刺史馬総(鄆濮曹等州)・薛平(青州、平盧軍節度)・王遂(沂州、沂海兗密等州)の三鎮に分割。浙西観察使李翛が死去。李師道の妻魏氏・子を掖庭に没収、堂弟師賢師智・甥弘巽を配流。中書舎人衛中行を華州刺史とする。上が宰臣に「聴受の間は大変難しい、誠を推して人を選び委ねても行いには偏りが出るもの」と述べ《辯謗略》編纂の意図を語り、崔群が「賢を択び誠を以て遇し法を以て糾せば人は自ずと公に帰す」と応じる。撫州司馬令狐通を右衛将軍とするが給事中崔植が過去の失律を理由に制書を封還、上が父の功に免じ通す。
- 4月、刑部尚書李願を鳳翔隴右節度使とする。諸道節度使の管轄支郡と鎮遏・守捉・兵馬の帰属を整理する詔。工部侍郎・平章事程異が死去。裴度を検校左僕射・河東節度使とする。
- 5月、刑部侍郎柳公綽に塩鉄転運等使を兼ねさせる。楚州刺史李聴を夏州刺史・夏綏銀宥等州節度使とする。河東節度使張弘靖を吏部尚書、忠武軍節度使李光顔を邠寧慶節度使とする。工部尚書郗士美を忠武軍節度使とする。臨海監牧を置き淮南節度使に兼ねさせる。李師古の妻・娘、李宗奭の妻を寛大な処置で安置・解放。韓弘が淄青平定を助けた絹20万匹・女楽10人を進めるが女楽は返却。
- 6月、福建観察使元錫を宣歙池観察使とする。戸部侍郎帰登を工部尚書とする。定州大都督府を上州に復す。前兵部尚書李絳を河中晋絳慈隰観察使とする。左金吾大将軍胡証を京西北巡辺使とする。
- 7月、汴州韓弘が来朝。左散騎常侍致仕薛蘋が死去。群臣が尊号「元和聖文神武法天応道皇帝」を上る。宣政殿で冊を受け丹鳳楼に御し大赦。京畿の秋税・青苗・榷酒等銭を貫あたり400文減免、元和5年以前の逋租賦を免除。韓弘が絹28万匹・銀器270事を進める。河陽三城懐州節度使令狐楚を中書侍郎・同中書門下平章事とする。永州刺史韋正武を邕管経略使とする。前黔中観察使魏義通を河陽三城懐孟節度使とする。沂州で軍乱、節度使王遂が殺される。棣州刺史曹華を沂海兗密等州都団練観察使とする。晋州防禦使を廃止。
- 8月、宣武軍節度使韓弘に中書令を加える。襄州穀城県に臨漢監を置き馬を牧す。王承宗に検校左僕射を進める。田弘正が来朝。上が「連休で朝を開かなくとも事あれば延英に対を請え」と諭し、崔群が暑さを気遣うも上は「数日に一度会うくらいは苦にならない」と応じる。麟徳殿で田弘正と大将判官200人を宴す。陳許節度使郗士美が死去。
- 9月、考功郎中蕭祐が古画・古書20巻を進める。沂州の乱の首謀者王弁を東市で斬る。国子祭酒李遜を忠武軍節度使とする。右衛大将軍田縉を衡王傅に左遷(夏州在任中の私用軍糧4万石・党項の羊馬強奪により党項が吐蕃を招き入れる原因を作った罪)。太子少師鄭余慶に国子祭酒を兼ねさせる。田弘正の兄田融に検校刑部尚書・太子賓客を授け東都分司とする。田弘正が3度上表し闕庭に留まることを願うも許されず検校司徒・侍中・実封300戸を賜う。上が玄宗実録を読み「開元初は理を求めて鋭意だったのに16年以後怠惰になったのはなぜか」と問い、崔群が姚崇・宋璟らの輔佐と後年の宇文融・李林甫・楊国忠らの奸佞との対比を挙げ「開元初を法とし天宝末を戒めよ」と諫める(実は当時宰相であった皇甫鎛の諂媚を諷したもの)。
- 10月、安南で軍乱、都護李象古とその家族・部曲千余人が殺される。唐州刺史桂仲武を安南都護、潮州刺史韓愈を袁州刺史とする。この月、吐蕃が塩州に侵攻。
- 11月、戸部尚書李鄘を東都留守とする。霊武大将史敬奉が塩州城下で吐蕃を破り実封50戸を賜う。原王傅鄭権を右金吾大将軍・右街使とする。上が方士柳泌の金丹薬を服用、起居舎人裴瑉が切諫の上疏(金石薬の危険性を説く)をするが上は怒り江陵令に左遷。
- 12月、国子祭酒鄭余慶が文官の秋銭抽分による国子監修築費の調達を奏し許可。諫議大夫・中書侍郎・平章事崔群を湖南観察使に左遷(皇甫鎛の讒言による、崔群の左遷に人々は鎛を憎んだ)。
元和十五年(820年)
- 正月、上が金丹の服用によりやや不調で元会を罷める。鎮冀観察使王承宗が管内の官員増置を請い許可。前湖南観察使崔倰を権知戸部侍郎・判度支とする。沂海四州観察使府を兗州に移し観察使曹華を兗州刺史とする(この頃、常に陰晦微雨雪が続き夜だけ晴れるという異常天候が17日続く)。斉州の廃県を整理。義成軍節度使劉悟が来朝、上は麟徳殿で対面(上は服薬の不調で朝を開かないことが多く人心が恐々としていたが、劉悟が退出後にその様子を語り京城がやや安んじた)。少府監韓璀を鄜坊丹延節度使とする。この夕、上は大明宮中和殿で崩御、享年43。当時は突然の崩御であり、宦官陳弘志による弑逆と噂されたが、史書はこれを憚って書かない。遺詔が宣せられ、霊柩を西内に移す。
- 5月、群臣が謚「聖神章武孝皇帝」を上り廟号を憲宗とする。景陵に葬られる。
史論
- 史臣蔣系曰く、憲宗は即位当初、歴代皇帝の実録を読み貞観・開元の故事に感嘆し書を手放さず、丞相に「太宗・玄宗の事業を史書で見て、自分がはるかに及ばないことを知った。先聖の代でさえ宰執臣僚の同心の輔佐を要したのに、朕一人で治められようか」と語ったという。延英で議政するたびに昼漏5、6刻に及ぶまで退かなかった。貞元10年以来、朝廷の威権が日に衰え方鎮の力が強まっていたが、徳宗は政を宰相に委ねず細務まで自ら決し、裴延齢のような佞臣が財政の術で取り入り宰相は名ばかりであった。憲宗は藩邸で監国して以来、即位を経て元和年間に至るまで軍国の枢機をすべて宰相に帰したため、中外がよく治まり紀律が再び張り、乱の芽を断って群盗を誅除することができた。その叡智と英断は近古に類を見ず、唐室中興は憲宗(章武)その人によるものである。ただ皇甫鎛・程異のような聚斂の臣を用い、崔群・裴度を藩地へ追いやったことはあっても、政道国経はまだ衰紊するに至らなかった。惜しむらくは服食(丹薬)が過ぎ、宦官が事を起こすに至った。もし天が寿命を仮していたなら、治世はさらに深まったであろう。
- 賛に曰く、貞元の御しがたさに群盗が跋扈したが、憲宗(章武)は威を赫やかせこれを削平した。宰相の輔佐を得て徳を耀かせ兵を用い、元和の政は頌え歌われるまでに至った、と評す。