舊唐書卷十四 本紀第十四 順宗
順宗至徳大聖大安孝皇帝、諱誦、徳宗の長子、母は昭徳皇后王氏(761–806年)。長年皇太子として仁徳を示したが、即位直前に中風で言葉を失い、即位からわずか半年で病により皇太子(憲宗)に譲位した。この間、王叔文らを登用して財政・宦官の抑制を図る改革(永貞革新)を進めたが、譲位とともに関係者が左遷された(二王八司馬)。在位は永貞元年のみで、唐朝でも最短の在位の皇帝の一人。
年表(7件)
- 上元2年761年長安東内に生まれる、諱は誦
- 建中元年780年皇太子に立てられる
- 貞元二十一年805年徳宗崩御、病を押して太極殿で即位
- 貞元二十一年805年王叔文・王伾ら「二王」を登用し財政・宦官抑制の改革(永貞革新)を進める
- 貞元二十一年805年広陵郡王淳(のちの憲宗)を皇太子に立て純と改名
- 貞元二十一年805年病により皇太子に譲位、永貞と改元し太上皇となる(二王八司馬の貶)
- 元和元年806年太上皇として興慶宮咸寧殿で崩御
出自と生い立ち
- 順宗至徳大聖大安孝皇帝、諱誦。徳宗の長子、母は昭徳皇后王氏。上元2年(761年)正月、長安東内で生まれる。
- 大暦14年(779年)6月、宣王に封ぜられる。建中元年(780年)正月丁卯、皇太子に立てられる。
貞元二十一年(805年)
- 正月癸巳、徳宗が崩御。丙申、太極殿で即位。上は前年9月以来中風で言葉を発せられず、徳宗の病篤い折も諸王親戚は皆侍薬したが上のみ病臥し侍することができなかった。徳宗は臨終に太子に会いたいと望み涙を流したという。大行(徳宗)の喪が発せられ人心は震え恐れたが、上は病を押し喪服のまま九仙門で百僚に見え、即位により社稷の主が定まり中外はようやく安んじた。庚子、群臣が聴政を請う上書。
- 2月、河陽三城行軍司馬元韶を懐州刺史・河陽懐州節度使とする。翰林医工・相工・占星・射覆等の冗食者42人を罷免。易定張茂昭に同平章事を兼ねさせる(来朝を寵する)。吏部郎中韋執誼を尚書左丞・同中書門下平章事とする。京兆尹李実を通州長史に左遷、まもなく死去。淄青李師古が国喪に乗じ滑州東鄙に侵攻。平涼の会盟で吐蕃に陥っていた厳懐志・呂温ら16人を釈放(蕃の内情に通じているため長く仗内に囚われていたが、ここで釈放)。日本国王とその妻を蕃へ帰す。太子侍書・翰林待詔王伾を左散騎常侍・翰林学士、前司功参軍・翰林待詔王叔文を起居舎人・翰林学士とする。鴻臚卿王権を京兆尹とする。丹鳳楼に御し天下に大赦、諸道の正勅による率税以外の雑税を禁断、上供以外の進奉を禁止。90歳以上の百姓に米2石・絹2匹を賜い版授、100歳以上には米5石・絹2匹・綿1屯・羊酒を賜い版授。新羅王金重煕に寧海軍使を兼ねさせ、母和氏を太妃、妻朴氏を妃とする。
- 3月、宮女300人を安国寺に出し、掖庭教坊の女楽600人を九仙門で親族に返す。韋皋に検校太尉、李師古・劉済に検校司空を兼ねさせる。張茂昭を司徒とする。杜佑を度支塩鉄使とする。徐州節度に武寧軍の名を賜う。蔡州呉少誠に同平章事を兼ねさせる。翰林学士王叔文を度支塩鉄転運副使とする(杜佑が使名を領するも実権は叔文が専断)。宰相賈耽に検校司空、鄭瑜を吏部尚書、高郢を刑部尚書、韋執誼を中書侍郎、鎮冀王士真・淮南王鍔・魏博田季安に検校司空を加える。広陵郡王淳を皇太子に冊し純と改名。
- 4月、多数の皇子・皇孫を各王に封じる(欽王諤・珍王諴・郯王経・均王緯・漵王縦・莒王紓・密王綢・郇王総・邵王約・宋王結・集王緗・冀王絿・和王綺、衡王絇・会王纁・福王綰・撫王紘・岳王緄・袁王紳・桂王綸・翼王繟、彌臣国嗣王道勿禮を彌臣国王等)。西平郡王李晟の子左羽林大将軍願に岐公を襲封させ食邑3千戸を賜う。太子男甯・寛・宥・察・寰・寮ら6人を郡王とし各食邑3千戸を賜う。吐蕃使であった張薦(陥没後死去)に礼部尚書を追贈。万安監牧を廃止。杭州刺史韓皋を尚書右丞とする。
- 5月、右金吾衛大将軍範希朝を右神策統軍・左右神策京西諸城鎮行営兵馬節度使とする。邕管経略使韋丹を河南少尹、万年県令房啓を容管経略招討使とする。郴州司馬鄭余慶を尚書左丞とする。渤海国王大嵩璘に検校司徒を加える。後宮の位号を各妃嬪に授与。右丞韓皋を鄂岳沔蘄都団練観察使とする。襄州を大都督府に昇格。塩鉄転運使副王叔文を戸部侍郎とする。
- 6月、貞元21年10月以前の百姓の未納課利・租賦銭帛計52万6841貫石匹束を免除する詔。7月、吐蕃使論悉諾が朝貢。鄆州李師古に検校侍中を加える。亡き陸贄に兵部尚書を追贈し謚を宣、亡き陽城に左散騎常侍を追贈。戸部侍郎潘孟陽を度支塩鉄転運使副とする。関東で蝗害。横海軍節度使程懐信が死去、子執恭が起復し軍節度使となる。度支使杜佑が太倉の余剰米活用を奏するが議決せず。上の病が長引き、軍国政事を皇太子に委ねる詔(実権は李忠言・王伾・王叔文が握り、物論が喧しく藩鎮も皇太子に上書し「三豎」の政治専断を批判したため)。太常卿杜黄裳を門下侍郎、左金吾衛大将軍袁滋を中書侍郎とし共に同中書門下平章事、鄭珣瑜・高郢は知政事を罷免。皇太子が朝堂で百僚に会う。
- 8月、上皇(順宗)が病により皇太子への譲位を告げる詔(「一日万機、久しく曠しくすべからず」)。太上皇となり興慶宮に居し「誥」と称する。皇太子(純)が宣政殿で即位の冊礼を受ける詔、貞元21年を永貞元年と改元し大赦。良娣王氏を太上皇后、良媛董氏を太上皇徳妃とする。右散騎常侍王伾を開州司馬、前戸部侍郎・度支塩鉄転運使王叔文を渝州司戸に左遷(いわゆる二王八司馬の貶)。
元和元年(806年)
- 正月、皇帝(憲宗)が百僚を率い太上皇に尊号「応乾聖寿」を上る。甲申、太上皇が興慶宮咸寧殿で崩御、享年46。
- 6月、皇帝が群臣を率い大行太上皇に謚「至徳大聖大安孝皇帝」を上り廟号を順宗とする。7月、豊陵に葬られる。
史論
- 史臣韓愈曰く、順宗は太子であった頃、芸術に心を留め隷書に長じ、徳宗が詩を賜うたびに必ず自ら書した。性格は寛仁で決断力があり、師傅を礼重して必ず先に拝礼した。奉天に従幸した折、賊の朱泚が迫ると自ら禁旅の先頭に立ち城に登って拒戦し将士を督励して奮い立たせた。徳宗の治世が長引くにつれ宰相の権を仮すことが少なくなり、裴延齢・李斉運・韋渠牟ら幸臣が政事に介入して陸贄・張滂らを陥れても人々は敢えて言わなかったが、太子は従容と論争し、ついに延齢・渠牟を宰相に任じさせなかった。かつて魚藻宮の宴で水嬉を張り彩艦を飾り宮人が棹歌を歌い糸竹が奏でられ徳宗が大いに喜んだ折、太子は詩経の「好楽無荒」を引いて諫めた。奏事の際に宦官へ顔色を借りることは一度もなかった。東宮に20年在り天下は陰にその恵みを受けた。惜しむらくは病を得て即位し近習が権を弄んだが、それでも賢明な後継(憲宗)に政を伝え国運を興隆させたことは賢というべきである。