舊唐書卷五 高宗下
唐の第3代皇帝、高宗(諱は治、628–683年)。泰山封禅を行い高麗を滅ぼすなど太宗の遺業を継いだが、晩年は風疾に苦しみ政事の多くを皇后武氏(後の則天武后)に委ね、内外から「二聖」と称される二頭政治となった。皇太子弘の急死後、賢も廃されて英王哲(後の中宗)が立てられた。弘道元年、東都で崩御、享年56。史臣は太宗の業を保つに留まり治世は先代に及ばなかったと評した。
乾封元年
- 麟徳3年(666年)春正月戊辰朔、泰山頓に到着。この日、封祀壇で昊天上帝を親祀し高祖・太宗を配饗。己巳、泰山に登り封の礼。庚午、社首で禅の礼、皇地祇を祭り太穆太皇太后・文徳皇太后を配饗、皇后が亜献、越国太妃燕氏が終献。辛未、禅壇より降りる。
- 壬申、朝覲壇で朝賀を受け麟徳3年を乾封元年と改元。従駕文武官・朝覲した華戎の岳牧・致仕老人らに爵二等・加階・勲一転を賜う。100歳以上に版授下州刺史・郡君。斉州に1年半、管岳県に2年の賦役免除。乾封元年正月5日以前の罪を大赦、7日間の酺。癸酉、群臣を宴し《九部楽》を陳ず。丙子、皇太子弘が設会。丁丑、恩沢が薄かったとして爵・階勲を普く進める。兗州界に紫雲・仙鶴・万歳観、封巒・非煙・重輪三寺を置く。天下諸州にも観・寺各1所を置く。丙戌、泰山を発つ。甲午、曲阜県に至り孔子廟に幸す。太師を追贈し祠宇を増修、少牢で祭る。褒聖侯孔徳倫の子孫の賦役を免ず。
- 2月己未、亳州に至り老君廟に幸し太上玄元皇帝の号を追贈、祠堂を創建。廟に令・丞各1員を置く。穀陽県を真源県と改称、県内の李姓一族に1年の賦役免除。
- 夏4月甲辰、泰山より京へ到着、まず太廟に謁す。
- 5月庚寅、乾封泉宝銭を改鋳。6月壬寅、高麗の莫離支蓋蘇文が死去。子の男生が父の位を継ぐが弟の男建に逐われ、子献誠を遣わし降伏を請う。契苾何力に応接させる。
- 秋7月乙丑、殷王旭輪を豫王に改封。庚午、陸敦信が老病により辞し大司成、劉仁軌が右相・検校右中護を兼ねる。
- 8月辛丑、竇徳玄が卒す。丁未、武惟良・武懐運を殺し蝮氏と改姓させる(皇后武氏の親族間の争い)。
- 冬10月己酉、李勣を遼東道行軍大総管とし高麗討伐に向かわせる。
乾封二年
- 春正月丁丑、前冬から雨雪無きにより正殿を避け膳を減じ囚徒を親録。乾封銭を罷め開元通宝銭を復す。
- 2月戊戌、涪陵郡王愔が薨去。辛丑、万年宮を旧名の九成宮に戻す。
- 夏6月乙卯、楊武・戴至徳・李安期・張文瓘を同東西台三品とする。
- 秋8月己丑朔、日食。丙辰、李安期が荊州大都督府長史に出る。
總章元年
- 春正月庚寅、劉審礼を西域道安撫大使とする。壬子、劉仁軌を遼東道副大総管とする。2月戊午、遼東道の軍が薛賀水で5万を破り5千余級を斬り生口3万余を獲る。丙寅、明堂の制度が歴代異なり漢魏以後に訛りが増えたため古今を増損し新図を制定。大赦し総章元年と改元。
- 2月戊寅、九成宮に幸す。己卯、長安・万年を分け乾封・明堂二県を置き京城内を分理。癸未、皇太子弘が国学で釈奠。顔回に太子少師、曾参に太子少保を追贈。
- 夏4月丙辰、畢・昴の間に彗星。乙丑、正殿を避け膳を減じ内外群官に上封事を求める詔。群臣は「星の光芒は小さく国の眚ではない」として常饌への復帰を進言するが、高宗は「上天の警告は朕の不徳を戒めるもの、自ら責め徳を修めるべき」と応じた。群臣が「彗星は東北に見え高麗滅亡の徴」と述べると、高宗は「高麗の百姓も朕の百姓である、小蕃に過を推し付けられぬ」として結局願いを聞かなかった。乙亥、彗星消える。辛巳、楊武が卒す。秋8月癸酉、九成宮より還る。
- 9月癸巳、李勣が高麗を破り平壌城を陥し王高蔵・大臣男建らを捕らえ帰る。境内すべて降伏、城170・戸69万7千を得て安東都護府を置き42州に分ける。
總章二年
- 春正月、諸王の嫡子を皆郡王に封じる。
- 2月、張文瓘が同東西台三品兼知左史事に署位(初めて銜に入る)。
- 3月、郝処俊を同東西台三品とする。癸酉、皇后が先蚕を親祀。
- 夏4月乙酉、九成宮に幸す。司列少常伯・司戎少常伯を各2員置く。
- 5月庚子、高麗の民2万8200戸・車1080乗・牛3300頭・馬2900匹・駝60頭を萊州・営州から順次内地へ移し江淮以南・山南・并・涼以西の空閑地に配置。
- 6月戊申朔、日食。括州で大風雨、海水が永嘉・安固二県城郭に氾濫し民家6843区を流し9070人・牛500頭が溺死、田苗4150頃が損なわれる。冀州で大水、家屋数千家が損壊。ともに賑給の使を遣わす。
- 秋7月、剣南益・瀘・巂等19州が旱、被災戸37万6690戸、路励行を存問賑貸に遣わす。癸巳、冀州大都督府の奏によれば6月13日夜からの雨で水深5尺、その夜には1丈余に達し家屋1万4390区を壊し田4496頃を損なう。契苾何力を駕海道行軍大総管とする。
- 秋8月甲戌、瀚海都護府を安北都護府と改称。
- 9月己亥、九成宮を発つ。壬寅、華林頓に停まり岐で大蒐。乙巳、岐州に至る。高祖が隋で扶風太守を務めた縁により岐州管内を曲赦、高年に衣物粟帛を賜う。
- 冬10月丁巳、九成宮より到着。
- 11月庚辰、9州の人夫を発し太原倉の米粟を京へ転送。丁亥、豫王旭輪を冀王に改封し単名輪とする。12月戊申、李勣が薨去。この冬は雪が降らなかった。
咸亨元年
- 春正月丁丑、劉仁軌が致仕。辛卯、遼東の地を州県に列す。2月戊申、旱により囚徒を親録し名山大川に祈祷。癸丑、太陽が赭色に見える。
- 3月甲戌朔、大赦し咸亨元年と改元。
- 3月丁丑、蓬莱宮を含元殿と改称。壬辰、許敬宗が致仕。
- 夏4月、吐蕃が白州等18州を陥し于闐と合流し亀茲の撥換城を陥す。安西四鎮を廃す。辛亥、薛仁貴を邏娑道行軍大総管、阿史那道真・郭待封を副とし5万で吐蕃を撃たせる。庚午、九成宮に幸す。雍州で大雹。
- 5月丙戌、破損した孔子廟堂・学館の修造を命じる詔。
- 6月壬寅朔、日食。秋7月戊子、李敬玄が復職し同東西台三品。薛仁貴・郭待封が大非川で吐蕃の論欽陵に襲われ大敗、除名される。吐谷渾は全国が没し慕容諾曷鉢と親信数千帳のみ内属、霊州界へ徙される。
- 8月甲子、九成宮より還る。趙王福が薨去。丙寅、久旱により正殿を避け尚食が膳を減ず。
- 9月甲申、衛国夫人楊氏(則天武后の母)が薨去、魯国夫人・謚忠烈を追贈。
- 閏月壬子、武士彟に太尉・太子太師・太原郡王、楊氏に太原王妃を追贈。甲寅、太原王妃を葬り京官文武九品以上・外命婦が便橋まで送る。
- 冬10月癸酉、大雪で平地3尺余、凍死者に帛・棺木を給する。雍・同・華州の15歳以下の困窮者を養子として引き取ることを許すが奴婢としてはならぬとの令。丙申、趙仁本を左粛機とし知政事を罷める。
- 12月庚寅、諸司・百官の名を旧に復す。この年、天下40余州が旱・霜蟲で百姓困窮、関中が特に甚だしく、諸州への移住と江南米の転漕で賑給。
咸亨二年
- 春正月乙巳、東都に幸す。皇太子弘を京に留め監国、戴至徳・張文瓘・李敬玄らが輔ける。閻立本・郝処俊のみ従駕。甲子、東都に到着。
- 2月丁亥、雍州の梁金柱が3千貫を出し貧民を賑済することを請う。夏4月戊子、大風で木が折れる。
- 6月戊寅、武敏之(則天武后の甥)が罪により本姓賀蘭氏に戻され除名、雷州へ流される。丁亥、旱により囚徒を親録。
- 秋9月、地震。徐王元礼が薨去。
- 冬10月、明達礼楽の士を捜し挙げる。
- 11月甲午朔、日食。庚戌、許・汝等州で教習に幸す。癸酉、許州葉県昆水の陽で冬の校猟。12月丙戌、東都へ還る。
咸亨三年
- 春正月辛丑、梁・益等18州の兵5300人を募り梁積壽を姚州へ遣わし叛蛮を討たせる。辛未、雍・洛二州民に本州官への任官を許す制。
- 2月己卯、姜恪が河西鎮守で卒す。
- 夏4月戊寅、合璧宮に幸す。壬午、水南で教旗。高宗が閻立本・郝処俊に伊尹が鼎俎を負って湯に仕えた故事の鼎の所在を問い、閻立本が古義をもって答える。
- 5月乙未、五品以上に銀飾の新魚袋を賜い、三品以上に金装刀子・礪石一具を賜う。
- 6月丙子、洛州柏崖に倉を置く。
- 8月壬子、許敬宗が卒す。9月乙卯、冀州大都督府を魏州に、魏州を冀州に戻す。壬寅、沛王賢を雍王に改封。
- 冬10月己未、皇太子が監国。壬戌、京師へ還る。乙亥、戴至徳に兼戸部尚書、張文瓘に検校大理卿、郝処俊を中書侍郎、李敬玄を吏部侍郎とし、いずれも同中書門下三品を保つ。
- 11月戊子朔、日食。甲辰、東都より到着。
- 12月癸卯、劉仁軌を同中書門下三品とする。この冬、高侃が横水で新羅の軍を大破。
咸亨四年
- 春正月甲午、咸亨初年に養子・使役とした者の放還を許す詔。丙辰、鄭王元懿が薨去。
- 2月壬午、裴居道の娘を皇太子弘の妃とする。
- 夏4月丙子、九成宮に幸す。
- 閏5月丁卯、李謹行が瓠盧河西で高麗叛党を破り、平壌の余衆は新羅へ逃れる。
- 秋7月庚午、九成宮太子新宮が完成、五品以上諸親を宴す。辛巳、婺州で暴雨、家屋600家が流される、賑給の詔。8月辛丑、高宗が瘧疾を患い太子が諸司の啓事を受ける。己酉、大風で太廟の鴟吻が毀れる。
- 冬10月壬午、閻立本が卒す。乙未、皇太子弘の納妃に伴い岐州を曲赦、3日間の酺。庚子、京師へ還る。乙巳、九成宮より到着。
- 11月丙寅、高宗が《上元》《二儀》《三才》《四時》《五行》《六律》《七政》《八風》《九宮》《十洲》《得一》《慶雲》の楽章を制作、大祠享に用いさせる詔。
- 12月丙午、弓月・疏勒二国王が入朝し降伏を請う。
上元元年
- 春2月壬午、劉仁軌を鶏林道大総管とし新羅討伐に向かわせ、李弼・李謹行を副とする。
- 3月辛亥朔、日食。己巳、皇后が先蚕を祀る。
- 夏4月辛卯、武承嗣を宗正卿とする。
- 5月己未、二社(春秋の社祭)以外の集会を禁じる詔。
- 6月壬寅、太白が東井に入る。
- 秋8月壬辰、宣簡公を宣皇帝、懿王を光皇帝、太祖武皇帝を高祖神堯皇帝、太宗文皇帝を文武聖皇帝、太穆皇后を太穆神皇后、文徳皇后を文徳聖皇后に追尊。皇帝を天皇、皇后を天后と称する。咸亨5年を上元元年と改元、大赦。戊戌、文武官の服色を品階により定める詔(三品以上紫・金玉帯、四品深緋、五品浅緋・金帯、六品深緑、七品浅緑・銀帯、八品深青、九品浅青・鍮石帯、庶人黄・銅鉄帯)。
- 9月辛亥、百僚が新服を具え麟徳殿で宴す。癸丑、長孫無忌の官爵を追復、曾孫翼に趙国公を襲封させ昭陵先造の墳への帰葬を許す。
- 11月丙午朔、東都に幸す。己酉、華山の曲武原で狩す。戊辰、東都に至る。
- 12月、蔣王惲が薨去。戊子、于闐王伏闍雄が来朝。辛卯、波斯王卑路斯が来朝。壬寅、天后が意見十二条を上奏(王公百僚に《老子》を習わせる、明経に《孝経》《論語》の例を準用する、父在世でも母のために三年の服喪を行う等)。虢王鳳が薨去。
上元二年
- 春正月甲寅、熒惑が房宿を犯す。壬戌、支汗郡王が碧玻璃を献ず。丙寅、于闐を毗沙都督府とし尉遅伏闍雄を毗沙都督とし境内を10州に分ける(吐蕃撃退の功による)。庚午、亀茲王白素稽が銀頗羅を献ず。辛未、吐蕃の大臣論吐渾弥が和を請うも許されず。
- 2月、鶏林道行軍大総管が七重城で新羅を大破。新羅が入朝謝罪、赦されて王金法敏の官爵が復される。
- 3月丁未、太陽が赭色に見える。丁巳、天后が邙山の陽で親蚕。高宗が風疹で聴朝できず、政事はすべて天后が決した。上官儀誅殺以後、高宗の視朝には天后が御座の後ろで垂簾し政事に関与、内外は「二聖」と称した。高宗が天后への摂政の詔を下そうとするも郝処俊が諫止。
- 夏4月、括州永嘉・永固二県を分け温州を置き、臨海県を分け楽安・永寧二県とする。辛巳、周王顕妃趙氏が罪により幽閉死。己亥、皇太子弘が合璧宮綺雲殿で薨去。高宗はこの日合璧宮より東都へ還る。5月己亥、太子弘に孝敬皇帝の謚を追贈。
- 6月戊寅、雍王賢を皇太子とし大赦。
- 秋7月辛亥、洛州に緱氏県を再置し孝敬皇帝恭陵を管させる。杞王上金が罪により澧州に安置。
- 8月庚子、劉仁軌を左僕射(監修国史如故)、張文瓘を侍中、郝処俊を中書令(監修国史如故)、李敬玄を吏部尚書兼太子左庶子・同中書門下三品(監修国史如前)、許圉師を戸部尚書とする。
- 9月丙午、劉仁軌・戴至徳・張文瓘・郝処俊を兼太子賓客とする。
- 冬10月、永州営道・江華・唐興三県を分け道州を置く。壬午、角・亢の南に彗星、長さ5尺。12月丁亥、亀茲王白素稽が名馬を献ず。
儀鳳元年
- 上元3年(676年)春正月戊戌、冀王輪を相王に改封。
- 2月甲戌、安東都護府を遼東へ移す。乙亥、堅昆が名馬を献ず。丁亥、汝州温湯に幸す。
- 3月癸卯、来恒・薛元超を同中書門下三品とする。甲辰、東都へ還る。
- 閏3月己巳朔、吐蕃が鄯・廓・河・芳等四州に侵入。乙酉、周王顕を洮州道行軍元帥(劉審礼ら12総管を領す)、相王輪を涼州道行軍元帥(契苾何力らを領す)とし吐蕃討伐を命じるが、二王は結局出征せず。戊午、詔勅に用いる白紙が虫食いしやすいため今後は黄紙を用いる敕。庚寅、京師へ還る。
- 夏4月戊申、東都より到着。甲寅、李義琰を同中書門下三品とする。戊午、九成宮に幸す。
- 6月癸丑、高智周を同中書門下三品とする。秋7月、東井に彗星が起こり北河を指し次第に東北へ、長さ3丈、中台を掃い文昌宮を指し58日で消える。
- 8月乙未、吐蕃が畳州を侵す。庚子、星変により正殿を避け膳を減じ京城系囚を放ち、文武官に上封事を求める。壬寅、南選使を置き広・交・黔等州の官吏を補う。青・斉等州で海の氾濫と大雨、5千家が流され賑恤の使を遣わす。
- 9月甲子朔、京師へ還る。丙申、郇王素節が戸の3分の2を削られ袁州に安置。癸丑、北京に金鄰州を置く。
- 11月丁卯、新造《上元舞》を圜丘・方沢・太廟の享で用いさせる敕。壬申、陳州で鳳凰が現れたとの奏により上元3年を儀鳳元年と改元、大赦。庚寅、李敬玄を中書令とする。12月丙申、皇太子賢が注釈した《後漢書》を上奏、物3万段を賜う。戊午、来恒を河南道、薛元超を河北道、崔知悌らを江南道の巡撫に遣わす。
儀鳳二年
- 春正月乙亥、東郊で親耕籍田。庚辰、京師で地震。壬辰、司竹園に幸し即日還宮。
- 2月丁巳、高蔵を遼東都督・朝鮮郡王とし安東府へ帰し高麗の遺民を安輯させる。扶余隆を熊津州都督・帯方郡王とし百済の遺民を安輯させる。安東都護府を新城へ移す。
- 夏4月、河南・河北の旱により賑給の使を遣わす。
- 8月、周王顕を英王に改封し名を哲と改める。乙巳、太白が軒轅を犯す。
- 12月乙卯、関内・河東諸州で勇士を募り吐蕃討伐に備える敕。京の文武職事官三品以上に毎年将帥・牧守たりうる人材の推挙を命じる詔。この冬は雪が降らなかった。
儀鳳三年
- 4月丁亥朔、旱により正殿を避け囚徒を親録し悉く赦す。戊申、大赦し翌年正月一日を通乾と改元することを予告。癸丑、涇州が心臓が繋がり体が異なる4歳の連体児を献ず。
- 5月壬戌、九成宮に幸す。相王輪を洛州牧とする。
- 秋7月丁巳、咸亨殿で近臣諸親を宴し、霍王元軌に「この夏、九成宮で甘雨が頻降し豊作となった、李敬玄の上奏によれば張虔勖が龍支で吐蕃を破った、太史の奏では7月朔の日食が予兆されたが実際には欠けなかった、これらは天の加護であろう。また末子の輪は特に愛しているが婚儀に苦労し、劉延景の娘を迎え孝行者と知り私にも喜びがある」と語り七言詩(柏梁体)を賦し侍臣が唱和した。
- 9月丁巳、京師へ還る。辛酉、九成宮より到着。癸亥、張文瓘が卒す。丙寅、李敬玄・劉審礼らが青海で吐蕃と戦い敗績、劉審礼は捕えられる。高宗は吐蕃の侵寇を憂い侍臣に策を問い、郭正一らは深追いせぬ辺境防備を上策とした。
- 10月丙午、密王元暁が薨去。閏10月戊寅、熒惑が鉤鈐を犯す。
- 11月乙未、昏霧が四方を塞ぎ連夜解けず。丙申、樹氷(雨氷)。壬子、来恒が卒す。
- 12月、反語(言葉遊びで不吉とされた)を理由に翌年の「通乾」の元号を停止する詔。
調露元年
- 正月辛未、許圉師が卒す。己酉、東都に幸す。庚戌、戴至徳が薨去。
- 2月壬戌、吐蕃賛普が卒し弔祭の使を遣わす。乙丑、東都で饑饉、官が糙米を出し救う。
- 夏4月戊午、熒惑が羽林星に入る。崔知悌を戸部尚書、郝処俊を侍中とする。
- 5月壬午、盗賊が正諫大夫明崇儼を殺害。丙戌、皇太子賢が監国。戊戌、沔池西に紫桂宮を造営。
- 6月辛亥、大赦し儀鳳4年を調露元年と改元。
- 秋7月己卯朔、その年の冬至に嵩岳で祭祀を行う準備の詔。
- 8月丁巳、郝処俊・高智周・崔知温・劉景先が兼修国史。
- 9月壬午、裴行儉が西突厥を討ち十姓可汗阿史那都支と李遮匐を捕えて帰る。
- 冬10月、単于大都護府の突厥阿史徳温傅・奉職の二部が反し阿史那泥熟匐を可汗に立て24州の首領が叛く。蕭嗣業・花大智・李景嘉らが討伐するが敗れ、嗣業は桂州へ配流。壬子、曹懐舜に恒州井陘、崔献に絳州龍門の守りを命じ突厥に備える。庚申、嵩山封禅を停止する前詔。癸亥、吐蕃文成公主が論塞調傍を遣わし訃報を告げ和親を請うも許されず、宋令文を吐蕃に遣わし賛普の葬に会させる。
- 11月戊寅朔、高智周が知政事を罷める。癸未、裴行儉を礼部尚書とする(都支・遮匐捕獲の賞)。甲辰、裴行儉を定襄道大総管とし周道務・程務挺・李文暕ら総勢30万で突厥討伐に向かわせる。甲寅、岳牧挙の応挙者を臨軒で試す。
永隆元年
- 調露2年(680年)春正月乙酉、諸王・三品以上・諸州都督刺史を洛城南門楼で宴し《六合還淳》の舞を奏す。
- 2月丙午、李延壽の《正典》を編纂の功により家に絹50疋を賜う詔。壬子、霍王元軌ら百僚が一月俸料を出し突厥討伐を助けることを請う。癸丑、汝州温湯に幸す。丁巳、少室山に至る。戊午、少姨廟に親謁。道士王遠知に升真先生の謚と太中大夫を追贈。隠士田游巌の居所にも幸す。己未、嵩陽観・啓母廟に幸し碑を立てさせる。逍遙谷の道士潘師正の居所にも幸す。甲子、温湯より東都へ還る。
- 3月、裴行儉が黒山で突厥を大破し首領奉職を捕える。偽可汗泥熟匐は部下に殺され首を伝えて降伏。
- 夏4月乙丑、紫桂宮に幸す。戊辰、裴炎・崔知温・王徳真を同中書門下三品とする。5月癸未、熒惑が輿鬼を犯す。丁酉、太白が昼に見える(経天)。
- 秋7月、吐蕃が河源を侵し良非川に屯す。李敬玄が湟中で吐蕃将論欽陵の弟贊婆と戦い敗績。黒歯常之が力戦し蕃軍を大破、河源軍経略大使に抜擢され李敬玄は鄯州に鎮し援ける。丙申、江王元祥が薨去。この月、突厥残党が雲州を囲み程務挺が撃破。
- 8月丁未、紫桂宮より東都へ還る。丁巳、李敬玄が衡州刺史に左遷。甲子、皇太子賢を庶人に廃し別所に幽閉。乙丑、英王哲を皇太子に立て、調露2年を永隆元年と改元、大赦、3日間の酺。張大安が庶人賢に連座し普州刺史に左遷。9月、河南・河北諸州で大水、賑恤の使を遣わし溺死者に官給の棺・家族に物7段を賜う。
- 冬10月壬寅、曹王明を零陵郡王に封じ黔州に安置(庶人賢に附いた咎)。己酉、東都より京へ還る。
- 11月朔、日食。洛州で饑饉、官が減価で米を売り救う。
開耀元年
- 永隆2年(681年)春正月、突厥が原・慶等州を侵す。乙亥、李知十・王杲らを分兵させ防がせる。癸巳、裴行儉を定襄道大総管とし突厥温傅部落討伐に向かわせる。己亥、雍・岐・華・同の民戸に2年、河南・河北被災地に1年の地税免除の詔。高宗は雍州長史李義玄に「質素を天下に示したいが遊惰の輩が多く、豊作でなければすぐ饑饉に陥る。異色の綾錦や花間裙衣は女工を害するので費えを禁じよ。天后は朕の配偶でありながら七破間裙を常用し質素を旨としている。紫服赤衣を庶人が公然と着用し、商賈富人が礼を越えて厚葬している、厳しく取り締まれ」と詔した。
- 2月丙午、皇太子が親しく釈奠の礼を行う。
- 3月辛卯、劉仁軌を兼太子少傅とする。郝処俊を太子少保とし知政事を罷める。
- 5月丙戌、曹懐舜が横水で突厥史伏念と戦い官軍大敗、曹懐舜は死一等を減じ嶺南へ配流。
- 6月壬子、江王元祥の子晫が名教を犯した罪で大理寺後園で斬られる。
- 7月、太平公主が薛紹に嫁ぎ京城系囚を赦す。
- 閏7月丁未、裴炎を侍中、崔知温・薛元超を中書令とする。庚申、高宗が服餌(薬石療養)のため皇太子に監国を命じる。丙寅、雍州で大風が稼を害し米価高騰。この月、裴行儉が突厥史伏念を大破、伏念は程務挺の急追を受け温傅を捕えて降伏、裴行儉は突厥の残党を平定し伏念・温傅を連行し凱旋。
- 8月丁卯朔、河南・河北で大水、被災民に江淮以南への移住を許す。丁亥、崔知悌が卒す。辛卯、交州を安南都護府と改称。
- 9月丙申、天市に彗星、長さ5尺。冬10月丙寅朔、日食。乙丑、永隆2年を開耀元年と改元。定襄軍及び突厥討伐に従軍した官吏兵募を曲赦。丙寅、阿史那伏念・温傅ら54人を都市で斬る。丁亥、新羅王金法敏が薨去し子の政(政明)が位を襲う。
- 11月癸卯、庶人賢を巴州へ徙す。
- 12月、吐火羅が金衣一領を献じるも受けず。辛未、郝処俊が薨去。
永淳元年
- 正月乙未朔、饑饉により朝会を罷める。関内諸府兵を鄧・綏等州で就穀させる。
- 2月癸未、太子(哲)に皇孫誕生満月につき大赦、開耀2年を永淳元年と改元、3日間の酺。戊午、皇孫重照を皇太孫に立て開府置僚を図るが、吏部郎中王方慶が「周礼には嫡子はあるが嫡孫は無く、漢魏以来皇太子在世中に太孫は立てず王に封じるのみ。晋の愍懐太子子彧、斉の文惠太子子昭業を太孫とした例はあるが、太子在世中に太孫を立てた前例はない」と諫め、高宗は「朕が先例を作ってはいけないか」と問うが、結局府僚は立てられなかった。この春、関内で旱、太陽が赭色に見える。4月甲子朔、日食。丙寅、東都に幸す。皇太子が京師留守となり劉仁軌・裴炎・薛元超らが輔ける。穀価高騰により従駕の兵を減らしたため士庶の従者に路傍で餓死する者が多く出た。辛未、裴行儉を金牙道行軍大総管とし十姓突厥阿史那車薄討伐に向かわせるが、行儉は出発前に卒去。王方翼が車薄・咽面を破り西域が平定される。戊寅、澠池の紫桂宮に至る。乙酉、東都に至る。丁亥、郭待挙・岑長倩・郭正一・魏玄同を同中書門下同承受進止平章事とする。高宗は崔知温に「郭待挙らは任歴が浅いので政事に参与させるが卿らと同格の名称はまだ与えられない」と語り、以後四品以下の知政事者は「平章事」を名とすることとなった。
- 5月壬寅、東都苑総監を置く。丙午より連日大雨、洛水が氾濫し天津橋・中橋・立徳・弘教・景行の諸坊を壊し千余家が溺れる。
- 6月、関中で雨が降り麦苗が水害を受け、その後は旱となり京兆・岐・隴で螟蝗が苗を食い尽くし、疫病も蔓延して死者が路に連なり、官司に埋葬を命じる詔。丁丑、蘇良嗣を雍州長史とする。京師では人が人を食う惨状となり盗賊が横行した。
- 秋7月己亥、嵩山の陽に奉天宮を造営、嵩陽県を置く。藍田にも万全宮を造営。庚申、零陵王明が薨去。この秋、山東で大水、民は饑饉。吐蕃が柘・松・翼等州を侵す。冬10月甲子、京師で地震。丙寅、劉景先を平章事とする。
- 12月、南天竺・于闐がそれぞれ方物を献ず。突厥残党の阿史那骨篤禄らが残衆を集め黒沙城に拠り并州北境を侵す。
弘道元年
- 春正月甲午朔、奉天宮に幸し嵩岳・少室・箕山・具茨等の山や西王母・啓母・巣父・許由の祠に祭使を遣わす。
- 2月甲午、李仲玄を宗正卿とする。庚午、突厥が定州・媯州の境を侵す。己卯、薛仁貴が卒す。
- 3月庚寅、突厥の阿史那骨篤禄・阿史徳元珍らが単于都護府を囲む。丙午、五車星の北に彗星、25日で消える。癸丑、崔知温が卒す。
- 夏4月己巳、東都へ還る。甲申、綏州の部落稽の白鉄余が城平県に拠り反す、程務挺に討伐を命じる。
- 5月庚寅、芳桂宮に幸すが雨天のため東都へ還る。突厥が蔚州を侵し刺史李思倹を殺す、崔智弁が朝那山に出て掩撃するも敗れ、賊はさらに嵐州を侵す。
- 秋7月己丑、皇孫重福を唐昌郡王に封じる。甲辰、相王輪を豫王に改封し名を旦と改める。己丑、唐昌郡王重福を京留守とし劉仁軌が副える。皇太子を東都へ召す。己巳、黄河が氾濫し河陽城を壊し水面が城内より5尺高くなり北は塩坎まで、居民の家屋がすべて漂没し南北ともに壊れる。庚戌、熒惑が輿鬼に入り質星を犯す。
- 11月、皇太子が来朝。癸亥、奉天宮に幸す。天后は泰山封禅の後、中嶽封禅を勧め、詔草・儀注が定められるたび饑饉や辺事の急により中止されていたが、この度再び中嶽封禅の礼を行おうとするも高宗の疾病により中止となる。高宗は頭重に苦しみ、侍医秦鳴鶴が「頭を刺して微出血させれば治る」と言うと、帷の中の天后が「これは斬るべき罪、天子の頭を刺そうとするとは」と怒るが、高宗は「頭が重く苦しいのだ、出血も悪くはなかろう」と述べ百会穴を刺させ「目が明るくなった」と述べた。戊戌、程務挺を単于道安撫大使とし山賊の元珍・骨篤禄・賀魯らを討たせる。皇太子に監国、裴炎・劉斉賢・郭正一らを東宮同平章事とする詔。丁未、奉天宮より東都へ還る。高宗の病が篤くなり宰臣以下も謁見できなくなった。
- 12月己酉、永淳2年を弘道元年と改元する詔。赦書の宣布に際し則天門楼に自ら登ろうとするも気逆で騎乗できず、殿前に百姓を召して宣布させた。礼が終わり侍臣に「民庶は喜んでいるか」と問い「百姓は赦にみな感悦しております」との答えに、高宗は「蒼生は喜んでいるが、我が命は危篤だ。天地神祇がもう一両月の命を延ばしてくれれば、長安に還って死んでも恨みはない」と述べた。この夕、真観殿で崩御、享年56。遺詔で「7日で殯し皇太子は柩前で即位せよ、園陵の制度は倹約を旨とせよ、軍国の大事で決せぬものは天后の処分を仰げ」とした。群臣は謚を天皇大帝、廟号を高宗とした。文明元年(684年)8月庚寅、乾陵に葬る。天宝13載、謚を天皇大弘孝皇帝と改める。
史論
史臣曰く――大帝(高宗)は東宮にあった頃は長者と称されたが、帝位に即くと様子が一変した。虚心に諫言を容れる姿勢は龍の鱗に触れる勇気ある諫言も受け入れるかに見えたが、実際の詔は暑さを扇ぐ程度の見せかけに過ぎず、後宮の情に溺れ根本の政務を怠った。麦斛(宦官の讒言)を惑わし中宮(王皇后)を毒殺の罪に陥れ、趙師(讒言者)の誣説を聴いて元舅(長孫無忌)に冤罪を負わせた。忠良の臣は肩をすくめて口をつぐみ、奸佞の徒がここに志を得た。ついに一族が尽く誅され宗社が廃墟となるに至った。古人の言う「一国は一人によって興り、前賢の業は後世の愚により廃れる」とは、まさにこのことである。
贊
贊に曰く――文(太宗)の鴻業を承け継ぎ、かろうじて余位(帝位)を保った。泰山で天を祭る封禅の礼を行ったが、その徳は先代に及ばなかった。寝所に戎(禍)を伏せ、堂を築きながらついに崩れ落ちた。自ら禍の胎を蘊み、国家は衰えた。