洪秀全演義第四十四回 張国梁丹陽河に投じて歿し、周天受寧国府に戦死す (張國梁投歿丹陽河 周天受戰死寧國府)
王有齢の弔いと戦後処理
李秀成は王有齢の忠節を惜しみ、撫衙内に顕彰碑を建て、盛大な祭祀を行った。他の殉難者(瑞昌、饒廷選、文瑞、繼興、莊煥文、錫庚ら)も丁重に葬り、戦禍で死んだ軍民二万人余りにも棺を用意して埋葬するなど、費用を惜しまず民生を重んじた。
林福祥・米興朝との交流
城内に留まっていた清の官員、林福祥・米興朝を李秀成は厚遇し語り合う。米興朝は「杭州の民は忠王を慕っていた、瑞昌が偽の献城で忠王を謀ろうとしたが王有齢がこれを拒んだ」と明かし、李秀成と王有齢を羊祜と陸抗になぞらえて評した。李秀成は二人の家族を捜し出し、後に上海まで無事に送り届けた。
張国梁・和春の金陵急襲と李秀成の帰還
杭州平定後、班師しようとした矢先、張国梁・和春が五万の兵で金陵を攻めているとの急報が入る。李秀成は「向栄が死んでも張国梁が同じ禍根となっている、今度こそ討ち果たす」と決意し急ぎ金陵へ向かう。張国梁は丹陽を根拠に和春と分担して金陵を攻め、浙江方面にも馮子材・呉全美・趙景賢らを配して李秀成の背後を牽制する布陣を敷いていた。
湖州・広徳の攻略と諸将の連携
折しも侍王李世賢が来援し、陳玉成も皖・鄂方面で左宗棠・楊載福・彭玉麟を破って九江情勢を安定させたとの報が入る。李秀成は李世賢に湖州の馮子材・呉全美を討たせ、楊輔清に和春を、吉志元に金陵防衛を託し、自らは張国梁討伐に向かう。広徳は陸順徳・呉定彩により陥落、湖州でも李世賢が馮子材を破り、各路で連勝が続いた。
四明山での軍議と包囲網の形成
陳玉成も金陵急を聞いて東進し、四明山で李秀成と合流。古隆賢を寧国方面、陳玉成を西梁山から江浦へ、李秀成自身は張国梁本隊へと向かう。李世賢の湖州・溧陽攻略、陳玉成の紫荊山進出、楊輔清の雨花台進出が相次いで成功し、張国梁は補給路(閩・浙)を断たれた不利を悟って丹陽へ撤退、和春も陳玉成に敗れて同じく丹陽へ退いた。
論功と北伐への機運
天京に戻った李秀成らを洪秀全は労い、これまでの一進一退の戦局を振り返りつつ、六合・杭州・皖鄂・蘇寧での勝利で勢いが回復した今こそ北伐の好機であると諸将は一致する。陳玉成は安徽へ、吉志元は溧陽・金陵、楊輔清は蕪湖に配置され、李秀成・李世賢は丹陽の張国梁・和春討伐に向かう。
丹陽の戦いと張国梁の最期
張国梁・和春は丹陽に籠り互いに呼応する構えを取るが、李秀成は投降した張国梁配下の逃亡兵・張英を内応として利用しつつ、賴文鴻の陽動と陳其芒の側面攻撃で張国梁の陣を崩す。張国梁は退路も断たれ、丹陽河に追い詰められて自ら川へ身を投げ、溺死した。李秀成は「もとは広西以来の縁がありながら清に降った者だが、生きては敵、死ねば仇とせず」と述べ、遺体を丁重に葬った。後人の詩でその生涯(緑林出身から清の忠臣として戦死するまで)が悼まれる。
和春の自尽と丹陽・蘇常の平定
李世賢は劉官芳の内応を得て丹陽城内を制し、和春軍も李世賢に大敗して呉全美の水軍も焼き払われた。江蘇の民は和春・張国梁の略奪を恨んでおり、敗走した和春は民心の離反(「同心尽殺張和賊」の対聯)を見て希望を失い、張国梁の後を追って自ら首を吊った。李秀成・李世賢はその後、金壇・丹徒・宜興を回復し、無錫・蘇州・常州も次々と接収、蘇常二府を平定して金陵へ凱旋した。
洪仁発・洪仁達の専横
洪仁玕が各省の安撫に出た後、天京では洪仁発・洪仁達が権勢を振るい、特に洪仁達は狭量で猜疑深く、石達開を追いやった経緯に続き李秀成をも妬んでいた。議政局長の座を望んだが得られず、李秀成の連戦連勝への嫉妬を深める。李秀成が北伐を願い出ても洪仁達が「東南未だ安定せず」と反対し、洪秀全も決断できず、李秀成はしばらく江寧で休養することとなった。
寧国府の攻防
浙江に近い皖南の要地・寧国府では、清の趙景賢・周天受が守っていたが、太平軍の古隆賢・呉汝孝・陳士章が合流して包囲、趙景賢は分断されて銅陵へ敗走、周天受は孤立無援のまま十日にわたる包囲で兵糧が尽き、決死隊三千を率いて突囲を図るところで本回は終わる。