洪秀全演義第四十三回 金陵城で男女科を大いに開き、李秀成義もて王巡撫を葬る (金陵城大開男女科 李秀成義葬王巡撫)

許灣の敗戦とその後

陳炳文が討たれ李世賢も負傷したことで太平軍は総崩れとなり、李世賢は北へ敗走した。鮑超は追撃するが、李世賢は伏兵を用いて反撃し鮑超軍にも損害を与える。部将唐仁廉の進言で鮑超は深追いをやめた。この一戦で太平軍は将校五十余名を失い、獎王陶金曾は一軍を率いて降伏、清側も段福が戦死するなど双方に大きな損害が出た。鮑超は「王衍慶が陳炳文を討ち取らねば勝敗は分からなかった」と述べ、王衍慶を首功とした。李世賢は九江へ後退し、鮑超は失地の郡県を回復した。

洪秀全と李秀成の対応

江西の敗報に洪秀全は憂慮するが、李秀成は「勝敗は兵家の常、林啓栄に九江の守りを固めさせ、李世賢にはしばらく守勢を取らせよう。浙江方面は自分に策がある」と応じ、洪秀全もこれに従った。

天京の官制と論功行賞

金陵(天京)では、武昌奪還・陳玉成の勝保撃破・李世賢の江西席巻などの戦功により、洪秀全は諸臣を大々的に封爵する。忠王李秀成、英王陳玉成、輔王楊輔清、侍王李世賢、贊王蒙得恩、燕王秦日綱、堵王黄文金、慕王譚紹洸、勇王羅大綱、章王林紹章ら要職者の序列が定められ、林啓栄・李昭壽・賴文鴻・賴漢英らも王位・丞相位を得た。洪仁発(安王)・洪仁達(福王)は天京の守衛を担った。

洪仁玕の内政改革

米国から帰国した洪仁玕は開朝精忠殿右軍王・総理政事となり、軍権を再編(陳玉成=前軍、楊輔清=後軍、李世賢=左軍、黄文金=右軍、李秀成=中軍兼総帥)。あわせて阿片禁止、市政制度、官印の規格など西洋知識を取り入れた諸制度を整備した。同年、男女ともに科挙を実施し、男子状元に程文相、女子状元に傅善祥が選ばれた逸話や、玄武湖での文官・女官を交えた詩会など、太平天国の文治の盛況が語られる。

賢者への礼遇と左宗棠の離反

江南の隠士李生が洪秀全を暗に諷刺する十八字を献じたが、洪秀全は怒らず礼を尽くして帰した。かつて武昌攻略時、湖南の挙人であった左宗棠が「武将としては優れるが文治に欠け、宗教を改め孔子を尊ぶべき」と上書したが、洪秀全は数百万の信徒を失う恐れから受け入れられず、以後左宗棠は清側について強敵となった経緯が語られる。

杭州陥落

李世賢の敗退後、鮑超は江忠義・江忠濬を湖南へ返し浙江へ転進。左宗棠・李孟群は安慶を巡り黄文金・陳玉成に敗れて後退する一方、曾国藩は服喪を切り上げ再び軍を率い、九江攻略には失敗しつつも李世賢を牽制する効果を上げていた。曾国藩は浙江先取を図り、鮑超・左宗棠・王有齢(浙江布政使)の三路で杭州を攻め、太平軍守将の翰王項大英らは寡兵で支えきれず杭州は陥落、洪秀全は江西・浙江の勢力をほぼ失った。

李秀成の杭州奪還戦

洪秀全の命を受けた李秀成は五万余の大軍を率いて杭州へ向かう。清側は王有齢が浙江巡撫となり守りを固め、援軍として張運蘭・張玉良・況文榜・李元度らが向かう。李秀成は途中で陳其芒に張運蘭を要撃させて撃破し、周辺州県を次々奪って杭州を孤立させる。李元度の出撃は伏兵で返り討ちにされ、張玉良・況文榜の輸送作戦も賴汶洸らに阻まれて失敗、援軍の将校たちは次々に敗れ、太平軍は杭州外城を攻め落とし、鳳凰山の戦いで張玉良も戦死した。

王有齢の最期

外城陥落後、内城も糧尽き孤立無援となる中、王有齢は李秀成に降伏開城を申し出るが将軍瑞昌に反対され、結局書簡のやり取りに終わる。李秀成は「百姓を殺さぬので開城されよ」と丁重な書を送り、王有齢も「守を貫く、ただし城が落ちれば百姓を害さぬよう」と返書した。ついに城が陥落すると、李秀成は自ら単騎で撫院に赴き王有齢と対面するが、王有齢は「相見るのが遅すぎた」と言い残して自邸で自縊した。李秀成はこれを深く悼み、清の巡撫の礼をもって手厚く葬った。