洪秀全演義第十八回 左宗棠聘に応じ撫衙に入り、洪天王改元し漢統を続ぐ (左宗棠應聘入撫衙 洪天王改元續漢統)

水軍創設と張亮基の病

郭嵩燾の献策を受け、曾國藩は張亮基と広東式の舟師建造を進めた。張亮基は激務で病に倒れ、以後の軍務は実質曾國藩が取り仕切ることとなった。

胡林翼の人物評

胡林翼は張亮基に、洪軍の中枢として錢江と李秀成の存在を報告する。李秀成は隠棲して兵法を研究していた在野の人物で用兵に巧み、錢江はかつて林則徐の幕僚で新疆へ流刑されながら脱走した経歴を持ち、天文地理・諸子百家・政治軍旅に通暁する「王佐の才」と評した。張亮基は錢江の逃亡経緯を訝しむが、胡林翼は追及より応戦を優先すべきと説いた。

左宗棠の招聘

張亮基は湖北の重責を胡林翼に任せようとするが、林翼は固辞し、代わりに湘陰の在野の才人・左宗棠を推薦する。胡林翼が自ら訪ねると、左宗棠は「洪氏は復国を名分とし理はある、しかし清朝二百年の恩義もある」と態度を明らかにせず、軍糧の任は固辞しつつ衙門の事務なら引き受けると答えた。張亮基は重ねて依頼し、左宗棠は「張公が在任する限り務める」との条件で承諾、以後長沙の政務を取り仕切った。

洪秀全軍の進路論争

衡陽を得た洪秀全陣営では、黄文金が江西攻略と長沙攻略の両面策を、李秀成が長沙より武昌直進を優先すべきと主張し、錢江は「長沙包囲を続けつつ勝機なくば武昌へ転じる」との折衷案を示した。折しも水軍統帥の陳坤書が「洞庭湖から岳州を突けば漢陽・武昌が手薄になる」と献策し、秀全はこれを容れて水軍を先発させ、大隊で長沙攻略に向かった。

長沙攻防

清軍側では胡林翼が長沙撤退を勧めるが曾國藩は反対し、結局曾軍は長沙に合流、多隆阿の援軍も加わった。しかし洪の水軍が洞庭湖から岳州を急襲したとの報が入り、撤退も間に合わぬうちに洪軍主力が到達する。錢江は李秀成らに曾國藩軍の牽制を命じ、洪秀全自らは長沙を包囲した。李秀成は資望の浅さを理由に指揮を辞退しようとするが、秀全に諭されて出陣、余万清の来援軍を撃破し曾軍を大混乱に陥れた。

長沙包囲の長期化

楊秀清が広西の情勢(向榮・江忠源の再登用)を報告し、秀全は食塩不足を憂慮、錢江は塩の徴集と長沙圧迫の継続を献じた。胡林翼は洪軍の物資輸送から塩の欠乏を見抜き、塩路を断つ策で対抗した。包囲は四十日に及び、秀全は坑道戦を試みて南城の金雞・魁星両楼下に火薬を仕掛ける。胡林翼はこれを察知して防御を命じたが、爆発により城壁が崩れ、防戦の張協中・林紹良は戦死した。

撤退と長駆

清軍が南門に兵を集める隙を突き、錢江は長沙攻略に固執せず岳州へ直進する策を秀全に勧め、秀全は李秀成らとともに軍を進めた。曾國藩・張亮基は誘敵かと疑って追撃しなかった。途中、石達開配下の曾天養が長沙城陥落時に得た「太平」の文字を秘めた玉を献上し、諸将は瑞兆として喜び、秀全は曾天養を都指揮使に任じた。寧郷では護糧の清将紀冠軍を伏兵で討ち取り、糧秣を得た。岳州では、清の提督博勒恭武がすでに城を捨てて逃げていたため、陳坤書らが無血で入城していた。

洪秀全の即位勧進

岳州に至り、石達開・韋昌輝らが天賜の玉璽を機に秀全の即位を望む声を挙げ、錢江もこれを取り次いだ。秀全は当初辞退したが、錢江の説得を受けて承諾、諸将は皆万歳を唱えて拝礼した。