洪秀全演義第十九回 王位を封じ洪秀全諫を拒み、漢陽を火き曾天養鏖兵す (封王位洪秀全拒諫 火漢陽曾天養鏖兵)
国号・元号の制定
石達開ら十数人が万歳を唱えて洪秀全を推戴すると、秀全は錢江の提案により国号を「天国」、王号を「天王」と定め、長沙で得た玉璽に現れた「太平」の文字を採って元号を太平元年(清の咸豐元年に相当)とし、天下に布告した。李秀成の建言により、清の薙髪令に反発する形で蓄髪・漢服への復古も定めた。秀全は天冠を戴き黄龍袍を着て天地に祭告した。
官制と分封をめぐる論争
錢江は漢制に倣った侯爵三等制と、指揮使・都尉・検点・都監などの武官名目、総丞相府以下の文官制を提案した。しかし秀全は、兄弟同然に苦労を共にした諸将を平等に王位へ封じ、周の封建に倣いたいとの意向を示す。錢江は「君臣の別なくしては号令が立たぬ」と、李秀成も「名位が同格では諸将が服さず、漢の七国の乱・晋の八王の乱のような内紛を招く」と強く諫めたが、秀全の意志は変わらなかった。石達開も「時勢がそれを許さぬ」と暗に同意しつつ判断を秀全に委ねた。
楊秀清の勧進と分封の決定
楊秀清は妻の蕭三娘に勧められて出仕し、秀全に対し「馮雲山・蕭朝貴らすでに亡き者もいる中、生き残った兄弟を同等に遇すべき」と述べ、秀全の決意はいよいよ固まった。錢江は涙を流して諫めたが聞き入れられず、達開・李秀成とともに退出し、諸王の乱立が漢統の禍根になると嘆き合った。
諸王・官職の任命
秀全は楊秀清を東王、亡き馮雲山を南王、亡き蕭朝貴を西王、韋昌輝を北王に封じ、洪仁發を安王、洪仁達を福王、石達開を翼王、錢江を靖国王(丞相事を領す)とした。秦日昌・胡以晃・李開芳・林鳳翔・黄文全・羅大綱をそれぞれ天官から冬官までの丞相とし公爵に、李秀成・陳玉成・曾天養ら六名を副丞相兼指揮使とし侯爵に、その他多数を元帥兼都検使に任じた。楊秀清はさらに自らの娘を後宮に入れることを願い出て許され、以後国丈として絶大な権勢を得た。
錢江の辞退と再任
錢江は靖国王の位を辞そうとしたが、李秀成に「今さら退けば号令が立たなくなる」と諭され思いとどまり、石達開の取り成しで軍師兼大司馬の任も加えられた。
漢陽攻略をめぐる思惑
楊秀清は寸功を立てていないことを気にし、単独で漢陽攻略を主張、諸将も明攻・暗襲の両論に分かれ結着がつかなかった。錢江が体調不良を理由に欠席していたためで、秀全は李秀成を伴い錢江の私邸を訪ねた。李秀成は「分をこえて発言できぬ」と沈黙を保っていたが、道々秀全に「東王が兵権を得ねば収まらぬだろう」との懸念を漏らした。
錢江の献策と漢陽攻撃の決定
錢江は、清の江忠源・向榮が漢陽・武昌を固めつつあることを踏まえ、先手を打って精鋭で急襲することを進言。秀全が李秀成を大将にと望むと、錢江は「若く資望が浅い」ことを懸念し、代わりに石達開を主将、李秀成を副将とする案を示した。秀全はこれを容れ、三日以内の陥落を期して出陣させた。
漢陽の陥落
清側では按察使江忠源が湖北の守りを固めようとし、副将朱翰に守将董振鐸との協力で漢陽を守らせた。しかし実際の防備は薄く、石達開・李秀成は水陸並進の策をとり、曾天養が火薬で城壕を爆破して城壁を崩し突入、董振鐸は乱軍の中で戦死、朱翰も奮戦むなしく自刎した。漢陽は陥落し、曾天養は勢いに任せて放火を続けたが、李秀成が民への配慮を説いてこれを制した。江忠源は間に合わず武昌へ引き返した。
戦後処理
石達開は布告を出して民を安んじ、被災者への恤みを命じつつ曾天養を戒めた。曾天養は「城門を開かなかった以上、焼き払って当然」と釈然としない様子であったが、李秀成の説諭を受けて口をつぐんだ。