皇清開國方略太宗文皇帝 崇徳七年 1642年

新降兵民の編成

  • 秋七月己巳朔、錦州・松山・杏山の新たな降兵民を編成。太宗は新附の官属兵丁を八旗の欠員補充に充て、残りの男女幼穉2千余りは盖州の民として編入した。蒙古415人・漢人8人は孔有徳・耿仲明・尚可喜・沈志祥ら諸王に分与し、その他も公以上の梅勒章京に養わせた。

諸王への叱責と論功行賞

  • 庚午、太宗は諸王貝勒貝子・管旗大臣・議政大臣らを集め、征戦での部下の賢愚を実直に奏上しないことを叱責し、太祖の時代の費英東が功罪を公正に評したため恨まれなかった例を引いて猛省を促した。諸王は皆謝罪した。
  • 辛未、錦州新附の諸官を招いて宴を開いた。先の5月癸酉、太宗は捕虜となった洪承疇・祖大寿・祖大楽・祖大弼・夏承徳・高勲・祖沢遠らを崇政殿に招見。太宗は洪承疇に、明で将帥の妻子を処罰する慣習の由来を問い、「かつては無かったが文臣が増えてこうなった」との答えに対し「文臣の多寡ではなく君主が暗愚で臣が塞ぐからこそ無実の罪が生じる」と論じ、洪承疇は感涙した。太宗はさらに崇政殿での宴、牧馬所での宴、祖大寿への駝・朝服・宝石頂帽子などの下賜を行った。
  • 丙子、諸王の武功に応じ論功行賞。睿郡王多爾衮・粛郡王豪格を親王に復し、多鐸を郡王に進めた。済爾哈朗ら諸王大臣に鞍馬・蟒緞などを賜り、輔国公博和託らに阿巴泰らと交代して錦州駐防を命じた。

錦州での鋳砲と逃亡者処遇の変更

  • 八月己夘、梅勒章京馬光輝・孟喬芳らに神威大将軍砲を錦州で鋳造させた。
  • 癸丑、孔有徳配下の閔有禄が松山陥落時に逃亡して錦州に投じ、その後主人を罵倒した事件を機に、太宗は総兵祖大寿の進言(逃亡者の多くが元来朝鮮・清側からの逃亡漢人であること)を踏まえ、以後、錦州・松山・杏山の官民のもとにいる逃亡者は元の主人に返還しないと定めた。

新附の民への恩養奨励

  • 九月癸酉、太宗は諸王貝勒貝子公に、新たに附いた満洲・蒙古・漢人の恩養が一時的で長続きしないことを戒め、恩養に励む者こそ国政に勤しむ者だと諭した。

阿巴泰の明討伐と山海関以西の攻略

  • 冬十月辛亥、貝勒阿巴泰を奉命大将軍とし、内大臣図爾格とともに明討伐に派遣。太宗は妄殺・略奪の禁止、明側からの和議要請への対応方針(あくまで君命に従うのみと答えよ)などを詳しく訓示し、出陣に際し自ら郊外まで見送った。
  • 前鋒隊は界嶺口を経て長城を毀ち侵入。大同の援兵2,500を撃退(馬433匹獲得)、黄崖口・雁門関の要害を夜襲で奪取、薊州で明の総兵白騰蛟・白広恩の軍を撃破(参将1・遊撃3を斬り馬636匹獲得)するなど各地で勝利した。
  • 丙辰、恭順王孔有徳・懐順王耿仲明の逃亡工作を企てた明の間諜蕭大漢を誅殺。丁巳、重罪人を大清門外で釈放する大赦を実施。
  • 己未、太宗は豫郡王多鐸・郡王阿逹礼に寧遠国境で明の援軍を牽制させるとともに捉生を命じ、あわせて呉三桂・祖大寿への招降の書を送った。
  • 甲子、太宗は諸親王・郡王に国政の合議を命じ、都察院参政祖可法らの上奏(政務多忙な太宗の負担軽減を願う内容)を受けて、鄭親王・睿親王・粛親王・武英郡王による合議制を定めた。

狩猟中の誤射規定と冬の巡幸

  • 閏十一月己未、囲猟中の誤射に関する処分規定を詳細に制定(身分に応じた罰銀・拘禁・鞭打ちなど)。
  • 十二月丁夘、太宗は葉赫方面へ諸王大臣を率いて狩猟。体調を崩し諸臣が帰京を求めたが、「軍士を空手で帰すには忍びない」として狩猟を続行させ、皇九子(わずか5歳)が麅を射止める場面もあった。この月、喀爾喀部の一部族が来降した。