呼爾哈部遠征の帰還
- 春正月辛亥、崇徳7年9月に出征した沙爾琥達・珠瑪喇らの松阿里江呼爾哈部遠征軍が帰還。喀爾喀木遮克特庫ら10屯の住民を招降し、男女幼穉1,619人・家畜630余を得た。
官制の整備
- 二月丙寅、礼部に蒙古理事官・副理事官を各旗一員増設。同日喀爾喀部の一部がさらに来帰した。
朝鮮への詰問
- 三月丙申、朝鮮に使者を派遣。太宗は敕諭で、朝鮮が辺境を越えて人参を採取したり狩猟や漢人との私貿易を行ったこと、僧多克坡を明に往来させ間諜を通じたこと、明船の捕獲を怠ったこと、朝鮮兵の水路輸送が遅延したことなどを列挙して非難し、これらは主が弱く臣が強いためと断じつつ、朝鮮が明に恩義を感じる歴史的経緯にも理解を示した。
- 一方で明の必亡を説き(流賊の蜂起、頼みとする祖大寿・松錦の兵の壊滅、朝廷の腐敗など)、朝鮮の大臣崔鳴吉・金聲らの対明内通を咎めて処罰しつつ、それ以外の関与者は赦免するとした。
界嶺口での捉生
- 五月庚子、前鋒統領努山らが明の寧遠以南・中後所方面での捉生から帰還。男子48人・婦女幼穉33人・家畜40余を得たほか、界嶺口へ再派遣した部隊は明の守備1員・兵300余を討ち、人口34・馬158などを獲得。
阿巴泰の凱旋と戦果
- 六月癸酉、崇徳7年10月から出征していた大軍が凱旋。奉命大将軍阿巴泰・内大臣図爾格らは兖州府まで進み、明の親王1・郡王5及び宗室ら千人を殲滅、3府18州67県、計88城を攻略(うち6城は自ら帰順)、39か所で敵を撃破した。獲得物は黄金1万2,250両、白金220万5,270両、真珠4,440両、緞5万2,230疋、緞衣3万3,720領ほか皮衣・角・俘虜36万9千人、家畜55万1,300余に及ぶ空前の規模であった。太宗は諸王を出迎え、堂子行禮・凱旋の儀を行い、多額の銀を功に応じ賜った。
戦利品配分の是正と軍紀
- 己夘、太宗は諸王貝勒貝子公に、出征各旗の王貝勒家人が財物を多く取り将士の取り分が少ない不均衡を厳しく指摘し、以前の遠征では歸公の財物をすべて出征の王貝勒・諸官に分与したことを引き、家人への恩恵の偏りを戒めた。正紅・鑲紅二旗の取り分の少なさや、新旧の部下への恩養の不均衡も指摘し、以後は公平な恩養を行うよう命じた。
- 乙酉、盛京の道路修築や住居移転において工部が民の労役を過重に課していたことを咎め、担当官を処罰。時節柄、秋の収穫を優先し工事を一旦停止するよう改めて命じた。
軍律・戸口の整備
- 己巳、大学士希福・剛林らに、克城の多寡と自軍の損害の大小によって功罪の上中下を定める軍律を兵部に諭示させた。
- 庚寅、戸部・兵部に対し、各旗に隠匿された蒙古の壮丁や旗下蒙古の増減を厳しく査察するよう命じた。
黒龍江呼爾哈部の再征
- 秋七月戊戌、崇徳8年3月に出征した阿爾津・哈寧阿らの黒龍江呼爾哈部遠征軍が帰還。博和哩・諾爾噶勒都里などを攻略、招降した男子1,049人を各旗の欠員補充に充て、将士に貂皮・銀を賜った。
朝会・礼制の整備
- 壬寅、王貝勒らの常朝欠席に対する罰則(牛・羊の献納など)を吏部に定めさせた。
- 丙辰、外藩諸王貝勒貝子公が内地の諸王貝勒貝子公と会う際の礼儀を礼部に定めさせた。
- 己未、都察院参政祖可法・張存仁の上奏により、内三院の衙門を理藩院の外に別途建てることとした。
来朝の外藩への大宴
- 八月丁夘、太宗は科爾沁部の土謝図親王巴達哩ら外藩諸王が朝賀に訪れたのを機に大宴を開き、銀を賜った。