皇清開國方略世祖章皇帝 崇徳八年 1643年

太宗の崩御と世祖の即位

  • 八月丁亥、世祖章皇帝が即位した。太宗文皇帝(世祖の父)は8月庚午に崩御。礼親王代善は諸王貝勒貝子公及び文武群臣を集めて協議し、世祖章皇帝(太宗の第九子)を後継に立てることを決定。諸王は誓書を作り郊廟に祭告し、鄭親王済爾哈朗・睿親王多爾衮が国政を輔弼することとした。丁亥、世祖は皇帝に即位し、翌年を順治元年と定め、大赦の詔を頒布した。

朝鮮への遺詔頒布と貢納減免

  • 九月丙午、太宗の遺詔を朝鮮に頒布し貢納品を減らした。朝鮮国王李倧は明の偵察船を捕獲した功により使者を送り、その使者に銀・貂皮を通例の倍賜った上、辺境防備の強化を敕諭した。あわせて、太宗の遺詔を奉じて歳貢方物や使臣への贈答の負担を軽減する旨を伝え、崔鳴吉・金聲らを釈放した。この月、海州河口の守将伊勒慎が明の兵船2隻を捕獲し、10人を殺害・4人を捕虜として送致した。

寧遠方面への遠征

  • 冬十月丁丑、明の寧遠討伐から凱旋。9月壬寅、済爾哈朗・阿済格は紅衣砲・火器を携えて出陣し、中後所を陥落させ遊撃・都司ら20余員及び馬歩兵4,500人を殺害、俘虜4千余を得た。続いて前屯衛を攻略(明総兵李輔明・袁尚仁ら30余員、兵4千余を斬り俘虜2千余)、中前所も攻略し(俘虜千余)、凱旋した。太宗の後継者たちは堂子で儀礼を行い、諸王大臣・官員に俘獲物を分与した。

錦州での鋳砲と投降者の受け入れ

  • 十一月庚子、劉之源・呉守進らに錦州で紅衣砲を鋳造させた。この月、明の把総劉自強・蒙古の納哈楚頼が来帰し、12月壬戍には明の守備孫友白も投降し、房屋・奴僕・器物を与えられた。

元旦の朝賀と外藩の礼節

  • 順治元年春正月庚寅朔、世祖は殿に出て朝賀を受けた。喀爾喀部の使者が跪拝参差の礼をとったことに世祖が興味を示し、まだ清の版図に入っていないため礼に慣れていないと説明を受ける一幕があった。
  • この頃、朝鮮国王李倧が元旦の賀と方物献上に加え、攝政睿親王多爾衮への私的な贈物も送ってきたが、済爾哈朗ら攝政大臣は「先帝の時代は受領を許されていたが、今は国政を輔弼する立場として私交を避けるべき」として、以後諸王貝勒への外国からの贈物を一切禁止することとした。