正月の家内統制
- 春正月丙子、太宗は戸部に対し、糧の貸借は家長どうしで行わせ、奴僕への私的な貸借を禁じるよう命じた。
松山陥落と洪承疇の捕縛
- 二月乙未、松山が陥落し明の総督洪承疇らが捕縛された。松山を守る豪格・阿逹礼・多鐸・羅洛宏らのもとに、明の副将夏承徳から内応の密約が届き、その子夏舒を人質として18日夜に城南に梯子を掛けて登城する計画が実行された。阿山配下の班布里、和洛会配下の羅洛科が真っ先に登城し、多数が続いて城を制圧。
- 総督洪承疇・巡撫邱民仰・総兵王廷臣・曹変蛟・祖大楽らを捕らえ、道員1・副将10ほか諸官百余員、兵3,063人を殲滅、夏承徳配下の男女1,863人、俘虜の婦女幼穉1,249人、甲胄弓刀撒袋1万5千余、大小紅衣砲・鳥銃3,273を獲得。
- 太宗はこれらの獲得物を将士に賞与するよう命じ、松山城内に貯蔵。夏承徳は迎えの宴を賜り、大凌河出身の官の家族の引き合わせも行われた。洪承疇と祖大寿の弟祖大楽は盛京へ送るよう命じ、邱民仰・王廷臣・曹変蛟の3人は誅殺、祖大成は釈放して錦州へ帰した。獲得した武器は漢軍大臣石廷柱らに使用・保管を委ねた。この日、明の十三站の夏百総も男女百名を率いて帰順した。
呉三桂軍への勝利
- 三月癸酉、武英郡王阿済格らが明の総兵呉三桂の軍を破った。先に2月戊午、阿済格は寧遠方面への捉生偵察隊が敵に阻まれかけたため応援を送り撃退した戦い、続いて呉三桂・王樸・白広恩が派遣した副将2員・兵600の追撃部隊を返り討ちにした戦いが報告された。さらに呉三桂・白広恩・祖大寿の子らの兵4千が塔山付近を窺った際にも撃退し、連山まで追撃して斬獲30人・生擒1人、また寧遠を窺った明兵500も撃退し斬獲52人を得た。
錦州陥落と祖大寿の投降
- 己卯、錦州が陥落し明の総兵祖大寿が投降した。前年3月からの包囲でついに城内の糧が尽き、餓死者が続出する中、松山陥落の報も届き、祖大寿は済爾哈朗・多爾衮の陣に至り叩頭して降伏した。事前の交渉では、投降を渋る素振りを見せた祖大寿に対し諸王は「降るなら降る、降らぬなら已め、強いはしない」と一蹴し、最終的に祖大寿は自ら出頭を決めた。
- 錦州城内には約7千の兵がおり、祖大寿に同心して帰順した官属兵丁は留め養う一方、それ以外の処遇は太宗の裁可を仰いだ。太宗は勅諭で、留養する者以外は全て誅殺し、城内の蒙古人も処刑するよう命じつつ、後に「無差別に皆殺しにすれば今後の招撫に支障が出る」として方針を緩和し、祖大寿の部衆は全て留め養うこととした。あわせて寧遠方面への降伏工作、城内住民・商人の保全、帰順兵の薙髪などが指示された。
- 済爾哈朗らは接収した官員・俘虜の名簿(祖大寿以下、総兵祖大弼・副将高勲ら及び男女幼穉3,428人、僧・喇嘛94人、俘虜4,894人)を奏上。太宗は希福・剛林を派遣し大凌河出身者の家族を引き合わせ、祖大寿一党の戸口編入や輸送方法(牛車・馬の手配、盖州への安置)を細かく指示した。
明の講和申し入れとその拒絶
- 乙酉、明が講和を求める使者を送ってきた。杏山・錦州駐留の諸王のもとに明の総兵・錦衣衛官・職方司官が至り、尚書陳新甲の敕諭を携え講和を求めたが、太宗はその文面が誠意を欠く(皇帝の書と称しながら陳新甲個人への諭とする体裁など)と厳しく批判した。
- 太宗は長文の勅諭で、清側はもとより講和を望んでいたが明側が誠意を示さなかったこと、既に金・元・朝鮮の旧領を得て圧倒的優位にあるにもかかわらず万民のために和を望んでいること、天命は徳ある者に移るものであり明の頑迷さが億万の民を苦しめている責任は明の君臣にあることを述べ、この意を明に伝えるよう命じた。
駐防体制の再編
- 乙未、明兵討伐部隊を二班に分けて再編。太宗は睿郡王多爾衮・粛郡王豪格・饒余貝勒阿巴泰らを杏山、鄭親王済爾哈朗らを塔山、武英郡王阿済格・多鐸らを京へ帰還させ、満洲・蒙古の護軍・騎兵・前鋒兵を交代制の二班に分け、錦州・杏山・塔山の駐防人数と担当を細かく定めた。孔有徳・耿仲明・尚可喜・沈志祥の部隊も交代制とし、松山城は破却の上で防具を保管、房屋の管理方法も定めた。
呉三桂への招降工作
- 夏四月丁未、太宗は寧遠総兵呉三桂に勅諭を送った。夏承徳・祖大寿らが投降後も部衆を保全された例を挙げ、呉三桂に速やかな帰順を促す一方、白広恩ら他の諸将にも呉三桂への説得を命じ、白良弼(白広恩の子で捕虜となっていた)からも父への書状を書かせた。
塔山攻略
- 辛亥、塔山を陥落させた。太宗は先に杏山・塔山の官民に敕諭し、夏承徳・祖大寿の先例を示して速やかな投降を勧めていたが、塔山は応じなかった。済爾哈朗・多爾衮・豪格らは紅衣砲を並べて攻城し、8日から9日にかけて城壁25丈余りを崩して陥落させ、城内の3営・兵7千を全滅させた。太宗は俘獲物を功に応じて分配するよう命じ、松山城と同様に城壁を平らげた後、大軍を高橋方面へ移動させた。
朝鮮従軍将士への褒賞
- 乙卯、松山・杏山攻囲を助けた朝鮮の総兵金得幹以下の将士に銀を賜り、東京で歓迎の宴を開いた。
杏山攻略
- 甲子、杏山を陥落させた。太宗は先に杏山守将・軍士に敕諭し、松山・錦州の先例(投降者は部衆ごと保全)を示して速やかな投降を促していたが、杏山は応じなかったため、済爾哈朗らは砲台を移設して城壁約25丈を崩し、包囲が迫ると城内の官員は開門して投降。俘獲した官民・馬駝・米穀・軍械を奏報し、太宗は帰順官の京送、その他住民の盖州方面への移住手配、松山・塔山破却後の外藩蒙古兵の帰還などを指示した。
邪教の禁止
- 五月戊寅、太宗は礼部に対し、僧でも道士でもない「善友邪教」を唱える康養民・李国梁らの集団を厳禁し、印を私造し民を惑わせた罪で首謀16人を誅する一方、他の関与者は寛大に処す旨の諭を発した。
明との和議交渉と国書
- 六月辛丑、辺境で明の使者を送り返し、あらためて国書を送った。済爾哈朗の奏上により、明の兵部職方司員外馬紹愉ら99人が寧遠から寄越され、太宗は啓心郎占巴らに迎えさせ、盛京で厚くもてなした上、貂皮・白金を賜り送り返した。
- あわせて明の崇禎帝への国書を送り、清朝建国の経緯と講和条件(寧遠・塔山を境とする分界、互市の実施、明からの毎歳の贈物と清からの人参・貂皮の贈答、逃亡者の相互送還、海上境界の設定など)を提示した。
農事保護と軍紀
- 癸卯、太宗は范文程・剛林・羅碩らに、太祖の時代には行軍中の田禾踏み荒らしを厳罰に処していたと述べ、近年諸王貝勒の狩猟や行軍で同様の被害が出ていないか究明を命じた。実際に内大臣塔瞻ら数名の踏み荒らしが発覚し、矢を没収の上、兵部で処罰することとした。あわせて出征の功罪ある官以外の閑散官員には屯荘の田土の耕作状況を巡察させるよう命じた。太宗は諸王貝勒を集めて厳しくこれを宣示した。
漢軍八旗の編成
- 甲辰、漢軍八旗の編成を開始。崇徳4年に漢軍二旗を四旗に分けていたが、この日改めて八旗に再編し、祖沢潤・劉之源・呉守進・金礪・佟図頼・石廷柱・巴延・李国翰を管旗大臣、祖可法・張大猷ら多数を梅勒章京に任じ、牛录章京も新設して部を統括させた。