皇清開國方略太宗文皇帝 崇徳六年 1641年

松山攻略の継続と還幸

  • 九月丙戌、太宗は松山から盛京へ帰還した。これに先立つ甲戌朔、大勝を祝い内外の諸王と天を拝した夜、太宗は太祖から玉璽を授かる夢を見、大学士范文程・希福・剛林らはこれを天命の証と奏上した。翌乙亥、太宗は満洲・蒙古八旗に紅衣砲を携えて松山を攻めさせる一方、多爾衮・豪格には盛京守備のため帰還を命じた。
  • 辛巳、太宗は松山城西北十里に移営。壬午、済爾哈朗が錦州包囲の濠を掘る中、牛录章京佛洛が寧遠へ出奔し呉三桂配下に投じたが、間もなく他の逃亡者と寧遠の蒙古人10人を連れて戻る一幕もあった。
  • 乙酉、太宗は杜度・阿巴泰・譚泰らに錦州の包囲を、多鐸・阿逹礼・羅洛宏らに松山の包囲を、外藩科爾沁の卓哩克図親王らに杏山・高橋の包囲を分担させ、自らは盛京へ帰還した。

冬の攻囲整備と献策

  • 冬十月辛亥、太宗は帰還後5日目に済爾哈朗らへ勅諭を送り、錦州・松山の濠塹の巡視、城外の薪草の刈り取り、疲弊した馬の入れ替えなどを指示した。翌日、明の松山城内外の馬歩兵が鑲黄旗漢軍の陣を襲ったが撃退し、首級千・砲57門・甲胄軍械400余を獲得。
  • 甲辰、太宗は鎮国将軍阿拜に松山南の乳峰山への駐屯を命じ、丁未には孔有徳・尚可喜・耿仲明・沈志祥の部隊を錦州駐屯に加え、済爾哈朗らに馬匹の徴発方法を指示する勅諭を送った。

凶作対策

  • 十一月戊寅、凶作を受けて備荒の事例を施行。都察院参政祖可法・張存仁の上奏(酒造の禁止、糧の囲い込みの禁止、水路の浚渫、納粟による贖罪の許可の4条)が裁可され、太宗は酒造停止・贖罪の穀物換算などを命じた。

松山での明軍撃退

  • 十二月甲寅、睿郡王多爾衮らが松山で明軍を撃退。11月乙亥、太宗は多爾衮・洛託・屯斉に錦州、豪格・満逹海に松山の駐防を命じていたが、明の総督洪承疇が兵6千で夜襲を仕掛け、正黄旗の陣で撃退、斬獲424人。杏山から夜逃げした敵も伏兵により574人殺害された。
  • 太宗は啓心郎布丹を派遣し、以後、錦州・松山・杏山から逃亡する者は15歳以下は奴として留め、16歳以上は容赦しないとの勅諭を守備の諸王に伝えた。