正月・博木博果爾の捕獲
- 正月壬辰、崇徳5年に索倫部から逃亡した博木博果爾を追討していた錫特庫らが凱旋。5年3月の敗走後、7月丙午に太宗は錫特庫・済什哈に護軍と外藩蒙古の徴発兵を率いて追討させ、敖漢・柰曼・烏喇特・阿嚕科爾沁などの部隊も動員していた。錫特庫らは2ヶ月かけて甘地でその弟と家族を、続いて齐洛台で博木博果爾本人とその家族を含む956人・馬牛844頭を捕獲し帰還。
- 太宗は錦州の済爾哈朗らへの勅諭で、博木博果爾を北へ逃がすよう仕向けた自らの計略の顛末を説明した。凱旋時には北駅館での歓迎の宴のほか、諸王による宴も行われ、錫特庫は世職を進められ、蒙古諸部の将領にも褒賞が与えられた。
牛录章京の粛正と武芸奨励
- 二月己未、戸部が16旗の牛录を貧富により調査した結果、宗室拝音図配下の武頼ら48牛録が貧窮と判明。太宗は篤恭殿に諸臣を集め、貧窮の原因は該管章京の怠慢と嗜酒にあるとして担当章京を全て解任し、才能ある者に交替させるよう命じた。同日、子弟に弓術を習わせるよう督励する諭も発した。
蒙古来降と睿親王・粛親王の降格
- 三月乙未、明国に逃亡していた蒙古の博爾衮岱・哈喇爾岱・巴彦岱らが男女521人・馬騾211頭を率いて大同・陽和の辺牆を破って来降し、銀・鞍馬・朝服などを賜った。
- 丁酉、睿親王多爾衮・粛親王豪格を郡王に降格。両者は崇徳5年12月から済爾哈朗らと交代で錦州・松山を囲んでいたが、駐営中に無断で牛录ごとに兵を家に帰したり、営を国王碑まで約30里遠く移したりしたことが発覚。太宗は激怒し、勅使を送って厳しく詰問した。多爾衮は自らの発議であったと認め、豪格ら他の諸将も同様に弁明したが、太宗は「移営は牧馬のためと言うが専ら牧馬に行かせたわけではない」と一蹴し、自ら議罪させた結果、多爾衮・豪格は郡王に降格、阿巴泰以下も罰銀を科された(ただし阿山は当初から遠駐を諫めていたため罰銀半減)。
- 辛丑、太宗は戸部に対し、旗を越えて貿易する漢人の閑散者による盗賊化を防ぐため、閑散者を本来の屯に帰住させ、家長・管旗章京に管理責任を負わせるよう命じた。
錦州蒙古の投降と外城陥落
- 乙巳、錦州の蒙古貝勒諾木斉らの部衆が帰順、編入された。済爾哈朗・阿済格らは錦州包囲陣を八営に分けて濠を掘り哨戒を厳にしていたところ、城中の蒙古勢が兵糧の限界を悟り、貝勒諾木斉・武巴什らが密かに投降を計画。密使が降伏の書状を城外に持ち出し、済爾哈朗らと呼応の手筈(信砲三発を合図)を定めた。
- しかし総兵祖大寿がこれを察知して迎撃態勢を取ったため、外城で交戦となり、済爾哈朗・阿済格・多鐸らが自ら督戦して城壁をよじ登り、明兵を撃退。蒙古勢は官属・兵丁とともに投降し、都司・守備等の官86員、男女幼穉6,211人を得た。
- 太宗は篤恭殿で捷報を宣し、諾木斉・武巴什らを盛京に迎えて宴を賜り、朝見・射礼・角力などの催しを行った。彼らが献上した鞍馬・宝物などは辞退し、代わりに蒙古1,573人・漢人139人・婦女幼穉2,655人を9牛录に編成、諾木斉らには梅勒章京・甲喇章京・牛录章京に準じる地位と頂帯・朝衣・荘田などが与えられた。
元世祖の故事による訓戒
- 夏四月甲寅、太宗は内院の諸臣に元史を読ませ、元世祖が伯顔に南宋征討を命じた際、暑さを理由に延期を諭したが伯顔は上奏して即座に出征し宋を滅ぼした故事を引き、清寧宮で睿郡王多爾衮らに「お前たちは錦州を囲まず遠くに駐屯して狩猟にふけり帰りたがっている」と厳しく戒めた。多爾衮らは恥じ入り謝罪した。
- 甲子、篤恭殿にて各牛录の辦事人・銀匠の員数を削減し、満洲の壮丁3人につき1人を披甲とする定数(各牛录60名を基準)を定め、不正な代役や情実による免除を厳しく取り締まるよう命じた。
松山での明軍撃破
- 五月丁丑、済爾哈朗らが松山で明の総督洪承疇軍を撃破。3月己亥、太宗は朝鮮の総兵柳林らに兵馬を率いて済爾哈朗の錦州包囲を助けさせ、4月丁未にも援兵を送っていた。済爾哈朗らは伏兵策で明の援軍を左右から挟撃し、斬獲170人、馬160匹余、甲70副、俘虜4,370人余りを得る大勝を収めた。
- 蒙古の名古什という人物も、諾木斉らと共謀していたが投降が遅れたため城を越えて帰順した。庚戌、孔有徳・尚可喜の軍も済爾哈朗軍の応援に加わり、洪承疇率いる総兵6員・兵6万を松山北岡で撃破、首級2,000を得た。希福・剛林らを派遣し包囲陣の濠塹や陣形を視察させた。
索倫部の来降と帰化城の築城
- 己丑、索倫部の巴爾達齊が204人を率いて来降、続いて索倫部1,471人も来降し、北駅館で歓迎の宴を賜った。
- 壬寅、太宗は帰化城の土黙特章京古禄格らに勅諭し、城が狭小で敵の侵入に弱いことを指摘、高さ3丈5尺の外郭を築いて甕城・楼閣を整備するよう命じた。
朝鮮の瑞金献上と外交文書
- 六月丁未、朝鮮国王李倧が瑞金(新溪書院跡から出土したという吉祥の金)を献上する咨文を送ってきたが、太宗は瑞兆を喜びつつも「王が自ら受けるのは朕が受けるのと同じである」として金そのものは朝鮮に返還した。使者には貂皮・銀などを賜った。
松山攻防の継続と祖大寿への書
- 辛酉、睿郡王多爾衮・鄭親王済爾哈朗らが合軍し松山で明の援軍を撃破。多爾衮・豪格は錦州蒙古の投降の功を聞き自らも効力を願い出たが、太宗は「離れて駐屯し狩猟していたくせに人の功を横取りする気か」と一度は退けた後、大学士范文程らのとりなしで許可し、兵の半数を率いて済爾哈朗軍と合流させた。両軍は明の援軍を松山東西から挟撃し馬50匹余を獲得。
- あわせて、錦州陥落後に帰順した祖沢潤・曹恭誠らの連名で祖大寿に投降を勧める書状を送った。丙寅、明の関内援兵が松山で撃退され、馬570匹を獲得。
科挙合格者への褒賞
- 秋七月戊寅、内三院大学士范文程・希福・剛林の上奏により満洲・蒙古・漢人から挙人・生員を選抜し、太宗は「忠経」の言葉を引いて公正な選考を求めた。合格者の満洲鄂謨克図・蒙古都当・漢人崔光前ら及び一等から三等までの生員に、それぞれ朝衣・緞・布が与えられた。
太宗の親征と松山の大勝
- 八月丁巳、太宗自ら大軍を率いて錦州の明軍討伐に出陣。先立つ己酉、多爾衮らから明の援軍来襲と苦戦の報を受け、太宗は即日各路の兵馬を招集、鄭親王済爾哈朗に盛京留守を命じて自ら出陣した。
- 渡遼河の際、豪格らが洪承疇軍の攻撃を撃退。行軍中、太宗は鼻血が止まらぬ病を得たが、諸王の進言を退け「敵が朕の親征を知れば逃げてしまう、翼があれば飛んでいきたいほどだ」として昼夜兼行で6日で戚家堡に到達した。
- 多爾衮・豪格らは兵力不足を案じ、太宗の到着を待ってから決戦することを願い出て許可され、太宗は松山・杏山間に布陣。明の総督洪承疇以下13総兵・馬歩兵13万が松山城北の乳峰山に布陣したが、太宗自ら松山を包囲する軍容を見て明軍は動揺し、戦うか退くか窮した。
- 乙丑、太宗は明兵13万を松山で撃破。前夜からの一連の戦闘(癸亥の前鋒撃退戦、甲子の夜襲撃退戦)を経て、太宗は諸将に敵が夜間に逃走することを予見し、鰲拜・阿済格らに左右翼の護軍を海辺まで展開させ、敵の逃亡兵を規模に応じて追撃するよう指示。実際に総兵呉三桂・王樸・唐通・馬科・白広恩・李輔明らが初更に逃走を図ったため、各方面に伏兵・追撃部隊を配置(多爾衮・洛託らを塔山方面、譚泰を小凌河西方、蒙古諸将を杏山・松山各所へ)し、徹底的に追撃・掃討させた。
- 明軍は各地で総崩れとなり、死者は山野・海中に満ちた。塔山の四つの台も攻略し、副将王希賢らを捕らえた。太宗自ら松山への包囲網を固める中、明総兵曹変蛟が乳峰山から突囲を図るも撃退され負傷し松山へ逃げ込んだ。
- 丁卯以降も杏山からの逃走兵を伏兵で撃破し続け(塔山大路、高橋など各所)、己巳には呉三桂・王樸が寧遠へ逃れようとしたところを多鐸の伏兵が阻み大破。最終的な戦果は斬殺5万3,780人余り、獲得馬7,444匹、駝66頭、甲胄9,346領に及んだ。太宗の記録では、この大勝で味方の誤傷はわずか8人・厮卒2人にとどまったとされる。
- 松山城内に残る洪承疇・邱民仰らは兵1万足らずで糧道を絶たれ、太宗は敕諭で松山城の守備兵に投降を促した。あわせて、明の斥候陣地を偵察していた前鋒将領努山らの戦果(斬獲145人余)も報告された。