正月・錦州防衛と民情巡察
- 正月甲子、太宗は翁阿岱・多濟里らに官兵を率いて錦州の防衛にあたらせた。貝勒多鐸を通じて軍律を授け、逃亡者や敵の侵入への警戒、交戦時の隊形(精鋭を前隊・後隊に分け、敵が敗走しても追撃を急がず退路を断って殲滅する)、慢心を戒める訓示を与えた。
- 閏正月癸未朔、太宗は各旗の管旗大臣に、各地の屯堡を巡回して民間の冤罪・不満を調べさせるよう命じた。
朝鮮国王の子の往来と迎送の定め
- 正月甲申、太宗は礼部に朝鮮国王の子弟の迎送の礼を定めさせた。朝鮮国王李倧は崇徳二年冬、人質として送った二子の帰国を願う上疏を提出していたが、太宗は当初許さなかった。国王病篤の報を受け改めて奏請があり、太宗は勅諭で、二子が帰れなかったのは朝鮮側の疑心によるものだと述べつつ、世子李某の帰省と現地に残る子との交替を許可した。
- あわせて、国王の子が来朝する際の鳳凰城・東京・盛京での歓待順序や、世子・諸子それぞれの送迎担当官の格を定めた。世子は2月丙寅に帰省し、随行の官員にも貂裘・鞍馬・銀などが与えられた。
烏扎拉部への遠征
- 二月丙辰、太宗は多濟里・喀珠らに八旗甲士・嚮導と寧古塔での合流部隊を率いさせ烏扎拉部を討たせた。水陸いずれの道を取るにせよ迅速に行動し、要地を扼し、貢納を怠る者や欺く者を捕らえて連れ帰るよう命じた。多濟里らは烏扎拉で110人余りを捕らえ、6月癸酉に帰還。捕虜の壮丁43人は各旗の欠員補充に充てられ、諸将に貂皮・布などが与えられた。
索倫部の平定
- 夏四月乙亥、索倫部遠征軍が帰還した。索倫部の博木博果爾は崇徳2年閏4月・3年10月に朝貢したが後に離反し、崇徳4年11月に索海・薩木什喀らが討伐に出発していた。
- 太宗は貝勒多鐸・額駙英固爾岱を通じて、既に帰順した屯と博木博果爾方の屯を区別して侵掠しないこと、行軍の際の哨戒の徹底、新附の民の査察などを命じた。
- 左右両翼に分かれた軍は雅克薩などの各城を次々に攻略し、抵抗する博木博果爾勢と激戦を重ねた末、多くの人口・家畜を捕獲した(捕虜約2,254人に加え、後に900人を追加し総計男女大小6,950人余り、馬424匹、牛704頭など)。
- 凱旋後、盛京で盛大な出迎えと宴が行われ、捕虜5,673人は八旗に編入され、功に応じて将士に貂皮・人口・衣服・布などが与えられた。等第に応じた騎射の試験も行われた。
義州の築城屯田と巡幸
- 五月乙未、太宗は義州に至った。これに先立ち3月己亥、鄭親王済爾哈朗を右翼主帥、貝勒多鐸を左翼主帥として義州城の修築と屯田を命じ、明の山海関外の寧遠・錦州が耕作できないようにする方略を自ら授けていた。
- 太宗は自ら旧辺を巡行し、牧馬場を閲し、開城一帯で狩猟を行いながら義州に至り、修築の様子を視察した。戚家堡に駐蹕。
索倫部の来降処理
- 戊戌、索倫部討伐の際に投降した337戸(壮丁481人)を編成。太宗は理藩院参政尼堪に護軍・将士を率いて緞・布を携え出迎えさせ、索倫の来帰者を郭爾羅斯部の民とともに烏庫瑪勒などの地に駐留・耕作させ、統率者を牛录章京に任じて9牛录に編成した。
瓦爾喀部の平定
- 甲辰、瓦爾喀部討伐の勝報。先に東方の瓦爾喀部が離反して熊島に逃げ込んでいたため、崇徳4年7月に太宗は朝鮮国王李倧に舟師で熊島を攻めさせ、首謀者の嘉哈禅らを捕らえて盛京に送らせていた。同謀の逃亡者は罪の軽重に応じて処断する一方、薩爾紏・英古・納爾泰・錫図らに兵100人を率いさせ瓦爾喀の残党を収めさせた。
- 太宗は略奪や妄殺を戒め、抵抗者は誅し帰順者は戸口に編入して海豹皮を貢がせるよう指示。朝鮮の境を侵さぬことも命じた。薩爾紏らは嘉哈禅を伴い残党500人を収めた。
- 戸部を通じて朝鮮国王に食糧供給を命じ、鳳凰城の貢米から相殺する旨も指示。最終的に俘獲・帰降あわせ男子485人、家属1,360口余りを得て、うち292人を鄢朱屯に留め置き、毎年貂皮・海豹皮を貢がせることとした。
勞薩らの略地
- 己酉、勞薩らが広寧方面への捉生(捕虜狩り)から帰還。3月丙戌に太宗は勞薩らに広寧山後を回り大凌河を渡らぬよう命じて出発させ、続いて中後所以北の海浜を略させた。馬・牛・驢馬を多数捕獲し、16人を捕虜、220人を殺害して帰還。
錦州還幸と杏山の戦い
- 庚戌、太宗は錦州から盛京へ帰還する途上、降明の蒙古人蘇班岱・阿巴爾岱らが密かに投降の意を伝えてきたため、済爾哈朗らに1,500の護軍を率いて迎えさせた。前・中・後の三隊に分けて進軍させ、明軍(総兵劉周智・祖大寿の指揮下、呉三桂の馬兵などを合わせ総勢7,000)と杏山付近で激突、大敗させて副将楊倫・参将李得位を斬るなど大勝した。
- 太宗自ら錦州城を巡視し、諸将に良馬や賞を与えた。その後、大軍を率いて錦州に進み、紅衣砲で敵の楼を攻略、城東・城北の稲を刈り取るなどして威圧した後、盛京へ凱旋。
朝鮮の輸送問題
- 六月戊辰、朝鮮の協済兵米の輸送を陸路に改める指示。先に太宗は朝鮮の総兵林慶業らに船で米1万包を大凌河口方面へ運ばせたが、暴風雨で多くの船が損壊・漂流し、明軍にも数隻を奪われる事態となった。林慶業は前進できず葢州で足止めした。
- 太宗は査察のため希福・范文程・剛林を派遣。慶業は陸路輸送を望んだが、太宗は勅諭で林慶業の遅延と対明内通の疑いを厳しく責めた上、最終的に陸路輸送を認め、随行兵力を制限して海州に駐屯させることとした。
秋の錦州・松山攻防
- 秋七月己酉、睿親王多爾衮らが錦州で明軍を連破。6月乙丑、太宗は多爾衮・豪格・杜度・阿巴泰らに兵の半数を率いさせ済爾哈朗らと交代で義州に赴かせた。錦州城西での刈り入れ中に明軍と交戦し撃退、城壕まで追撃。松山の要路に伏兵を置き、総兵祖大寿の使者も捕らえた。錦州城西の台2か所を攻略し、蒙古の投降者も出た。
- 収穫した糧草の保管地について奏請し、太宗の裁可を得た。癸巳、鑲藍旗営を夜襲した明軍500騎を撃退。9月には明の総督洪承疇率いる4総兵・馬歩兵4万が杏山城外に着陣、多爾衮らは前哨戦で撃退し馬70匹を得た。
- 太宗は前鋒将領武拜に援軍を送り、堅守して敵が近づいてから撃つよう指示。烏忻河口の伏兵戦や、寧遠路での明の輸送隊撃破(米千石・駝馬牛驘397頭余獲得)などの戦果も報告された。
松山での大勝
- 九月辛夘、睿親王多爾衮らが松山で明軍を撃破。8月に杜度らが錦州城外で刈り草中の明兵を撃退した戦い、義州屯田を襲った敵を追撃した戦いなどを経て、9月9日、杏山城北の山巓での誘敵作戦により松山の敵騎兵を撃破。さらに来襲した明の馬歩兵も撃退し、最終的に総督1・総兵7・士卒5万を撃破、馬120・甲570を獲得する大勝を収めた。
万寿節の恩赦と朝鮮貢納の減免
- 冬十月壬申、太宗の誕生日(万寿節)にあたり大赦を行った。先立つ7月戊戌にも死罪以下の未決囚を大清門で釈放していたが、この日改めて十悪を除く罪をすべて赦し、内院大臣に赦詔を宣読させた。
- 十一月戊寅朔、朝鮮の歳貢米を万包から千包へと九割減免する詔を発した。
錦州での連戦と年末の軍紀粛正
- 乙酉、鄭親王済爾哈朗らが錦州で明軍を連破。9月丙戌、太宗は済爾哈朗・阿済格・阿達礼・多鐸・羅洛宏らに、済爾哈朗らと交代で錦州・松山を包囲させていたが、多鐸の夜襲による塔山での斬獲86人、済爾哈朗の伏兵による斬獲60人余り、明軍の芻糧運搬部隊への奇襲(斬獲50人余り、生擒5人)など連戦連勝の報告があった。
- 十二月辛未、都察院参政張存仁の上奏を受け、太宗は漢軍の出征時に家人が兵丁の身代わりを務める不正について厳しく取り締まるよう命じた。