皇清開國方略太宗文皇帝 崇徳 四年 1639年

両翼征明軍の凱旋と岳託の死

  • 夏四月辛丑、明国征討の両翼軍が凱旋し、睿親王多爾衮らが沙嶺堡で出迎えた。先に三月丙寅、左翼軍(多爾衮・杜度)から届いた上奏に揚武大将軍貝勒岳託の名がなく、太宗は驚いて問い質したところ、岳託と輔国公瑪瞻が軍中で病没していたことが判明し、太宗は慟哭した。
  • 左翼軍の戦果は、燕京西方から山西境まで、南は山東済南府まで転戦し、城40余を攻略(6城は自ら降伏)、16戦に勝利、捕虜25万7880人。右翼軍(杜度)は9城を攻略、総督以下百余官を殺し、明の親王・郡王・奉国将軍各1名を捕虜とし、捕虜20万4423人、金銀多数を得たと報告された。
  • 左翼軍は青山関から、右翼軍も青山口から相次いで撤退。三月上旬に完全に明の辺境を出た。
  • 太宗自ら岳託の死を悼み、礼親王代善は号泣して落馬するほど嘆いた。太宗は沙嶺堡で諸王を迎え、崇政殿で凱旋の礼を行った後、岳託を克勤郡王に追封し、瑪瞻にも厚く弔慰した。

鄭親王済爾哈朗の錦州からの帰還

  • 五月丙子、済爾哈朗が錦州方面から師還。先に錫特庫・沙爾琥達らが伐木・略奪中の明兵を撃破し人口・家畜を得ていた。済爾哈朗はさらに錦州・松山・杏山方面で明兵を9度撃破し、捕虜・家畜2300余を獲得して帰還、朝鮮国王子李&KR1261;・李淏や続順公沈志祥ら出征各官に分賜された。

張家口互市開設の論功

  • 庚辰、張家口での互市開設に功のあった達雅斉・偉宰桑らに世職を加増、喇嘛偉徴には偉徴達爾漢囊蘇の号を賜った。

錦州降人への恩賞

  • 六月戊子、錦州から帰順した博塔漢布爾哈図らに妻室・奴僕・家屋・馬牛などを賜与。

漢軍四旗への拡編

  • 丙申、漢軍を二旗から四旗に拡編。先に石廷柱・馬光遠が明征討時に砲弾の不良や虚偽報告で刑部の弾劾を受けたが、太宗は希福・范文程・剛林の進言により両者を赦し、正黄・正白・正紅・正藍の四旗に再編、各旗に領旗大臣・梅勒章京・甲喇章京・牛录を配置し、旗纛の色分けも定めた。

宗室陣傷加賞の規定

  • 戊戍、兵部参政葉克舒の負傷を機に、宗室の陣傷者への加賞規定を制定。公は定例外に銀100両、覚羅は一等の加賞とした。

明の敕書の焼却

  • 辛亥、旧来ハダ・イェヘ・ウラ・フィファなど満洲近隣諸国やモンゴル諸部が受けていた明の敕書を、清への帰属統一を理由にすべて回収し篤恭殿前で焼却した。

明国への通好の書

  • 秋七月丁巳、明の崇禎帝に通好を求める書を送った。太宗は明国の民が戦禍に苦しむ様を憂い、袁崇煥ら明の辺臣に再三通好を求めたが拒まれたことに触れ、和議が実現すれば互いに国を保てると説いた。もし和議が明側の誘引策と疑うなら、これまで背盟した例がないことを指摘し、和議が成れば捕虜とした明の親王・郡王らを釈放すると述べた。
  • あわせて陣獲した明の徳王朱由□らが崇禎帝に宛てた哀訴の書、総督太監馮允昇が明国当局に宛てた和議勧奨の書も添えられた。

宗室の封爵

  • 八月己丑、宗族に恩を加え、貝子・鎮国公・輔国公・鎮国将軍・奉国将軍などの爵位を授け世襲を認めた。

逃亡者の追跡失敗をめぐる処罰

  • 辛亥、鎮国公扎喀納らが逃亡者の追跡を怠った罪で降罰。先に扎喀納・輔国公杜爾祜らは出戍を命じられていたが、モンゴル人3人・漢人1人が馬5匹を奪って逃走した際、追跡途中で泥濘を理由に引き返してしまった。
  • 太宗は崇政殿に扎喀納らを跪かせて親しく詰問し、逃亡者追跡の定法(まず散らし、疲れを待って追う、あるいは半分は追跡・半分は先回りする)を守らなかったことを厳しく責め、庫魯克達爾漢阿頼が8か月かけて追跡し葉雷らを討った先例を引いて叱責。諸王大臣の議により扎喀納らは処罰を受けた。

朝鮮国王世子の冊封

  • 九月甲戍、朝鮮国王李倧の長子李&KR1261;を世子に封じた。李倧の願いを受け礼部の議を経て太宗が裁可し、瀋陽で誥命・蟒緞などを賜った。

馬匹の頒賜

  • 丙子、内厩馬千匹のうち117匹を御前賞用とし、残り883匹を親王以下将士に分賜。さらに官馬1592匹を各牛录の貧困者に均等に配分した。先に太宗は諸王大臣を集め、身分を問わず先登・破城に功ある者に馬を与える方針を宣示していた。

寧遠北山岡での明兵撃破

  • 十一月甲寅朔、粛親王豪格ら(九月に爵位を復した)が寧遠北山岡で明兵を撃破。先に阿済格・阿巴泰・杜度らが錦州・寧遠方面へ出征し、豪格・多鐸らが続いた。明の寧遠兵が出撃したところを右翼軍が迎撃し、総兵金国鳳とその子2人を含む30余人を斬った。

蘇尼特部の帰順

  • 十二月癸卯、蘇尼特部長騰機思らが部族を率いて帰順。年初以来、超察海・噶布楚・莽古思ら同部の諸台吉が相次いで来帰しており、この月には左翼部長騰機思・右翼部長素賽が阿巴噶部長多爾済とともに瀋陽に至り、演武場で盛大な出迎えの宴を受けた。太宗は崇政殿で朝見を受け、清寧宮でも宴を賜り、甲冑・弓矢・蟒衣・銀幣などを厚く下賜した。

外藩の献獣数の制限

  • 乙巳、外藩諸王貝勒が狩猟の獲物を献上する際の負担軽減のため、鹿・猪各2頭、なければ麅子・黄羊で計9頭までとする規定を定めた。

朝鮮の三田渡碑建立

  • 庚戍、朝鮮国王李倧が三田渡に頌徳碑を建立。李倧は太宗が妻子を還し国土を復させた恩に感謝し、崇徳元年の開戦から降伏、恩赦、撤兵に至る経緯と清の威徳を頌える碑文を三田渡の受降壇跡に建てた。太宗は察布海・李棲鳳らを遣わし碑文を確認・進呈させた。