皇清開國方略太宗文皇帝 崇徳 四年 1639年

沈志祥の続順公封爵

  • 正月己卯、新附の総兵官沈志祥を続順公に封じた。庚午に崇政殿で宴を賜り、10日後に誥命・印綬・宝石帽・玉帯・鞍馬などを与えた。その部下沈永忠・許天寵ら28人にもそれぞれ世職を授けた。

松山親征

  • 壬寅、太宗自ら明の松山を親征。先に丁酉、武英郡王阿済格・輔国公碩託らを先発させ、石廷柱・馬光遠に砲隊を先導させていた。
  • 阿済格らは大凌河周辺の諸屯を降し、奈曼・烏喇特・扎嚕特・四子・巴林・翁牛特など13旗が翁啓爾琿で来会。大軍は松山に至り、孔有徳・石廷柱・馬光遠の砲撃により東隅の山臺・南楼臺・西南角臺を次々陥落させ、守将らが降伏した。
  • 太宗は自ら城の形勢を視察し、孔有徳・耿仲明・尚可喜の三軍に城門正面からの砲撃を分担させ、五更に前進し攻撃する作戦を指示。城堞を破壊したが明の副将金国鳳が土木で防塞を固め、夜間の突入は失敗した。真特が先登して戦死する犠牲も出た。砲弾・火薬の不足により瀋陽へ補給を求め、孔有徳の献策で坑道攻城が試みられた。

錦州での明援軍撃破と松山包囲の解除

  • 三月庚辰、錦州で明の援軍を撃破し松山包囲を解いた。明の太監高起潜・総兵祖大寿が寧遠から水陸両路で杏山救援に赴いたが、清軍がこれを迎撃し撃破。石廷柱・馬光遠は観民山臺を降し、松山・杏山の官民に降伏を勧める勅諭を重ねて発した。
  • 高起潜・祖大寿がモンゴル・漢兵各300を選び楊震らに率いさせ錦州へ向かわせたが、烏欣口で阿爾薩蘭らに撃破され楊震を捕え84人を斬った。太宗自ら四旗護軍を率いて錦州の山寨を攻め搜剿、徐昌永を斬り祖克勇らを捕えた。
  • しかし錦州の蒙古兵300が夜間に松山城へ入城したため、坑道による攻城を断念。孔有徳・石廷柱らに撤兵を命じ、太宗は錦州西北で駐営した後、武英郡王阿済格の塔山駐守を助勢しつつ連山を略取して帰還した。