皇清開國方略太宗文皇帝 崇徳元年 1636年(五月〜十二月)

五月 内院官制と太廟薦新礼、都察院の設置

  • 丙午、内三院の官制を定め、剛林を内国史院大学士、范文程・鮑承先を内秘書院大学士、希福を内宏文院大学士とし、頂帯・従者の格式は梅勒章京に準じ、羅碩・羅繡錦・占巴・瑚球・王文奎ら学士は甲喇章京に準じることとした。
  • 癸丑、初めて熟した桜桃を太廟に薦める礼を行い、以後新しい果実・穀物は必ず太廟に薦めてから供するよう定めた。
  • 丁巳、都察院を設け、諸臣に対し君主の過失や諸王貝勒大臣の職務怠慢・収賄・非礼を直言・糾弾すること、六部の裁断の公正を監察すること、私怨による誣告を防ぐことなどを訓示した。己巳、大凌河降将の張存仁を都察院承政に任じ(同時に祖沢洪・韓大勲・姜新・祖沢潤・李雲・裴国珍もそれぞれ吏戸礼兵刑工の承政に任命)、張存仁は「自らが創立の官である以上、忠直も邪佞も後任の模範となる」として、私心があれば欺罔の罪に処すよう願う疏を上奏した。太宗は「讒言は信じず親しく見聞したものだけを信じる」と答えた。

六月 征明の出師と都察院への訓諭

  • 庚午、武英郡王阿濟格・饒餘貝勒阿巴泰・額駙揚古利以下の大臣に明征討を命じた。太宗は翔鳳楼に多爾衮・多鐸・豪格・岳託ら王貝勒大臣を集め、行軍は最後まで慎重を期すこと、以前攻略した良郷・固安などの残破城の可否は各自議して事前に決めること、意見が合わなければ阿濟格の裁断に従うこと、俘獲を巡って争わないことなどを諭した。癸酉、堂子に詣で八纛を拝し演武場で諸将を送り出した。前鋒将勞薩らを先発させ、成親王岳託には明の偵察に備えた行軍要領を細かく指示した。
  • 戊子、都察院承政阿什達爾漢が奴僕の主人告発事件を奏上したのを機に、太宗は大小を問わず不時に奏聞するよう命じ、阿什達爾漢・祖可法・張存仁がそれぞれ忠直を尽くす覚悟を述べると、太宗は「正直な者は天地鬼神も動かせない」と答えた。

秋七月 蒙古への恩徳による帰服の効

  • 丙辰、太宗は大学士希福・剛林・范文程に対し、科爾沁部の名馬「杭愛」を甲冑と交換しようとした逸話や、察哈爾汗が強引に馬・鷹を索取しようとした逸話を引き、力で服従させるより恩徳で心服させることの大切さを説いた。希福らは「徳による治は栄え、刑による治は敗れる」と応じた。

八月 子弟への訓誡と部臣の濫造禁止

  • 丁卯、太宗は諸王大臣に対し、太祖の代には八旗子弟が挙って従軍・従猟に励んだが、近頃は妻子の病や家事を理由に調遣を渋る風潮があると戒め、諸王大臣は以後の訓飭を誓った。
  • 甲戌、都察院が工部による違例の家屋拡張・改築が民力を耗していると奏上したため、太宗は諸王の意見も踏まえ該部を厳しく戒めた。同日、蓋州の守臣が副将蔡永年の通敵を疑う匿名の告発状を提出したが、太宗はこれを個人的な怨みによる誣告と判断し、その帖を蔡永年本人に示すよう命じた。

九月 鹻場への援軍と征明凱旋軍の慰労

  • 庚申、先に鹻場守将の正古特・瑭珠が明兵と戦わず退き、負傷した前哨の薩頼を見捨てて帰った罪が法司の裁定で明らかになり処罰されていたが、この月、戸部承政英固爾岱・瑪福塔が朝鮮へ人参を運ぶ途中、明の遊撃四員・兵二千が鹻場に入ったとの情報を得て後を追わせた。太宗は武善・吉思哈に五百の兵を率いて急援させ、守将伊勒慎らは敵船が多数集結しているとして防御態勢(歩兵の陣地展開、居民の避難、河口への伏兵など)を報告、太宗はさらに伊遜・杜度の援軍を続けて派遣したが、明兵は撤退した。
  • 己巳、七月に出征した武英郡王阿濟格・饒餘貝勒阿巴泰らの征明軍を労った。先の報告では、六月末に長城を越え延慶州で会師し、雕鶚・長安嶺の二城を落として七度戦い、人口牲畜一万五千二百三十を俘獲したとあった。九月己酉にはさらに、保定府を経て安州に至るまで十二城を落とし五十六戦すべてに勝ち、総兵巣丕昌らを生擒、人口牲畜十八万を俘獲したとの奏報が届いた。太宗は使者に慰労の勅を持たせ、鞍馬を諸将に賜って出迎えさせた。班師の途上でも明軍の追撃を伏兵で殲滅するなど戦果が続いた。
  • 己巳、太宗は自ら地載門十里まで出迎え、八纛を拝し黄幄で捷報の表文を宣読させ、阿濟格らと抱見礼を行った。太宗は阿濟格の痩せ衰えた姿を見て涙を流したという。総兵巣丕昌ら陣獲の将官も跪拝し、大宴を賜って自ら酒を注いだ。

冬十月 節倹の令と錦州降人への論功

  • 丁丑、太宗は群臣を集め、鞍轡を金で飾ることを禁じ、軍で得た布帛も紡績の労を忘れず節約して用いるよう命じた。
  • 丙戌、先の八月癸未、太宗は阿濟格の山海関出征を助けるため、睿親王多爾衮に右翼兵で中後所から、豫親王多鐸に左翼兵で錦州から入らせることを議定していた。多鐸が錦州に至った際、城内の道人崔応時らが清への内応を企て胡有升を遣わして多鐸軍と密約したが、計画は事前に露見し崔応時は投獄された。それでも胡有升は張紹禎・門世文・門世科・秦永福らと共に来帰し、それぞれ世職を授けられ妻室・冠服・弓矢・鞍馬・銀帛・奴僕・房屋を賜った。多爾衮も冬十月癸酉に班師し、太宗は福勝門で出迎えた。
  • 庚子、太宗は戸部承政英固爾岱・瑪福塔に命じ、穀物を買い占めて値上がりを待つ風潮を戒め、八家にまず糧百石ずつを市場に放出させ、地質に応じた作物選定と勤耕を促す諭を発した。

十一月 諸部戸口の調査と喀爾喀部の来貢

  • 丙午、先の十月丁亥に希福・尼堪・塔布囊達雅齊・阿什達爾漢を察哈爾・喀爾喀・科爾沁諸部へ遣わして戸口を調べ牛录を編成し法律を頒布させていたが、この月、五十家を一牛录とする編成が完了したと復命した。
  • 己酉、喀爾喀部が使者を送り朝貢した。先の九年五月、喀爾喀部は察哈爾部の索諾木台吉に書を託し、清の使者があれば渡すよう言い置いていたが、多爾衮の察哈爾征服の際にこの書が得られ献上されていた。また凱旋の途上、岳託は博碩克図の子俄木布が謀反を企て、喀爾喀に使者を送り土黙特・喀爾喀・明を結ぼうとしていた陰謀を察知し、首謀者の毛罕らを誅殺した。
  • この月、喀爾喀の瑪哈撒嘛諦車臣汗ら大小の貝子が偉徴喇嘛ら四頭目に一百三十二人を率いさせ、通好を願う書とともに朝貢した。太宗は厚遇し、十年二月には偉宰桑を遣わして「太平の道を図るのは汝の見識次第」としつつ明との私貿易を戒める勅諭を送っていた。至って偉徴喇嘛ら使者一行が朝見し三跪九叩の礼を行うと、太宗は宴を賜り、帰国の際には察罕喇嘛に随行させ、雕鞍・弓刀・金銀器皿・貂裘等を厚く賜与した。
  • 辛亥、朝鮮征討に備え外藩蒙古諸貝勒へ徴兵の敕を送り、集結の期日・路線・軍紀(親戚訪問や城堡侵入の禁止など)を定めた。
  • 癸丑、太宗は諸親王郡王貝勒・管旗大臣・都察院官を翔鳳楼に集め、内宏文院の大臣に金の世宗本紀を読ませ、蒙古・漢人からも名君と称えられた世宗の治績と、太祖太宗の法度を廃して漢風に溺れた煕宗・完顔亮の教訓、さらに世宗以後も次第に騎射を怠り哀宗の代に社稷を滅ぼした金朝の興亡を引いて、満洲の衣冠・言語・騎射という旧制を守る重要性を説いた。かつて儒臣巴什達海・庫爾禅らが漢人風の服飾への改変を勧めたが自分は従わなかったこと、寛衣大袖では敵の急襲に対応できないことを比喩を用いて語り、子孫が旧制を忘れず騎射を怠らぬよう戒めた。